パーフェクトワールド

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”不可能”

2007-03-30 02:02:44 | ●日々のJW生活報告
今いる会衆の話をしたいと思います。

良かったと思うのは、JWの教義の間違いに気付いた時、この会衆だったこと。

すごく嫌な会衆なんです。(笑)

だからそっちのほうの未練がない。これが生まれ育った会衆とか、とてもアットホームな会衆とかだとやはり情に動かされてしまう場合がありますよね。もちろんそれでとどまる決意はしないだろうけど、心はもっと痛むかな。と。


まず、とにかくネガティブ。

たとえば演壇からの話は神、キリストの愛というトピックよりも、罰、規則といった方向へゆく傾向にある。

最近は気付いてきたけど、主催と周りのキーパーソンがネガティブ派だと、講演に来る人もちょっと変な人ばかり。

多分類は友を呼ぶ、というんでしょうか。

例えば奉仕の集会で、奉仕の仕方や紹介の言葉を取り上げるかわりに、女性はどのように兄弟の前で奉仕したらいいか、かぶり物はどんな時必要か、急に研究がはじまったときはOK?とか、、どこからが研究?(だからかぶりものをしなければならないか)

そんなことばっかり。

他の会衆ではこんなこと話題にも登らなかったけど、奉仕の集会なのに45分くらいかけて熱く討議。

この長老、口癖が「不可能」。

「王国会館は崇拝の場所、他の目的に使うのは不可能です。」

とか、

伝道者になっていない研究生が奉仕に参加したいといいだしたら(大体言わない)どうするか。という質問では

「奉仕は神聖な特権。伝道者に承認、または伝道者になる直前の訓練以外だったら不可能です。」

とか。(笑)

研究したいって人がいるだけでありがたいっていうのに、まだそんな高飛車な態度でいる長老。

大体神に不可能はないってかいてあるのに、「不可能連発」で冒涜的だと私は思う。

会衆ピクニックも日本の昔の会衆のように、劇を用意させられたり、賛美の歌合唱会。ちょっと”世”の音楽で黒人の姉妹がダンスしようものなら、白人長老妻が背後に近づきそっとたしなめる。(笑)

しかも野外劇は雨が降り出したのに決行。

次は絶対いかない!!!(笑)


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疑問8 排斥は愛ある処置?

2007-03-29 22:03:58 | ●教理への疑問
排斥という言葉を洞察で調べて見ると、その項はなくって、代わりに追放,追い出すという項目がでてくる。

そこには

「非行者を共同体もしくは組織における成員としての立場および交わりから裁定によって放逐する,すなわち排斥すること。宗教社会にあっては,これはその社会の本質的な原則ならびに権利であり,国家や地方自治体が行使する,死刑や追放,除籍といった権限に類似しています。」(洞察より引用)

とかいてあります。

死刑といった権限に類似。

そう、その通りですよね、社会的、または感情的、そして信仰上の死刑。

ところがエホバの証人は「排斥は愛ある処置」という。

実際聖句には排斥者を再び受け入れるという聖句はなく、出版物ではだいたい変わって「放蕩息子の例」がでてきます。

または「過度に悲しみに飲み込まれないよう」受け入れる、という聖句などを出してきます。が

結局はお得意の聖句の切り張りモザイク。


聖書にある排斥は、そう、ストレートに腐敗したものを取り除くというもの。

モーセの律法下での死刑と同じ。

以下、洞察よりの引用です:

律法下では,切り断つという罰を執行するには,少なくとも二人の証人の口によって証拠が確立されねばなりませんでした。(申 19:15)それら証人たちには,有罪とされた人に最初に石を投げることが要求されました。(申 17:7)このことは,神の律法とイスラエルの会衆の浄さに対する彼らの熱心さを実証するものとなり,偽りの,いい加減な,あるいは軽率な証言を抑止するものともなったことでしょう。(引用終わり)

それならそうと

なぜ、変に「愛ある」処置などとすり変えたりするんでしょう。

(ところで、上の引用は”証人”も死刑に加わる、だから軽い気持ちで証言しないようにっていいたいんでしょうが、相手が死刑になるんです。当たり前だと思うけど。)



協会は弱虫なんですね…。


信者に殉教をたきつける一方で、自分たちは周りから悪く言われることが怖い。

伝道者には「家の人や研究者から排斥についてのトピックをだされたら、はじめの段階では話さないように」と指示されます。

愛ある組織の愛ある処置なら

愛の印として最初から話てもいいと思います。


あと…余談ですが、排斥者が悔い改めた時の試験期間みたいなのは、聖書的根拠ゼロですよね、1年まてとか3ヶ月でいいとか、

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エホバの証人の家をみて思うこと

2007-03-28 02:24:43 | ●海外のJW事情
ずっと昔からJW交わりが嫌いでした。海外にきてから一層それが強くなった気がします。

というのも、JWの家、アパートにいくとどうしても気がめいるんです。

豪華な家に住んでないとか、狭いアパートだから、とかそんなんじゃなくって、お金とか趣味とかに関係ないところで憂鬱になる何かがある!

なんだろう…と思っていたんですが、最近気付きました。

JWの家って物がない!

日本のお家だと、何せ国土が狭いので大体家やアパートの大きさは決まってます。そうなるとJWは書籍が多いですから、どうしてもごちゃっとした感じに部屋がなる。ところがアメリカだとアパートなんかも広い。リビングルームに本を置く習慣がないので、普通、書籍一式は違う部屋に置かれます。

と、するとリビングルームに置くものがないのが、JW。テレビもないし、霊的に王国第一にしていれば家具に凝るお金もない。コレクションは「過度に時間とお金をとる憂慮すべきもの」だからコレクションとかしてる人もすくない。

ハルマゲドンが来るから絵に投資したりするはずもなく、壁にはカレンダーか書籍からカラーコピーしたいつものおなじみのJW挿絵か、JWが経営販売するJW聖書から(これ、重要。)の引用がのったポストカードなどが張られている。

みみっちい。(笑)し、どの家も同じ。

小さな子供がいるのに玩具ひとつなく、がら~んとしている感じのJWのホーム…。よく家や部屋はその人の心の状態を表すというけれど、エンプティーな状態が良く現れてる。

きれい、整然としているって言えるかもしれないけど、その部屋にちょっといれば、それはきれいとか整然とかとは違う!と分かる。いごごちがすごく悪い。

人のぬくもりがない家。住んでる個人の個性が全く感じられない部屋。

エホバの証人をよく現してると思う。
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エホバの証人児童虐待ドキュメンタリーが放送された日

2007-03-18 19:59:28 | ●海外のJW事情
NBCだったか、タイトルもはっきり覚えていません、なのにうろ覚えで書いちゃってごめんなさい。あの番組が放送された時の会衆の様子を忘れる前にかいておこうと思いました。

あの番組が放送される前に、本部から手紙が会衆にあてられて、それが会衆の前で読まれました。とはいっても、番組放送の約2ヶ月くらいまえ(だったと思います。)という微妙なタイミングで、しかもこういう内容の番組がある、ということは一切書かれていませんでした。

内容は近年、エホバの証人の中での児童虐待(性的なもの)が起こってきているが、組織はそれを隠しだてはしない。カトリックは隠すから有罪。でも自分たちはこうやって明るみにだしてるから偉い(笑)

人間は不完全だから罪を犯す、だからJW内でこういう問題がおこってもおかしくない。しかし組織は悔い改めたものをゆるし、組織にとどまることをゆるす。周りの反応を気にしてくいあらためているのに、組織から除くことはしない。(へえ。)

と、最後はなんだかJWがものすごく慈悲に満ちているような調子で終わっていました。が、この時はテレビ放送のことを言っているとはつゆしらず、会衆の人は大体「はあ。」という感じで聞いていたと思います。

この手紙は会衆の掲示板に張られるからあとでゆっくり読んで、というコメントがありました。この手紙はもしかして、日本でも読まれたかもしれません。どうでしょうか。

それからのち、偶然TVでこのJW児童虐待の特集を見て、私はびっくりしたんですが、その時はまだJWを信じていたので、動揺はしましたが、会衆で読まれたフォローの手紙もあって、なんとか自分におりあい(?)が付けられたと思います。

次の日、他の会衆のアジア系の姉妹たちから電話ががんがんかかってきました。(別にお互いを差別してるわけじゃないんですが、文化の違いからどうしても、アジア系はアジア系に、アフリカ系はアフリカ系と付き合いたがる傾向はJWにもあります。)

テレビを見たんだけどあれは一体どういうことか、と。私としてはあの番組の被害者の若い兄弟やその他のJW元2世が涙を流して訴える姿が脳裏からはなれない、、のに、私は自分の感情を殺して会衆で読まれた手紙にかいてあったことをそのまま、電話をかけてきた姉妹たちにつげました。

すると彼女たちは安心したようで、電話して良かった。などといって電話を切っていくんです。

でもそんな回答をしておきながら、当の私はどうしても、納得がいかなかったのですが、次の日、集会にいってもあの番組を見ていた人が少ないのか、全く話題に登ってもいません。見たという人も、「私はあんな番組に動揺したりしない立派なJW」という態度で話にも加わってきませんでした。

当時私のいた会衆はべテル長老とべテル家族に仕切られた会衆だったので、他の会衆では?と思い、少しはなれた会衆の長老にこの話題をふってみました。

この長老は昔長老グループでいじめにあって長老をおろされ、1から出なおしてまた長老になった人で、人間がまるい、というか、私がすこし信頼していた人でした。

が、結局この長老からも手紙と同じ答えがかえってきました。

さらに、この番組に出ている2世たちが嘘をついているとも限らない。だいたいこの2世たちは排斥されているのだから、信用できない。組織に恨みをもった策略かもしれない。自分たちは彼らのいいぶんは聞けないし、個人におこったことにすぎないから、いくら真実だったとしても、JWとしての組織には全く関係ない。


という意見でした。

番組の内容は、長老に性的虐待をうけた2世のインタビューが主で、

長老から虐待をうけて、悩んで他の長老に相談にいったら、ホモセクシャル行為だというので、悔い改めなければ排斥と言われた。自分は被害にあったと思っているに、「悔い改める」ことなんかできない、というと排斥された。

で、この元2世はJWを訴えたと記憶してます、、。すると他にも同じような経験をしたという2世が現れてきて、ブルックリンの前で抗議デモが行われ、というようなドキュメンタリーです。

インタビューアーに「どうして虐待にあったとき、長老ではなく、警察に行かなかったのか」の質問に「自分はエホバの証人です。問題は長老に、そして会衆内で解決するように教えられてきたから」と答えていました。

番組ではこの、警察にいかないで、まず長老に、という組織のやり方が法的に問題になる、というような扱いかたをしていたと思います。

体にいっぱいピアスをしたパンク風の元2世の女の子が「もう泣きとおして流す涙も枯れた。」といっていた姿か印象的でした。

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疑問7 エホバの証人の「2世」教育

2007-03-18 05:37:46 | ●教理への疑問
目覚めよ!3月号「今日の若者の必要を満たす」から引用です。(この雑誌活用できますね…。)ちょっと長くなりますが、以下↓引用。太字はめざめよ!誌で太字だったものです。(わかりやすく大きくしてあります。


■若者にはアイデンティティが必要。

成長する上で非常に重要なのはアイデンティティー-ある人を他の人と異ならせる独自性-を確立することです。(略)親であるあなたの仕事の一つはお子さんの心に正しい原則を教え込むことです。

(略)愛のこもったこらしめと「精神の規整」とによって新しい人格を身につけるようお子さんを助けることができます。そうすば、子供は成長してひとり立ちするにつれ、「新しい人格」を自分の”服装”として選び、それを真に美しく魅力的なものとみなすようになります。

 こう自問してください。「うちの子供たちは神の言葉の中で教えられている価値感について本当はどう感じているだろうか。(略)

目標とすべきなのは表面だけ従順な子どもに育てることではありません。ある子供たちは一見、何でも親から言うとおりにでき、質問することも、文句をいうことも、逆らうこともありません。しかし、今日は親の望む通りにするとしても明日は世の望むとおりにするかもしれません。

ですからお子さんの「理性」を培うように訓練しましょう。聖書の原則がなぜ健全でどのようにわたしたち全てを益するかを理解するように助けるのです。

 そうでうす、必要を満たせるように若い人を助けるには努力が必要です。しかし、そうするだけの価値は十分あります。子供たちがあなたの教え込んだただしい原則によって生きるなら、あなたは心からこう言うことができるでしょう。子供たちは本当に「エホバからの相続物」であると。」

引用終わり。


最後の結びの節が強烈ですね。この文書を読んで気分が悪くなった方も沢山いると思います。

最初に「若者にはアイデンティティーが必要」と理解のありそうなことを言っていますが、結局は親がそのアイデンティティを意図的に選ばせる、つまりアイデンティテイの押し付けが協会では公に勧められている。

 「今日は親の望むとおりでも、明日は世の望むとおりにするかもしれません。」

ここで分かることは、協会は”若者””2世”を生まれつきどうしようもない、アイデンティティーを与えてやらなければならない”物”のように扱っていること。

親に逆らうことも文句をいうこともしない若者の気持ちを考えたことがあるんでしょうか。葛藤しながら、周りから迫害に会いながら、自分の将来を棒にふってまでも親の信仰を支持したい、と思うからです。親への愛からです。

”明日は世の望む通りにする”かもしれない理由を考えたことがあるんでしょうか、、、。2世がJWをやめるということは、世が楽しいからとか、いわゆる”快楽にふけりたい”からなんていう簡単な理由からではありません。

子供の頃から教えられたアイデンティテイと肉親への愛をふりきり、友人のほとんどと関係を立たれる、これだけの代償を払ってまでそうしなければいけない、そこまで追い詰められているから、そこまでするんです。

 「ですからお子さんの理性を培うよう訓練しましょう」という前にこれが純粋な人権損害であること、その可能性を親であるJW、組織には考えるべきだと思います。

● 「聖書の原則がなぜ健全かを理解するよう助ける。」

 これはエホバの証人という組織全体が2世教育に対して失敗した点だと思います。演壇や大会で「私たちは世の人が持っていない高い道徳基準をもっています!」と鼻高々に宣言することが、イコール高い道徳を得ることではない、、。

結局は”罪”を犯すと、聖書時代には死刑にされた、とか、現代ではこんな病気になるとか、罪の結果の脅かしや恐怖、JW社会での制裁などをもちいて、有無をいわさず押さえ込んでいるだけで、「なぜそれが悪いか、なぜそれが罪なのか」を説明できない。

それがものみの塔だと思います。

というのも、自分が道徳的に感覚のない人間だからです。

最近、「エホバの証人と性」のエントリーにコメントを下さったmasaさんの言葉でこの記事を書く勇気がでました。

感覚がないんです、、。以前も「世」の人から「高い道徳基準といっても、大体の社会でJWのやってることは常識だし、だからといって高い基準と自慢したりはしない、それどころか、こう言っては悪いけど、あなたはこれはいいけど、これはOKゾーンというように、道徳を心ではなく”テクニカル”に解釈しているように聞こえます。」と言われたことがありました。

 エホバの証人の子供はmasaさんのコメントにもあるように感じることが許されていない、その前にいい、悪い、を他人から決めつけられる。だから私のように、聖書や世間で悪とされていることも、頭では理解しているけれど、心では理解できない、そんな人を作りだす教育をJWはしている。

それは自分に対する言い訳かもしれないんですが、100%否定はできないと思います。聖書では人間が善悪の知識の木から食べて罰せられた。自由意志を与えられていながら、善悪を判断することが許されていない。思えば、それが神の原則でしたね。その点では、それをしっかり守っているエホバの証人は”真”に聖書を守りおこなってる集団かもしれません。

 陰山英男さんの本(「学力低下を克服する本」という本でした。)で、簡単な算数でも理解するには日常遊ぶという実体験がないと、概念というものが理解できない、というくだりがありました。

簡単な算数にも日常体験が必要なのが人間、その日常での体験や感じることを子供の頃から(ある人は生まれた時から)否定されているエホバの証人2世が、人格に問題を持たないわけがないと思うのです。感じなければ学べない、だから表面では品行法制、オールドファッションと言われるくらいに道徳には保守的のように見えて、実はそうではない、そんな子供ができる、のかもしれない。



 普通の人間のように感じられない。道徳にも快楽にも鈍感で、どう感じていいのかすらわからない。それが自分です。むやみにホラーをみまくった時期もあります。うまく理由を説明できないけれど、無感覚をいくらかでも刺激したい気持ちか、究極の無感覚まで達したいという気持ちか、、

人間の一番根本の感覚は恐怖だといいます。恐怖を感じることで、自分の悩みを忘れたい、という気持ちだったかな、、。よく分かりません。

うまく書けませんでした、、ごめんなさい。

自分にもし子供ができたとしたら、絶対エホバの証人として育てたくない。だって、こんなどろどろと心に闇がいつもうずくまってるような苦しい思いをしてもらいたくないから、、。
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疑問6 輸血拒否

2007-03-02 04:47:19 | ●教理への疑問
エホバの証人が神の唯一の組織ではない、とはっきり気付いたきっかけになったのが輸血問題です。

ところで、人生のほとんどをエホバの証人として過ごしてきて、今までどうして気付かなかったのか、指摘されても気にならなかったのか考えてみました。

●輸血問題はなんとなく難しそう。
●調べるのがめんどう

理由はこの2つに限ります。実際アメリカのJWの中には、自分の良心が許すフレグメントはどれか、そしてその理由は(そんなのないんですが笑)?ということを考えて輸血拒否カードにサインしなければならないのが、面倒で何年も昔の拒否カードを惰性で持ってるだけ、という人が結構います。

ちなみに日本人は「カードはいつも肌身はなさず、首からかけろ」なんて言われますよね、プラスティックのカードにいれて首からさげている人もいました。私も母から強制されていたけど、体にぴったりした感じの服を着るとプラスティックカードケースがごつごつ見えるし、第一肌にあたって痛いので、すぐやめましたが、キチンとこれを守っている人もまだ沢山いますよね。

アメリカでは保険がないと治療してもらえないので、事故があった時にはまず財布をみます。保険書と一緒にしておいたほうが体につけてるよりも確実ということで、財布に入れている人が多いです。

ヨーロッパでは最近のセクト取り締まり強化のため、輸血拒否カードは集会所で各々サインする方法では無効になったそうです。弁護士により用意されたいくつかの書類にサイン、もちろん弁護士代も日本円でサインを見てもらうだけで1万円ほどだとか。

1年に一度やってくる輸血拒否カード記入まつりみたいな中で「サインしないとやっぱりだめだよね」という雰囲気がなくなるだけでもフェアですね。ノースアメリカは集会後サインをもらって回ることはなく、家で個人でやるように勧められています。

さて、2世はJWの法律が世界の全てなので、輸血拒否が筋の通ったことかどうか、は大体調べないと思います。JWが宇宙の法則だから、世の人が「人は生まれて、いつかは死ぬ。悲しいけどそれは変えられないから受け入れるしかない。それに逆らっても無駄」と考えるのと同じように、

輸血はだめ、だめと決まってるからしょうがない。だから追求しない。

という態度です。

1世はというと、99言ってることが正しいから後の1つも自動的にただしいの法則で、
JWは大体(全部じゃない。予言とか外れてるけど、謝ればチャラ。)いいことをいってるから「血を拒否」することもなんか神が益を思って思ってやってるから、従ってればいい。ちょっと「?」って思うことも、全部理解できなくても、時にただ「従順」に組織に従うことが求められるから・

と、血のフレグメント問題でめちゃくちゃ言われても気にしない。


● 問題は血の問題は難しいと思われている

ことにあると思うんです。誰も調べようとしない。難しいからパス、と決めこんでるから「私は血は全面受け付けません。(私って霊性高い)」か、「組織がOKなものは、あやかって全部とにかくOK]という人まで、”難しいからひとまとめにして全部OKか全部だめ”という態度には変わりない。

● 考える時期が短い

輸血拒否は命に関わる問題なのに、JWとしてそれを考えるのはこの「サイン」の時期だけ。そのちょっと前に思い出したように血に関する雑誌がでたりするだけ。それが終わるとみんな忘れさってしまうか、考えないようにしているか、講演でもものみの塔研究でもほとんど取り上げられることがない。

毎日の生活で輸血が必要な場面が少ないからでしょう。ただ、急に具合が悪くなった時などJWには「あ、考えてなかったけど、輸血問題が」って病気以外に非常にストレスになる。「後回しにして何もしなかった、調べなかった」という罪悪感も常にある。

実は調べても調べなくても同じなんです。めちゃくちゃを言われてるだけだから。

でもJWはそう思わない。自分が分からない、調べなかったという後ろめたさで、いざ必要になる時に医療委員の兄弟のいう事を鵜呑みにする。

●根拠のない選択肢、禁止項目

まず輸血拒否の根拠となる聖句にあまり説得力がないのは、みなさん感じておられると思います。一番新しい折込でやはり気になったのが、手術の前に自分の血をとっておく(笑。日本語の折込ないのでなんというか分かりません。笑)方法はダメなのに、手術の時出た血を集めて、濾して使うのはOK.という点です。

自分の血を取って、オペ当日に使う方法は、採血が少なくとも1日以上前に行われるからダメ?体の外に出た血は3時間以内なら、まだ自分の血で~す。とかいう決まりがあるんでしょうか。あ、24時間外にあったからアウト!とか。

今の組織は血がある程度すぐ体に戻る場合はOK,一夜おいたらだめ、みたいなスタンスのようですね。人工透析はよってグレーゾーンだけど輸血にはならない。

しかし人工透析をグレーゾーンだとしらず、公にOKだと思っている人も沢山います。それは人工透析をしている人がJWにも大勢いる、それをグレーゾーンだ、とはっきり言うと間接的に「死ね」ということになるので、バッシングが怖いのでしょう。輸血拒否もある意味「死ね」という意味なんですが、事故の場合突発的に起こるので、人工透析のように週に3回かならず必要、という処置よりも言い逃れができる。

最近も講演者が「神の組織や教えによって人間は濾され、きれいになる」という例えで人工透析の例えを使った兄弟がいます。グレーゾーン、グレーゾーン。(笑)

●アルコールを点滴する挿絵のトリック

医者から「アルコール飲んではいけない」といわれて、飲まないけれど体の中にいれてもいいという人はいない。JWが好んで使うたとえです。これに「そのとうり」と納得して輸血拒否を受け入れてしまうJWが沢山います。私もそうでした。

実際には食物のように体の中で分解されるアルコールと、食物として胃に入った時の吸収のされかたと、血管に入れた時では全く違う血では比べることができないのに、なんか理論的に聞こえますよね。

●自己責任

そして最後は自己責任というオチ。拒否カードが配られた日、集会で実演がありました。教会の資料をうずたかくつんだ姉妹が拒否カードを前にして自問自答というあれです。

そこで血液フレグメントについて述べるのかと思いきや、「毎年、後まわしにしていたけど、今日こそ時間をとって、資料に目を通さなければ。自己責任なのだから、」

と協会はフレグメント云々よりも、自分たちにつけが回ってこないことを、第一問題にしているんだ。

この日、集会を後にした時、私の心は晴れ晴れとしていました。もう、終わった。って思っていました。

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