「権利」という語について、日本国憲法第十二条の「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」、及び丸山真男がそれについて述べた「「である」ことと「する」こと」の一文がよく引かれる(中国学の某先生は「日本人は丸山真男の奴隷から抜け出していない」と言っていたが、そうかもしれない):
「この憲法の規定を若干読みかえてみますと、「国民はいまや主権者となった、しかし主権者であることに安住して、その権利の行使を怠っていると、ある朝目ざめてみると、もはや主権者でなくなっているといった事態が起こるぞ。」という警告になっているわけなのです。これは大げさな威嚇でもなければ空疎な説教でもありません。それこそナポレオン三世のクーデターからヒットラーの権力掌握に至るまで、最近百年の西欧民主主義の血塗られた道程がさし示している歴史的教訓にほかならないのです」
蔡元培のように「権利」をそれそのもので「責任」とした文章ではないが、しかし、それを保持する「責任」は必ず伴う、ということを言っているのである。
思うに、これはなかなか大変なことだ。「民主主義」の正義が説かれて久しいが、それが独裁より優れていることを構造的に説明するのは難しい。そして、近年の投票率の低迷を挙げるまでもなく、権利の行使というのは面倒なものである。
かつて、オクタヴィアヌスが皇帝位を手にした方法は実に賢かった。当時ローマの領土には、完全に支配が実現している領域と、未だ支配が徹底せず統治が困難な地域があった。オクタヴィアヌスは、完全に統治されている部分の支配を元老院にゆだね、支配が難しい場所の統治を買って出た。元老院は、面倒な仕事を全て押し付けることができることを歓迎し、その任務の実現のために、ということで喜んで彼に皇帝権を承認した。これにより、かのカエサルもが失敗した、ローマ共和国の帝政化を成し遂げたのである。
何故、突然こんな話を始めたかと言うと、先日、田村理『国家は僕らをまもらない』を読んだからである。
大学で憲法学の教鞭を取る氏は、日本人には「国家権力=私たちを助けてくれるもの」という認識があまりに強く、「国家権力=放っておくと何をするかわからないから制限しなければならないもの」という前提の立憲主義を学んでいるはずの学生の間ですら、そこから抜け出せていないことを指摘している。そして、それを、自分たち「庶民」は力がないので「誰かが何とかしてくれる」という、「弱者ぶりっこ」の「してもらう主義」と言っている。そして、その文脈によって、近年の憲法改正運動を解している。
著作の中には主義主張がはっきりしており、そして氏の美意識が前面に表れた記述も多く、それらを受け入れるかどうかは人それぞれである。ただ、「弱者ぶりっこ」の「してもらう主義」というのは、まことに的を射た指摘だと思う。
政治の問題に限らず、我々は(少なくとも私には)「自分は時間がないから」「自分はお金がないから」「自分は能力が足りないから」他人任せにすることがある。あるいは、「いざと言うときには○○さんに頼ろう」という具体的標的があるのかもしれない。
もちろん、謙譲や助け合いは美徳でもあるが、悪徳にもなり得るのである。中国人と話すと、「日本人は謙虚だよね」と言われることが多いが、「私は能力がないんです」が「→だから、敢えて口に出しては言わないけれど、いざという時に助けが必要なんです」という文脈の場合もある。「察する」ことが日本人よりも劣る(とは言っても、世界標準より上なんじゃないかと思う)彼らには、これら「言外の請願」は通じず、何かを頼む場合にははっきり言わなければならないが、それは個人主義・責任論の観点からすれば、当然のことである。
丸山の言うように、権利の行使を怠れば権利が失われる危険はある。そして、更に踏みこめば、面倒であっても、権利を持つ者には権利を適切に行使する責任がある。よって、「してもらう主義」は権利を放棄したも同然なのである。
もちろん、我々は政治家や官僚よりも、政治には疎い。だから、能力のある者に任せるべき、というのも一理ある。民主主義が必ずしも優れた政治体制であるとは限らない。
ただ、もしも民主主義を擁護するのであれば、政治に限らず、「弱者ぶりっこ」の「してもらう主義」の精神を抜け出さなければならないのだろう。
かつて漱石が『私の個人主義』で戒めたのは、強者による自由の濫用であった。しかし、今日では、というよりも昔から強者を強者たらしめていたものの一つでもあるが、「弱者ぶりっこ」の「してもらう主義」が問題である。弱者ぶって他人に依存するのに、対等な関係を維持できようはずもない。
個人個人が自己の責任を明らかにし、それを果たすという、個人主義は未だに実現していないのである。
「この憲法の規定を若干読みかえてみますと、「国民はいまや主権者となった、しかし主権者であることに安住して、その権利の行使を怠っていると、ある朝目ざめてみると、もはや主権者でなくなっているといった事態が起こるぞ。」という警告になっているわけなのです。これは大げさな威嚇でもなければ空疎な説教でもありません。それこそナポレオン三世のクーデターからヒットラーの権力掌握に至るまで、最近百年の西欧民主主義の血塗られた道程がさし示している歴史的教訓にほかならないのです」
蔡元培のように「権利」をそれそのもので「責任」とした文章ではないが、しかし、それを保持する「責任」は必ず伴う、ということを言っているのである。
思うに、これはなかなか大変なことだ。「民主主義」の正義が説かれて久しいが、それが独裁より優れていることを構造的に説明するのは難しい。そして、近年の投票率の低迷を挙げるまでもなく、権利の行使というのは面倒なものである。
かつて、オクタヴィアヌスが皇帝位を手にした方法は実に賢かった。当時ローマの領土には、完全に支配が実現している領域と、未だ支配が徹底せず統治が困難な地域があった。オクタヴィアヌスは、完全に統治されている部分の支配を元老院にゆだね、支配が難しい場所の統治を買って出た。元老院は、面倒な仕事を全て押し付けることができることを歓迎し、その任務の実現のために、ということで喜んで彼に皇帝権を承認した。これにより、かのカエサルもが失敗した、ローマ共和国の帝政化を成し遂げたのである。
何故、突然こんな話を始めたかと言うと、先日、田村理『国家は僕らをまもらない』を読んだからである。
大学で憲法学の教鞭を取る氏は、日本人には「国家権力=私たちを助けてくれるもの」という認識があまりに強く、「国家権力=放っておくと何をするかわからないから制限しなければならないもの」という前提の立憲主義を学んでいるはずの学生の間ですら、そこから抜け出せていないことを指摘している。そして、それを、自分たち「庶民」は力がないので「誰かが何とかしてくれる」という、「弱者ぶりっこ」の「してもらう主義」と言っている。そして、その文脈によって、近年の憲法改正運動を解している。
著作の中には主義主張がはっきりしており、そして氏の美意識が前面に表れた記述も多く、それらを受け入れるかどうかは人それぞれである。ただ、「弱者ぶりっこ」の「してもらう主義」というのは、まことに的を射た指摘だと思う。
政治の問題に限らず、我々は(少なくとも私には)「自分は時間がないから」「自分はお金がないから」「自分は能力が足りないから」他人任せにすることがある。あるいは、「いざと言うときには○○さんに頼ろう」という具体的標的があるのかもしれない。
もちろん、謙譲や助け合いは美徳でもあるが、悪徳にもなり得るのである。中国人と話すと、「日本人は謙虚だよね」と言われることが多いが、「私は能力がないんです」が「→だから、敢えて口に出しては言わないけれど、いざという時に助けが必要なんです」という文脈の場合もある。「察する」ことが日本人よりも劣る(とは言っても、世界標準より上なんじゃないかと思う)彼らには、これら「言外の請願」は通じず、何かを頼む場合にははっきり言わなければならないが、それは個人主義・責任論の観点からすれば、当然のことである。
丸山の言うように、権利の行使を怠れば権利が失われる危険はある。そして、更に踏みこめば、面倒であっても、権利を持つ者には権利を適切に行使する責任がある。よって、「してもらう主義」は権利を放棄したも同然なのである。
もちろん、我々は政治家や官僚よりも、政治には疎い。だから、能力のある者に任せるべき、というのも一理ある。民主主義が必ずしも優れた政治体制であるとは限らない。
ただ、もしも民主主義を擁護するのであれば、政治に限らず、「弱者ぶりっこ」の「してもらう主義」の精神を抜け出さなければならないのだろう。
かつて漱石が『私の個人主義』で戒めたのは、強者による自由の濫用であった。しかし、今日では、というよりも昔から強者を強者たらしめていたものの一つでもあるが、「弱者ぶりっこ」の「してもらう主義」が問題である。弱者ぶって他人に依存するのに、対等な関係を維持できようはずもない。
個人個人が自己の責任を明らかにし、それを果たすという、個人主義は未だに実現していないのである。