みなさんのコメントにもあるように、こういう質問や疑問を持つとJWはすぐ「知る必要がない」と言いますが、
かなりの確率で「知る必要がない」と言われる内容ほど大切だったり、JW教義上危険エリアだったりするんです。
(1914年の予言の年代計算はするべきではなかったし、大切なのはキリストとエホバの愛であって大切なことではない。とか。)
創世記の疑問も、ここがつじつまが合ってなければ聖書のほかの部分もそれほど大切ではないということですよね。
たとえば、「公正」とか「宇宙論争」なんですが、
最近30年熱心なカトリックだった人とちょっと話す機会があって、その時ちょっと開眼したんですが、(笑)
彼は「三位一体より自分にとって難解な教義はキリストの購いだ。なぜ、神なのに
ただ単に許さないで、もう一人の命が必要なのか。」
って言ったんですよ。
はいはいはい!それ思ってました~!!
公正って一体なんなんでしょうね?人間には分からない神の特質です。
公正って目には目を、歯には歯をという意味でしょうか。
人間なら普通、たとえば子供が犯罪者に殺されて、その犯罪者が死刑になろうとも
「そんなことしても○○(子供の名前)は帰ってきません」っていいますよね。
命には命だから、もうひとつの命が失われたからそれでOK、っていう人いないし、犯人が憎いから殺してやりたい、とは思うだろうけれど、いざ人間を前にして、その人を殺そうとする人がどれだけいるだろうかな。究極には許すことだって出来る。
って思うと、、、神さまってその点においては人間より劣るように聞こえるじゃないですか。?
エホバ神には許すことが不可能、なのかな、
「公正」という特質のせいで?
それから、人間が神の特質を受け継いでいるとしたら、この公正という特質は全然受け告げられていないと思う。良い意味でも悪い意味でも。
私はあんまり公正なんて特質を身につけたくないです。
宇宙論争に話を戻しますが、
ものみの塔ではアダムとエバを殺さず、リセットしてやり直さなかった理由は
神の特質にあり、公正だったと言っていたと思います。つまり、他の選択肢は無かったと。
まあ、そういわないと今の世の中の悪は全てエホバのせいになっちゃいますもんね。エホバが判断を誤った結果だというふうに。神は公正だからその選択肢しかなかったというと、
エホバに責任はなくなる。
神は公正だからイエスが犠牲の死を遂げなければならなかった。
というふうに。
決して父が子の命の犠牲を欲したわけではないのだ。というふうに。
わからない。
だから、何で??
なぜ、アダムとエバは生きながらえてこの世を作らなければならなかったのか、なぜイエスは犠牲にならなければいけないのか。
公正とかって言う事により、
聖書のいうことはつじつまがあっているように見えるけど、
先回書いたように、ちょっと事がずれるとつじつまが合わなくなってくるんです。
アダムがエバに倣って罪を犯したのは非常に都合がいいことになってします。ペアで追放すればいいだけだから。
じゃあ、アダムとエバが忠実で、その子供たちの誰かが、いつか
その実を食べないとも限らない。
限らないどころか、人間が多くなれば多くなるほど誰かが罪を犯す確率は多くんるわけで、アダムが残ろうが一緒に罪を犯そうが、
やっぱり完全族と不完全族に世界が分かれることになったのか???
キリストではない誰かが不完全族のために犠牲になろうとも、一方でまた完全族の誰かが罪を犯す。
地球をハルマゲドンで滅ぼし、一掃してリセットし、新たにラクエーン!みたいな
シンプルな解決策はなくなる、、ことになる。
こう考えると、、公正、イエスの犠牲自体が怪しく思います。
もう一度、、、これ、疑問。エホバは完全なのに、どうして失われた命を単に戻すことが出来ないのか。
その能力は完全な命が「犠牲」としてささげられるまで「ホールド」されているの?だとしたら、どこの誰がホールドしてるの?宇宙の政府機関かなんか?エホバは全能にして、、ある状態がそろわないと動けない、、そんなロック機能でもあるのでしょうか。
人間は単に物事を許すことが出来る。でも神はできない?
別に、、冒涜してるわけではなくって、、疑問です。
かなりの確率で「知る必要がない」と言われる内容ほど大切だったり、JW教義上危険エリアだったりするんです。
(1914年の予言の年代計算はするべきではなかったし、大切なのはキリストとエホバの愛であって大切なことではない。とか。)
創世記の疑問も、ここがつじつまが合ってなければ聖書のほかの部分もそれほど大切ではないということですよね。
たとえば、「公正」とか「宇宙論争」なんですが、
最近30年熱心なカトリックだった人とちょっと話す機会があって、その時ちょっと開眼したんですが、(笑)
彼は「三位一体より自分にとって難解な教義はキリストの購いだ。なぜ、神なのに
ただ単に許さないで、もう一人の命が必要なのか。」
って言ったんですよ。
はいはいはい!それ思ってました~!!
公正って一体なんなんでしょうね?人間には分からない神の特質です。
公正って目には目を、歯には歯をという意味でしょうか。
人間なら普通、たとえば子供が犯罪者に殺されて、その犯罪者が死刑になろうとも
「そんなことしても○○(子供の名前)は帰ってきません」っていいますよね。
命には命だから、もうひとつの命が失われたからそれでOK、っていう人いないし、犯人が憎いから殺してやりたい、とは思うだろうけれど、いざ人間を前にして、その人を殺そうとする人がどれだけいるだろうかな。究極には許すことだって出来る。
って思うと、、、神さまってその点においては人間より劣るように聞こえるじゃないですか。?
エホバ神には許すことが不可能、なのかな、
「公正」という特質のせいで?
それから、人間が神の特質を受け継いでいるとしたら、この公正という特質は全然受け告げられていないと思う。良い意味でも悪い意味でも。
私はあんまり公正なんて特質を身につけたくないです。
宇宙論争に話を戻しますが、
ものみの塔ではアダムとエバを殺さず、リセットしてやり直さなかった理由は
神の特質にあり、公正だったと言っていたと思います。つまり、他の選択肢は無かったと。
まあ、そういわないと今の世の中の悪は全てエホバのせいになっちゃいますもんね。エホバが判断を誤った結果だというふうに。神は公正だからその選択肢しかなかったというと、
エホバに責任はなくなる。
神は公正だからイエスが犠牲の死を遂げなければならなかった。
というふうに。
決して父が子の命の犠牲を欲したわけではないのだ。というふうに。
わからない。
だから、何で??
なぜ、アダムとエバは生きながらえてこの世を作らなければならなかったのか、なぜイエスは犠牲にならなければいけないのか。
公正とかって言う事により、
聖書のいうことはつじつまがあっているように見えるけど、
先回書いたように、ちょっと事がずれるとつじつまが合わなくなってくるんです。
アダムがエバに倣って罪を犯したのは非常に都合がいいことになってします。ペアで追放すればいいだけだから。
じゃあ、アダムとエバが忠実で、その子供たちの誰かが、いつか
その実を食べないとも限らない。
限らないどころか、人間が多くなれば多くなるほど誰かが罪を犯す確率は多くんるわけで、アダムが残ろうが一緒に罪を犯そうが、
やっぱり完全族と不完全族に世界が分かれることになったのか???
キリストではない誰かが不完全族のために犠牲になろうとも、一方でまた完全族の誰かが罪を犯す。
地球をハルマゲドンで滅ぼし、一掃してリセットし、新たにラクエーン!みたいな
シンプルな解決策はなくなる、、ことになる。
こう考えると、、公正、イエスの犠牲自体が怪しく思います。
もう一度、、、これ、疑問。エホバは完全なのに、どうして失われた命を単に戻すことが出来ないのか。
その能力は完全な命が「犠牲」としてささげられるまで「ホールド」されているの?だとしたら、どこの誰がホールドしてるの?宇宙の政府機関かなんか?エホバは全能にして、、ある状態がそろわないと動けない、、そんなロック機能でもあるのでしょうか。
人間は単に物事を許すことが出来る。でも神はできない?
別に、、冒涜してるわけではなくって、、疑問です。
例えば、ホメロスの叙事詩のイリアスなんて、なんでトロイ戦争が起きたかと言えば、単に人口が増えたから、減らすためが目的だと神様言ってるし・・・
聖書の特に旧約の部分の神様も、そういう観点で見ていくと、案外自分ルールの気まぐれな神様に思えるんですよね(爆笑)
それを、現代になって一生懸命、見えないものを見ているかのごとく信奉している「エホバ」の証人は、僕から言わせれば、ギリシャ神話のゼウスだとかを一生懸命信奉してるかにしか見えませんね。
かといって、聖書の価値自体を蔑んでるわけではないですからね♪
で、JWの代弁をすると、許されるかどうかの基準は完全か不完全かにある、というのが教理ですよね。完全な存在(たとえば罪を犯す前のアダム)の罪は許されない。しかし彼の子孫の不完全な人間は罪を犯しても許してもらえる。キリストの千年統治のあいだに人類は再び完全になるので、そのあとの最後の試みで罪を犯した人は滅びる。
(しかし、ハルマゲドンで滅びる人は不完全なのに復活はない。このあたりの教理はどうなってましたっけ?)
JWをやめたあともキリスト教の神っぽいのを信じるか、無神論者になるか、人それぞれですよね。僕は無神論者になり、生物学・哲学・考古学など「この世の知恵」を勉強したので、昔の人の作ったを神話を客観的に余裕を持って眺められるようになりました。こういうチョイスもあるということで・・・。
人間臭くて好きですが、JWの中には不完全さの
始まりを作った奴だと恨んでいる人結構いますよね。
こんな病気になるのはアダムのせいだ~とか言ってさ…
それよりか解らないのはやっぱ、エホバとサタンだよね。
元はと言えばサタンがエホバへの愛と認識を培う事に失敗して神の主権の正当性に意義をとなえたって事に
なってるけど、人間を巻き込まないで欲しいね。
あんたら霊者の間で話しあえよって言いたいね。
今はエホバもサタンも作り物、
聖書も作り話、
まっいい事も書いてあるが、それはそれで見習って
なにも一字一句調べる必要もないし
好きな人はやって下さいって、そんな感じですね。
先日はJW両親(長老で二人とも開拓者)と話し合いました。肝心なところはごまかすか黙ってしまいます。それに例えば「肉食恐竜はいたか?」の質問にはものみや目ざめから答えを持ってきて、挙句の果てには「これらに書いていないから肉食恐竜はいなかった」と言い出すしく始末でした。子供の頃は理性的だと尊敬していた人がこの有様でびっくりでした。
私は妻と話し合って、お互い(臭い科白ですが)愛し合っていて、子供もいることもあり離婚は今のところ考えないことにしました。そして、JW活動は無期限で全てやめることにしています。子供の手前、食事の前のお祈りくらいは「形式的に」しています。概ね希望通りになりました。
PW様もうまくいくよう祈っています。
私も、聖書の神は全能でもないし人間にも劣っているんじゃないかと思います。
アダムとエバが反逆しなくても、いずれ誰かが反逆したのは間違いないですよね。
だから、そもそもが「完全な人間で地が満ちる」なんてことすんなり行くはずがありません。
でも神にとっては、人間の反逆は予想外だったと。
これはどう考えても神様の考え不足です。
そもそも反逆できるように作ったのは神様だし。
「知る必要がない」、「神のお考えは計り知れない」とかよく言うけど、それって「それ以上考えると間違いに気付くからやめなさい。」と言ってるのと同じですよね。
真面目に考えると、自身の正しさを立証することにしか関心のない傲慢な神というイメージしか沸いて来ないですね。
●メディア・ペルシャの王様は自分で決めた法律も取り消せない
ダニエルの時代の出来事ですが、ワンマンな支配者と法律を守る支配者。どちらに敬意をはらえますか?
神はご自分のポケットマネーから最も高いお金を払ってくださったと思いますが?
愉快なへなちょこぽちさんこんにちは!
肉食恐竜は長年、考えさせられる疑問でしたが、本当に肉食ならハイエナみたいな掃除屋の恐竜ではいかがでしょう?殺さず、肉食でお掃除。
あくまでお花畑JWですから皆さん気をわるくしないでね
私個人は,自分の人生経験から思うのは,「疑問そのもの」よりも,その疑問を提起した人間なり,それに答える人間が「ポジティブかどうか」のほうが重要だと思ってます。
アダムが罪を犯したのに何でイエスが死なねばならないのか。それも4千年後に。
イエスが死んだら何で人類の罪が許されるのか。イエスの血の価値が適用されるってどういう事?
も~意味不明でした~。
大学の統計学で「測度論」という難し~い数学で頭を痛めた経験がありますが、贖いはそれよりもず~っと難解な教理でした~。
何のことはない。要するにこじつけ教理で筋道も何にもない教理だから難解なんだなあということ。
>possibleさん
まったく無批判にエホの教理を植え込まれてきたぼくらが、聖書の「不謬性」にあらためて疑問を持つのは建設的ですよ。間違った教えに従って生死を賭けて生きる事はめっちゃ無謀です。「神に対する強い信仰」がそのまま「ポジティブな考え方」とは限らないですよ。少なくとも元JWのぼくらにとっては「神に対する強い信仰」は非常にネガティブな考え方だったから。キリスト教の顔ををまず立てたいというのは個人的な感情でしかないです。それはそれで個人的な心情の問題ですから良し悪しで判断することじゃないですけどね。でも自分がどう生きていくかを考える時には感情よりもまず客観的に評価してみることの方が重要です。客観的であるためにはこれでもかこれでもかと批判してみて、それからもっとも確率の高い結果を取るというのが科学的客観的な姿勢です。
話は拡散しますが、宗教に頼る人と頼らない人との違いは「絶対」を追い求めるか「相対」であることを受け入れるかの違いです。科学の世界に「絶対」はないです。みんな相対的なんです。ぼくらが普通に信じている科学事実というのは絶対的な法則ではなくて、特定の条件下で最も確率の高い値であるという事です。だからキリスト教を放棄したからいい人生が送れるという事でもないし、キリスト教を信じるということがポジティブな事だという事でもないです。ぼくらは少なくともエホの教理のアホさ加減に愛想をつかせたので、生きたい様に生きようというんです。絶対というものがないんだから、ぼくらにとってポジティブというのは自分の望むように信じ、望むように生きたいという事が重要なんです。オタクのコメントはなんだかKYなのでついムキになって返答しましたが、こういうブログが癇に障るんならもう来ない方がいいよ。ぼくらもそのほうが気持ちいいんですよ。まるでこういうブログを書きまた読むことがなにかネガティブであるかのように嫌味を言われるのは不愉快なんですよ。反論したいんならむしろ「疑問そのもの」を問題にするべきだからね。んじゃ。
それ以上考えると、間違えや矛盾に気付くから止めなさいという警告みたいなものだったのかな。
一つ疑問が解決されました。
ありがとうございました(笑)