「哲学と宗教はどう違うのか」ということを訊ねられた方への回答方法について、
自ら疑問を発して前提を掘り下げ続けるのが哲学で、
与えられた前提を信じてそこから思考するのが宗教、
という考えを先ほど申しましたが、補足があります。
それは、「哲学」も「宗教」も、そして「科学」も含め、かつては一つであり、いずれも一体の「真理を求める(/求めた結果得た知識を説く)知的営為」であったことです。
そして、後世の人間が自分たちの真理探究についての価値観・方法論によって後から三者を分類したこと、です。(現代の語彙・言語によって古人の考え方を知ろうとする際の落とし穴というのは、まさにここにあると言えましょう。)
「哲学」と「宗教」とを分けるのは、近代西洋の学問体系から強くなる傾向で、
それ以前の人々にとっては、「宗教」「哲学」「科学」は分けて考えるものではなかったのではないでしょうか。
西洋に於いて大地が世界の中心であるという認識は神学に裏付けられた「真実」であり、中国に於いて「天円地方」は経書に裏付けられた「真実」であったはずです。
「神」がいる、死後に人の魂は天国か地獄に行く、といった事柄は、それとは次元の違う話ではありますが、「大地が世界の中心である」のと同じくらい実感を伴った「真実」であったはずです。
それが、後から「科学」の発展によって、世界認識の部分が切り離され、
その「科学」の世界認識と衝突しない分野での形而上の思考が「哲学」として独立し、
それ以降は「科学」「哲学」「宗教」は別個のものとして分類されて今に至ります。
そして、これは主に近代西洋人が、自ら「科学」と認めるものと矛盾する自然科学的知識を「迷信」と分類し、「科学」と抵触しない形而上的思考を「哲学」とした上で、「迷信」を含んだ自然科学的知識・形而上的思考を総合したシステムを「宗教」と呼んだのではないでしょうか。
キリスト教も仏教も日本のアニミズムも、それぞれ全く異なるものであるのに同じ「宗教」にカテゴライズされるというのは、謂わば消去法であったためではないでしょうか。
しかし、元来、「科学」「哲学」「宗教」は、当事者の認識としては「真実とされる知識の上で思考する」という点で同じものだったのではないでしょうか(「科学」については「反証可能性」によって他と区別しようとしますが、他に無い特徴とは謂えないでしょう)。少なくとも「哲学」「宗教」両者に限って言えば、ある種形而上の真理・究極・結末を求める営みであることは、古今東西共通のもののような気がします。
ですから、現在、「宗教と哲学」を説明することは可能ですが、そこから「宗教」「哲学」を分けて別々に定義する原則というのは無いと思います。上記のように、ある一つの「真理を求める知的営為」からそれぞれが分裂し、「科学」と「(科学に抵触しない)哲学」と「宗教」とに分かれたという歴史的経緯から考察するのが分かりやすいのではないか、というのが私の考えです。
思い起こせば現在では「哲学」を意味する「Philosophy(愛知)」というのは、古代ギリシアでは今で謂う「自然科学」のような意味を含んでいましたね。そして、プラトンやアリストテレスの「Philosophy」が中世の神学に流れこむのはご存知の通りです。
また、あと500年、1000年もしたら(その頃に人類が続いていれば、ですが)、今の我々の「科学」が、「”電子”とか”原子”なんていう架空の概念を発展させて、宇宙の始まりだとか脳の仕組みだとかについて色々説いていた宗教」と言われている可能性もあるでしょう。
そのくらい、「科学」「哲学」「宗教」の境目というのは曖昧で、原理原則を定めてしっかり分離させているのではなく、自らを「科学」「哲学」と認識した近代学術の立場からイメージを抱いているに過ぎないのです。
その上で、「宗教」と「哲学」とを分けるとすれば、それは区分する原則ではなく、既に分けられてしまった後を眺めてみた場合に見出せる特徴の差異ですが、授業中に申し上げた通り「前提を信じるか、疑うか」ということになるのです。
「哲学」が前提を持たず、常識を掘り下げ続けるというのは、この世で見出しえる前提的知識を論じる知的営為は「科学」に持っていかれており、その後に残っていて、かつ「科学」と抵触しない知的営為が「哲学」になっているからではないでしょうか。
それに対し、「宗教」というのは、元々が自然科学的なものも含めて発展した体系であり、また「結論」を説くことによって人々の「救い」を求める需要に適って布教を進めたものが生き残ってきたという経緯もあり、「前提」を説きます。こうした自然科学的知識(現在の「科学」では「迷信」と見なされるもの)・「前提」をも含めて整合する知的体系として発展して来たが故に、「宗教」はそれらを切り離すことはできないのです。
では、「哲学と宗教はどう違うのですか?」と訊ねられた方に、どのように説明すべきか。
私であれば、「「哲学」も「宗教」も同じく「真理を求める」知的営為であり、本来は一体のものであった。西洋近代に於いて「科学」が分かれ、「科学」と抵触しない形而上学的分野が「哲学」となり、彼らの自意識がその他を「宗教」と呼んだ。しかし、それは「科学」「哲学」サイドから見た見方であり、絶対的な基準に基づいた区分ではない。その分別にとらわれすぎて「あれは宗教だから」「これは哲学っぽい」といった考え方をせず、自らの目でそれぞれの思考の本質を見極めることが重要」とでも説明すると思います。
いかがでしょうか?
自ら疑問を発して前提を掘り下げ続けるのが哲学で、
与えられた前提を信じてそこから思考するのが宗教、
という考えを先ほど申しましたが、補足があります。
それは、「哲学」も「宗教」も、そして「科学」も含め、かつては一つであり、いずれも一体の「真理を求める(/求めた結果得た知識を説く)知的営為」であったことです。
そして、後世の人間が自分たちの真理探究についての価値観・方法論によって後から三者を分類したこと、です。(現代の語彙・言語によって古人の考え方を知ろうとする際の落とし穴というのは、まさにここにあると言えましょう。)
「哲学」と「宗教」とを分けるのは、近代西洋の学問体系から強くなる傾向で、
それ以前の人々にとっては、「宗教」「哲学」「科学」は分けて考えるものではなかったのではないでしょうか。
西洋に於いて大地が世界の中心であるという認識は神学に裏付けられた「真実」であり、中国に於いて「天円地方」は経書に裏付けられた「真実」であったはずです。
「神」がいる、死後に人の魂は天国か地獄に行く、といった事柄は、それとは次元の違う話ではありますが、「大地が世界の中心である」のと同じくらい実感を伴った「真実」であったはずです。
それが、後から「科学」の発展によって、世界認識の部分が切り離され、
その「科学」の世界認識と衝突しない分野での形而上の思考が「哲学」として独立し、
それ以降は「科学」「哲学」「宗教」は別個のものとして分類されて今に至ります。
そして、これは主に近代西洋人が、自ら「科学」と認めるものと矛盾する自然科学的知識を「迷信」と分類し、「科学」と抵触しない形而上的思考を「哲学」とした上で、「迷信」を含んだ自然科学的知識・形而上的思考を総合したシステムを「宗教」と呼んだのではないでしょうか。
キリスト教も仏教も日本のアニミズムも、それぞれ全く異なるものであるのに同じ「宗教」にカテゴライズされるというのは、謂わば消去法であったためではないでしょうか。
しかし、元来、「科学」「哲学」「宗教」は、当事者の認識としては「真実とされる知識の上で思考する」という点で同じものだったのではないでしょうか(「科学」については「反証可能性」によって他と区別しようとしますが、他に無い特徴とは謂えないでしょう)。少なくとも「哲学」「宗教」両者に限って言えば、ある種形而上の真理・究極・結末を求める営みであることは、古今東西共通のもののような気がします。
ですから、現在、「宗教と哲学」を説明することは可能ですが、そこから「宗教」「哲学」を分けて別々に定義する原則というのは無いと思います。上記のように、ある一つの「真理を求める知的営為」からそれぞれが分裂し、「科学」と「(科学に抵触しない)哲学」と「宗教」とに分かれたという歴史的経緯から考察するのが分かりやすいのではないか、というのが私の考えです。
思い起こせば現在では「哲学」を意味する「Philosophy(愛知)」というのは、古代ギリシアでは今で謂う「自然科学」のような意味を含んでいましたね。そして、プラトンやアリストテレスの「Philosophy」が中世の神学に流れこむのはご存知の通りです。
また、あと500年、1000年もしたら(その頃に人類が続いていれば、ですが)、今の我々の「科学」が、「”電子”とか”原子”なんていう架空の概念を発展させて、宇宙の始まりだとか脳の仕組みだとかについて色々説いていた宗教」と言われている可能性もあるでしょう。
そのくらい、「科学」「哲学」「宗教」の境目というのは曖昧で、原理原則を定めてしっかり分離させているのではなく、自らを「科学」「哲学」と認識した近代学術の立場からイメージを抱いているに過ぎないのです。
その上で、「宗教」と「哲学」とを分けるとすれば、それは区分する原則ではなく、既に分けられてしまった後を眺めてみた場合に見出せる特徴の差異ですが、授業中に申し上げた通り「前提を信じるか、疑うか」ということになるのです。
「哲学」が前提を持たず、常識を掘り下げ続けるというのは、この世で見出しえる前提的知識を論じる知的営為は「科学」に持っていかれており、その後に残っていて、かつ「科学」と抵触しない知的営為が「哲学」になっているからではないでしょうか。
それに対し、「宗教」というのは、元々が自然科学的なものも含めて発展した体系であり、また「結論」を説くことによって人々の「救い」を求める需要に適って布教を進めたものが生き残ってきたという経緯もあり、「前提」を説きます。こうした自然科学的知識(現在の「科学」では「迷信」と見なされるもの)・「前提」をも含めて整合する知的体系として発展して来たが故に、「宗教」はそれらを切り離すことはできないのです。
では、「哲学と宗教はどう違うのですか?」と訊ねられた方に、どのように説明すべきか。
私であれば、「「哲学」も「宗教」も同じく「真理を求める」知的営為であり、本来は一体のものであった。西洋近代に於いて「科学」が分かれ、「科学」と抵触しない形而上学的分野が「哲学」となり、彼らの自意識がその他を「宗教」と呼んだ。しかし、それは「科学」「哲学」サイドから見た見方であり、絶対的な基準に基づいた区分ではない。その分別にとらわれすぎて「あれは宗教だから」「これは哲学っぽい」といった考え方をせず、自らの目でそれぞれの思考の本質を見極めることが重要」とでも説明すると思います。
いかがでしょうか?