道草あつめ

日常思いついた由無し事を、気ままに拾い集めています。

「自由」=「義」?

2007-12-06 23:33:31 | 精神文化
 1918年1月5日、蔡元培の保定育徳学校に於ける演説の中に、以下のような言葉がある:

「所谓自由,非放恣自便之谓,乃谓正路既定,矢志弗渝,不為外界势力所征服。孟子所称“富貴不能淫,貧賎不能移,威武不能屈”者,此也。準之吾華,当曰義(「自由」と言われるものは、気まま自分勝手を言うものではなく、正道を定めた後は志を変えず、外界勢力に服従させられないことを言うのです。孟子が「富貴も動揺させることができず、貧賎も心変わりさせられず、威圧・武力でも屈服させられない 」と言っているのが、これにあてはまります。これを我々中華の語に当てはめれば、「義」と言うべきでしょう)」

 また、彼は、同年4月1日に『華法教育会叢書』の序文でも、董仲舒の「正其誼不謀其利(正しい誼(「義」と同義)に基づき、利を謀らない)」が西洋に於ける「自由」に相当すると述べている。

 これらのことから、蔡元培は「自由」を「義」と考えていたと推論できる。そして、その具体的内容は、「正しい志・行いが、外的圧力によって妨げられない」ということであろう。
 彼にとって、「自由」とは、自然権として人間が先天的に有するものではなく、道義的正義を実行するために社会的に必要なもの、というニュアンスによって解されていたのである。そして、それは、様々な改革運動が政治的圧力によって頓挫した清末の経験を踏まえているのかもしれない。


 少し遡って、1912年5月の「中学修身教科書」下篇第三章理想論において、「自由」に伴う責任について言及している。

「其理想,不特人各不同,即同一人也,亦復循時而異(理想は、人それぞれで異なるのみならず、一人の人でも時によって異なる)」
「人之行事,何由而必任其責乎?曰:由于意志自由。凡行事之始,或甲或乙,悉任其意志之自択,而別無障碍之者也。夫吾之意志,既選定此事,以為可行而行之,則其責不属于吾而誰属乎?(人の行為は、何によってその責任を負わなければならないのだろうか。それは、意志の自由によってである。そもそも、行為の始めは、甲というものであれ乙というものであれ、何でもその意志が自分で選択したものによって決まるのであり、そこには他にそれを妨げるものはいない。およそ自分の意志でその事を決め、可能だと思ってそれを行ったのだから、その責任は自分に属さないでいったい誰に属すものであろう)」
「本務之観念,起於良心,既於第一節言之。而責任之与良心,关系亦密。凡良心作用未発達者,雖在意志自由之限,而其対於行為之責任,亦較常人為寛,如児童及蛮人是也(本分という観念が良心によって起こることは、既に第一節で述べた。そして、責任と良心というのも、その関係は密接である。およそ良心の作用が未発達な者については、それが意志の自由の範囲内であっても、その行為に対する責任は、常人に較べて緩やかである。例えば、児童や蛮人がこれにあたる)」

 彼の認識によれば、「自由」が社会的責任を伴うことは明らかなのである。すなわち、正道は絶対的なものではなく、人それぞれにとって異なるものであるが、しかし、各自がその良心に従って自由に選択する以上、その行動・結果には責任が伴う。言い換えれば、自己の良心の自由は、道義的責任と裏表なのであり、むしろ、良心によって道義的責任を果たすために自由が必要、とも言える。
 故に、彼は、「自由」を「義」と言ったのである。