道草あつめ

日常思いついた由無し事を、気ままに拾い集めています。

パンダ

2010-09-07 00:51:25 | その他雑記








パンダを使ったキャラクターは世に溢れているが、
よくよく冷静に見てみるとカワイクナイものも多い。
知人によると「大半はパンダへの愛が欠如している」という。
そこまで言うのは極端だが、
例えば一昔前に流行った「たれぱんだ」などは、本当にカワイイのか、疑問が残る。
ダリの時計の絵にも似た、その妙な質感と非現実感は、
「きもかわいい」ならぬ、「シュールカワイイ」というべきものではあるまいか。
とにかく、パンダを用いたキャラクターを手放しで「カワイイ」と言うことには、
懐疑的にならざるを得ない。


このような目で見れば、新たな視野がおのずと開けてくる。

たとえば、これ。

単体なら見ようによってはカワイイが、
何個も並んでいると多少おそろしげでもある。


これもまた、さらし首のようである。

そして、ここまでデフォルメすると、実にかわいくなくなってくる。


かと言って、パンダをリアルに描くとこうなる。



そもそも、パンダはリアルで見てかわいいものなのかどうか。
かつて、まだ上野公園にパンダが健在だった頃、
真夏なのに冬眠しているような鈍重なパンダを見たことがあるが、
あまりかわいくなかった。

しかし、
テレビで四川のあたりの子供パンダを写した映像を見ると、これは実にかわいい。
ころころもこもこしているのが、ころころもこもこ動き回るのだから、
相当の破壊力だ。

概して哺乳類は、大人よりも子供の方がかわいい。
してみると、パンダのキャラクターに関しても、
子供のパンダを描くべきであって、大人のパンダを描いてはならない。
手足を細長く描くなど、論外であろう。

(パンダが二十四式太極拳をしている柄のTシャツ。これを見ながら練習しようとしたのだが、自分では自分が着ているTシャツを見ることはできない)


自分のコレクションを見渡してみて、かわいくないパンダの写真ばかりあるのは、撮影者の趣味というバイアスがかかっているためではあるが、それにしても、「パンダ=カワイイ」というフィルターを外して見ると、なんとかわいくないパンダが多いものか、と気付かされる。
また、「かわいくないパンダ」という前提で作られたキャラクターすらある。

・京成パンダ



・パンダザラシ(勝手に命名。実際の名称は不明)



・熊猫人



・パンダ仮面





そのようなことを考えていた折、
冒頭の知人がレターセットをくれた。









これはかわいい。

『東京大学東洋文化研究所漢籍分類目録』経部書類に於いて諸尚書緯の処理に誤りがあること

2010-07-04 12:30:59 | その他雑記
東洋文化研究所には、OPACとは別に、漢籍目録データベースがある。
善本画像データベースともリンクされていて使い勝手が良いのと、そもそもOPACに入力されていない漢籍も少なくないので、東文研所蔵の漢籍を探すならこっちの方が圧倒的に優れている。

しかし、一昨日、分類のミスを見つけた。
『璇璣』『考靈曜』『帝命驗』等の尚書緯が全て『尚書中候』と共に「尚書中候」の属に分類されていて、「尚書緯」の属には『尚書五行伝』と『洪範五行伝』しか入っていない。
『尚書中候』というのは尚書緯とされる文献類の中の一種だが、全ての尚書緯が「尚書中候」に属するわけではない。
確認してみると、データベースの基になっている『東京大学東洋文化研究所漢籍分類目録』という冊子体の出版物の段階で既にこのようになっているのだから、もう30年以上間違えっぱなし。

以下は、仮説。
最初の草稿段階では『璇璣』『考靈曜』『帝命驗』及び『尚書中候』はいずれも「尚書緯」に分類した。しかし、その中で『尚書中候』に関連する文献と考えられる『中候握河紀』『中候摘洛戒』『中候雜篇』等といったものが多数あったので、「尚書緯」の項目の下に更に「尚書中候」という子目を設けた。そして、「尚書中候」の子目が終わった後に、すぐに『璇璣』『考靈曜』『帝命驗』等その他の尚書緯を続けた。
しかし、それを整版する段階で、編集者が「尚書中候」を「尚書緯」の子目と理解せず、それぞれ対等の分類項目と見なしてしまった。
その結果、本来は「尚書緯」に分類されるべき文献が、「尚書中候」の中に配置されてしまったのではなかろうか。


図式化すると、こうなる。

【本来の意図】

○尚書緯

 『尚書五行伝』
 『洪範五行伝』

 -尚書中候
  『尚書中候』
  『中候握河紀』
  『中候摘洛戒』
  『中候雜篇』
     ・
     ・
     ・

 『尚書緯璇璣』
 『尚書緯考靈曜』
 『尚書帝命驗』
    ・
    ・
    ・


【結末】

○尚書緯
 『尚書五行伝』
 『洪範五行伝』

○尚書中候
 『尚書中候』
 『中候握河紀』
 『中候摘洛戒』
 『中候雜篇』
    ・
    ・
    ・
 『尚書緯璇璣』
 『尚書緯考靈曜』
 『尚書帝命驗』
    ・
    ・
    ・



なお、蛇足ながら、『尚書五行伝』『洪範五行伝』を「尚書緯」に分類するのも、実はよろしくない。しかし、これは東文研のミスではなく、明代の『古微書』の分類を引き継いだものである。
ただ、そもそも『古微書』の学問的レベルはあまり高くない。やはりこれに従うべきではなかっただろう。

公レット

2010-06-27 23:11:10 | その他雑記
先日のビラ撒きの謝礼なのか、早稲田の演劇博物館の人から、北京人民芸術劇院の来日公演「ハムレット」のチケットをもらった。――ただし、社長と二人で一枚。

とりあえず、社長が前半を観て、途中の休憩時間に忍法替わり身の術を使い、後半を私が観ることにした。
まぁ、二人とも筋書きは知っているから、ちょうど良かったかもしれない。全部観るとかなり長いし。


社長から券を受け取ってロビーに入ると、折悪しく、劇が始まってしまい、そこで少し待つ。そして、再開音楽が終わった後、係員の案内に従って客席に入ったのだが、係員、暗い中でしゃがみながら足元を懐中電灯で照らし座席まで誘導してくれた。さすがは天下の劇団四季! 人件費をふんだんに使っていますなぁ。

座ったところは、左右2つずつ空席。我々同様、演博の招待券の分であろう。招待券を受け取っておいて来ないというのは、ちょっとけしからんなぁ。

劇自体は大変良かった。遠近法効果のある線が引かれた舞台の上で、いろんな人や道具がバタバタと行き交い、とてもパワフル。
そして、中国語というのは、もともとイントネーションが激しい言語のためか、演劇口調にしても全く違和感が無い。

ただ、残念だったのは、すその方にあった、電光字幕板。セリフに合わせて日本語訳が表示されるはずなのだが、明らかに内容が省略されている。タイミングが遅れたり、言葉の順番が違う場面も有った。何より、軽妙な掛け合いをしている最中に、全然その掛け合いが反映されず、ずっと前のセリフを表示したままになっているのが、いとすさまじ。
英語から日本語に訳したものを使っているからだったとしたら、お粗末。中国語の台本をもらって、自前で翻訳するくらいして欲しかった。

ともあれ、そんなこんなで劇は終わり(終幕後の挨拶で、おじぎがてんでんばらばらで全然揃っていなかったのはご愛嬌)、外に出ると、備え付けの喫茶店で社長はディアボロ・ミントなるアメリカのガムのような青色をした飲み物を飲んでいた。
社長は、どうやら、「ミント星人」らしい。そういえば、こないだもミント味のチョコを食べていた。

その後、喫茶店でいろいろ話したような気がするが、
最後に社長が「うちのいとこが、チェロリストでさぁ」と言ったセリフが強烈過ぎて、後は全部忘れた。
そうか、チェロリスト、というのか。


そして、浜松町まで歩いて、電車に乗って、帰宅。

ふと、ポケットに入った半券を見ると、
「北京人芸ハム」
と書かれている。

ハムかぁ。

【質問】「阿蘭(alan)」という歌手はご存知ですか?

2010-05-19 22:32:33 | その他雑記
私は、好きなことを好きなように言う。

今日、突然、知人から人生相談のようなメールが来た。
「人と人とは分かりあえるのかしら」

回答:
「分かりあえません。それぞれ人によって世界の認識も異なるし、それどころか自我の存在すら幻かもしれないのに、他人の心を理解するなど、錯覚に過ぎません。他人の心を理解できないというのも、やはり錯覚です。表面上の言葉のやり取りに矛盾がなくとも、それぞれがイメージする内容は一致していないと思います。
 しかし、錯覚にもそれなりに傾向があり、言葉のやり取りにも表面上の規則性があります。それを踏まえてうまくコミュニケーションを取ることで、互いに心地良い錯覚を抱くことは可能です。「分かりあっている」という心地良い錯覚を共有すること(とはいえ、相手がそれを有しているかは本当は分からないけれど)は、分かりあいと謂えるでしょう。」

先方はこういう話をしたかったのではないだろう。
だが、私は、こういう話をしたかったから、した。愛読書は『荘子』。
おそらく、彼女は私のことを「こいつとは分かりあえない」と思ったことだろう。


そんな自分勝手な私だが、何故か、形而下・形而上を問わず、よく相談を受ける。
先程、PCメールをチェックすると、中国で記者をしている友人から、こんな質問が届いていた(原文は簡体字だが、表示の都合上、繁体字に改める)。

有個問題請教,你是否知道有个藏族的歌手叫“阿蘭”的?聽説在日本還挺紅。又或者你的朋友是否有知道或喜歡這個歌手的?這個問題是代我一个同學問的,他是一家綜合雜誌的記者,只是問日本是不是很多人知道“阿蘭”,别的問題倒是没有……挺奇怪吧?
(ちょっと教えて欲しいのだけれど、「阿蘭」というチベット族の歌手は知ってる? 日本では結構流行ってるらしいんだけれど。それから、友達でその歌手を知ってたり好きだったりする人いる? これは私の学友からの質問で、彼は総合雑誌の記者やってるんだけど、日本で「阿蘭」を知ってる人が多いかどうか、ということだけについて訊いてきて、他には何も訊ねないんだ……なんか変だよね)


【ということで本題】

どなたか、「阿蘭(alan)」という歌手をご存知の方はいませんか?
私はさっきGoogleに教えてもらいました。
もしご存知の場合は、コメントして頂けると助かります。
また、何か好悪などその他一家言あれば、それについても仰って頂けると嬉しいです。

基礎演習

2010-05-08 10:09:34 | その他雑記
今でもあるのかどうか分からないが、かつて私が学部一年生だった時、「基礎演習」なる文系科目があった。
細かい内容はそれぞれの教師の裁量に任されたが、おおまかには、自分の調べてきたことを発表し、議論するという、ゼミ発表の入門編のようなものだった。

その時、我々のクラス(正確にはクラス半分)を受け持った先生が強烈に面白い人で、専門は日本史なのに、ケルトのことを調査しにアイルランドへ行ったり、シベリウスについて論文を書いたり、色々なことをしていた。
授業の最後の日には研究室で飲み会を開いて、そこで「皆様には全員“優”を差し上げたいのですが、東大には“三割規定”なるものがございまして、大変申し訳ないことにそういうわけにはいかないのです。“良”になってしまった残り七割の方にも79点は付けさせて頂きますので、ご容赦下さい」なんて言っていたけれど、夏休みが終わって成績を見てみると、みんな「優」。おそらく、夏から秋にかけて海外に調査に行っていたから、教務課が連絡できないのをいいことに、規則を破って高笑いしていたのだろう。
私は授業の外でもだいぶ仲良くさせてもらい、ギネスやウィスキーを飲みながら、様々な下品なことを教えてもらった。今では名誉教授になっているらしいが、私は彼の不名誉なことをたくさん知っている。が、むしろそうであるからこそ、私は彼を尊敬している。
入学直後から、あそこまでの変人に出会えたというのは、非常に幸運なことだったと思う。

その「基礎演習」に於いて、私は最初の発表を担当した。
入学式の後に飲み会にも行かず、図書館で数日後の発表のために調べ物をしたのが記憶に残っている。
発表の内容は、EU拡大とそれに伴う問題、というようなものだった。ピヨピヨの一年生が一週間で用意したものだから全く大した内容ではなく、ほとんど忘れてしまったし、レジュメももう手元にない。しかし、その中で、一点だけ記憶に残っているのが、ユーロ経済圏について、両替という調整弁のない状態で財政赤字国が存在することに伴う危険について報告したこと。国債が増発され、金利が上がり、投機が集中しても、通貨のレート変動によってバランスを取ることができない、という内容。自分としては非常に重要で興味深い話だと思ったのだが、聞いている人のほとんどが沈没していた。
それから7年後、今まさにその危険が現実味を帯びているのだが、果たしてどうなることやら。

寓話

2010-03-18 00:47:58 | その他雑記
昔、或る処に男がいた。
男は、石を磨くことを生業としていた。
裏の山から岩を削り出し、近くの川でそれを磨いた。

男の磨いた石は、大変素晴らしいものだった。
或いは兎、或いは獅子、或いは菩薩、
何を作っても人々を驚嘆させないことは無かった。

或る時、帝がその評判を聞き及び、男を召した。
男は里を離れ、はるばる都に上った。
そして待つこと十日にして、参内の命が下った。

宮殿は、壁に柱に天井に、ありとあらゆる所に彫刻が施され、
金銀瑠璃翠玉、男が見たことのない財宝に満ち溢れていた。
その中でも最も華やかな大広間の奥に、帝は座っていた。

帝は問うた。
お前は当代一の石磨き師と聞いている。
余の所望するものを作ってくれないか、と。

男は答えた。
某はそのような者ではなく、一介の鄙夫に過ぎません。
しかし、御所望とあらば、敢えて力を尽くしましょう、と。

帝が男に作るよう命じたのは、
龍でも鳳凰でも須弥山でもなかった。
それは、意外にも、鶏であった。

男は、謹んで命を奉じ、退出した。
帝は、男が去るか去らないかの間に、
また別の者を呼び出して、謁見を始めた。

男は里に帰り、鶏を作り始めた。
山に上って岩を取り、川に上ってそれを磨く。
来る日も来る日も、同じことを繰り返した。

作りは壊し、作りは壊し、
そうして五年の歳月が過ぎた。
そんな或る日、遂に満足の行く鶏が完成した。

喜ぶのも束の間、男はすぐに石の鶏を持って都に上った。
拝謁を願い出て、それが許されるのを待った。
そして待つこと一月にして、参内の命が下った。

宮廷は、前にも益して大きく華やかで、
広大な空間の中に、七珍八宝が満ち溢れていた。
そして、やはり最も華やかな大広間の奥に、帝は座っていた。

男は帝の前で、石の鶏を取り出した。
目といい、口といい、頚といい、羽といい、足といい、
その姿形に、群臣は驚きの声を漏らさずにはいられなかった。

しかし、帝は云った。
これは確かに素晴らしい出来である。
だが、もっと佳いものを作れないか、と。

男は云った。
某のようなものにこれ以上のものを作れるかは分かりません。
しかし、御意に沿えるよう、力を尽くす所存にてございます、と。

そこで、帝は男にまた鶏を作るように命じた。
男は、その命を謹んで奉じ、退出した。
帝は、男が去らぬ間に、別の者の謁見を始めた。

またも男は鶏を作る毎日となった。
山に上って岩を取り、川に上ってそれを磨く。
来る日も来る日も、同じことを繰り返した。

そうして十年の歳月が過ぎた。
いつの間にか山は低くなり、川は浅くなった。
そんな或る日、遂に満足の行く鶏が完成した。

今度こそ帝を満足させられると思い、
男はすぐに石の鶏を持って都に上った。
そして待つこと三月にして、参内の命が下った。

宮廷は、もはや天を突き地を覆い尽くすが如き壮大さで、
そのありとあらゆる全てが美しく光り輝いていた。
そして、相変わらず大広間の奥に、帝は座っていた。

男は帝の前で、石の鶏を取り出した。
羽の柔かさ、血の鮮やかさ、瞳の透明さ、
群臣は言葉を失って、立ち尽くすしかなかった。

しかし、帝は云った。
これは確かに素晴らしい出来である。
だが、もっと佳いものを作れないか、と。

男は云った。
某のようなものにこれ以上のものを作れるかは分かりません。
しかし、御意に沿えるよう、力を尽くす所存にてございます、と。

そこで、帝は男にまた鶏を作るように命じた。
男は、その命を謹んで奉じ、退出した。
帝は、男が去らぬ間に、別の者の謁見を始めた。

またも男は鶏を作る毎日となった。
山に上って岩を取り、川に上ってそれを磨く。
来る日も来る日も、同じことを繰り返した。

そうして十五年の歳月が過ぎた。
いつの間にか山はなくなり、川は流れが変わった。
或る日、遂に満足の行く鶏が完成した。

その鶏は色も形も全てが完璧で、
そして、何より、動き回って餌も食う。
本物と全く変わらないものであった。

これで必ず帝を満足させられると思い、
男はすぐに鶏を抱いて都に上った。
しかし、今度は待たされることはなかった。

帝は、既に崩御していた。
都で聞くところに拠れば、つい先日だったと云う。
とにかく、鶏を欲した帝は、もういなくなったのだ。

男は、都を離れ、里に戻った。
それ以後、二度と石を磨くことはなかった。
そして、一羽の鶏と共に、ひっそりと余生を送った。

私説・創世記

2010-03-17 23:04:11 | その他雑記
造物主は、ある日、それぞれの海の魚・空の鳥・地の獣を造った。

魚は泳ぎ、鳥は飛び、獣は走る。

――なんと華やかではないか。

それぞれに異なる動きをさせるというアイディアはなかなかに冴えており、造物主はご満悦だった。



しかし、やがて、それぞれの生き物は不満を訴えるようになった。

魚はいう、自分も陸を走れるようになりたい、と。

鳥はいう、自分も水を泳げるようになりたい、と。

獣はいう、自分も空を飛べるようになりたい、と。

また、魚同士でも、鳥同士でも、獣同士でも、他の者の速さや強さや美しさを羨み、甚だしい時には嫉むようにもなっていた。



造物主は彼らに述べた。

それぞれにそれぞれの良さがあるから良いのではないか。

自分が他の者にない良さを持つのだから、他の者は自分にない良さを持つのだ。

それで良いではないか。



続けて述べた。

もし、全ての者が全ての良さを持っていたら、それはもはや良さではない。

そして、魚は魚であることを失い、鳥は鳥であることを失い、獣は獣であることを失う。

だから、お前たちの願いを聞くことはできない。



生き物たちは、口をそろえていった。

仰るとおりです。全ての良さを得ることは諦めましょう。

しかし、他の者に劣り続けるということは、我慢ならないのです。

ですから、何とか我々を平等にして頂きたいのです。



造物主は困惑した。

それぞれ特徴こそ違えど、もとより平等に造ったのだった。

しかし、彼ら自身は、平等を不平等と感じてしまうのだ。

それでは、どうすれば彼らが納得できる平等を実現できるのか。

解決法は一つある。しかし、あまり気は進まない。



造物主は生き物たちに語りかけた。

お前たち全てを間違いなく真に平等にすることはできる。

しかも、魚も魚のまま、鳥も鳥のまま、獣も獣のままだ。

ただ、お前たちがそれで今より幸福になるとは思えない。



生き物たちは、口をそろえていった。

少し不幸になろうとも、構いません。

私たちは不平等が耐えられないのです。

どうか、真の平等を下さい。



こうして、造物主は、死を造った。

生きとし生けるもの全てに平等に訪れ、平等の無へと導く。

海を泳ぐものも、空を飛ぶものも、地を走るものも、強きものも弱きものも、速きものも遅きものも、美しきものも醜きものも、

その生の最後に得るものは同じく無。



これは誰にも分かる平等であった。

しかし、すぐに、誰も平等を感謝しなくなった。

生きるのに忙しくなり、そのようなことを考える余裕がなくなったのだ。

そして、誕生と死去の繰り返しの中で、やがて、造物主のことを記憶するものもいなくなった。

SHIBU2にて

2010-02-16 12:27:20 | その他雑記
いきなり余談だが、私は「SHIBU2」を「シブシブ」と呼んでいる。


先週献血をしたら、
「70回目だから記念の盾を差し上げます」と言われたから、
「いりません」と返答しておいた。

ガラス製で少し大きめだから、
希望者には宅配するらしい。
そんなもの、受け取るだけめんどくさいし、
家に飾ったって仕方ないだろう。

「そんなものよりも、10・30・50回目に頂いた、ガラスのおチョコが欲しい」と言ったら、
「それは次は100回目に差し上げるんですよ」と言う。

何かおかしな話だ。
「献血ありがとう」なんていう盾を誰かが欲しがるとは思えない。
10回目にもらえるお猪口はとても酔いものなのに、
70回目にもらうのは変な盾(見たことないけれど)。
しかも、変な盾の方には宅配サービス付。
そんなのに金をかけるくらいだったら、お猪口が欲しい。

そして、10・30・50回目にもらえるものと、
100回目になってようやくもらえるものが、
同じお猪口だというのも少し変な話ではある。


まぁ、私は映画を見るためだけに行っているのだから、
何でも良いのではあるが。



そういえば、今日、問診の医者に、
「いつも検査結果の通知を希望されていないのですが、どうしてですか」
と言われた。
別にコレステロール値とか興味ないし、そんなのを送るための紙と郵便代がもったいないから断っているだけなのだが、
医者は、
「これは献血して頂いている皆様へのサービスであって、あなたの権利なんですよ云々」
とおせっかいを言う。
とにかく要らないものは要らないのだと言うと、話は終わった。

とにかく、私が献血に行くのは、
困っている人たちを助けるためでもなければ、「献血ありがとう」という言葉の入ったグッズが欲しいわけでもないし(お猪口はちょっと欲しい)、健康診断のためでもない。
映画見て漫画読んで菓子を食うためである。
献血ルームというのは、少しサービス過剰というか、方向性が間違っているような気がする。
たまに無料占いコーナーを開くこともあるらしいが、これも不要。
占い師を呼ぶお金があったら、ドーナツを増やして欲しい。


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「ベンジャミン・バトン」を見終わった。
これまでの2回で、かなり後ろの方まで見ていたから、
今回はすぐに残りを見切ってしまい、
ボーナストラックを見ていた。

この映画は、どうやら原作物らしい。
そして、スピルバーグやらトムクルーズやら、
過去にいろんな人が映像化に挑んで失敗してきたとか。

面白いのは、原作の小説自体はごく短いもので、
あまり華やかな飾りつけがないので、
映画では、色々な人が青春の思い出を出しあって、
それを脚本に加えていったらしい。

そうか、そうすると、あのシーンやあんなシーンも、
実は誰かの実体験に基づくものだったのかもしれない、
と思うと、ちょっとおかしい。
しかし、
どんどん若返る男、という非現実的な設定なのに、
個々のエピソードに現実の生命を感じたのは、
まさにこのためだったのだろう。

魂の軽さ

2010-01-26 21:02:34 | その他雑記
裏の駐車場に住んでいたノラ猫が、今朝、死んでいた。
市役所に連絡して、引き取ってもらった。
その後どうするのかは詳しく聞かなかったが、
どうも専用の場所があるらしい。

段ボールに入れる際に死体を持ち上げたのだが、
意外と重い。

葬式で人間の死体を持った時も重かった。
動かなくなった死体というのは、生前よりも重く感じるものだ。


「魂の重さは21g」という都市伝説があったが、
私が設定を作るなら、「-21g」にするだろう。
少なくとも、空気よりは体積あたりの重量を軽くする。

「魂魄」という考え方では、
死後、「魂」は天に昇り、「魄」は地に沈むという。
ならば「魂」は空気より密度が低くて然るべきだし、
その方が死体の重さも説明できる。
「魂は天国に行く」という言い方でも、
やはり魂が軽いに越したことはないだろう。



そういえば、まだ見終わっていないが、
「ベンジャミン・バトン」には、人の死が数多く描かれている。
淡々としているが、それがまたリアルに迫ってくる。
どんどん若返る男という数奇な設定というよりも、
周囲の死の方が主題なのだと分かってきた。

話はそれるが、
ブラピは老人を演じている方がハンサムに見える。

もっとそれるが、先日、「Mr. and Mrs.スミス」を見た。
調べてみると、この映画がキッカケで、主演俳優二人は本当に夫婦になったらしい。そして、つい最近破局したとかしないとか。

結婚も浮気も離婚も、生きていてこそである。

粘菌

2010-01-24 17:52:20 | その他雑記
粘菌の特性「交通網整備に」(中国新聞) - goo ニュース
ただ、人間の作った交通網は、一度に体系的に計画して作り始めたものではないというのと、作った後に位置を変えられるものではないから、粘菌に比べるとそもそも条件が悪い。

粘菌というとついついナウシカを思い出す。何となく得体のしれない、我々とは全然違う構造の生き物の代表格のようなイメージ。湿度が高い地域では、ごく稀に、ある日突然庭にどばーっと色鮮やかな粘菌が広がっていることがあるとか。いきなりそんなのを見たら、エイリアンかと思うだろう。実際、『太平広記』などに記述のある「太歳」(地中から掘り出される肉塊)は、巨大な粘菌だったのではないか、という話もある。

しかし、その効率的なシステムはやはりすごい。粘菌コンピュータなるものの構想もあるという。「賢い」という表現は適当ではないだろう。むしろ、一旦どばーっと広がるという絨毯爆撃的な力技を用いて、最終的に最短経路に集約するのだから、余計なことを考える知能がないからこそできるのだと言える。徹底して一つの行動原則を遵守するのだから、迷いや矛盾がなく、一貫したシステムを実現するのではないだろうか。

こんなサイトもある。大学が作ったにしてはしゃれている。
南方熊楠にも見せてやりたいものだ。
粘菌生活