JW脱出計画(進行中)

エホバの証人2世(現在不活発)の思いをつらつらと・・・

広告

※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

震災商売の被害者?

 | Weblog
このブログも更新など殆どしないのに毎日それなりの数の方が(仮にたまたまとはいえ)見に来て下さっているようで、ありがとうございます。疑問・質問等あればなんなりと書き込んで下さい。ただまあ気分の悪くなるコメント等はさっさと削除しますのであしからずw

ところで大震災が起きて2週間余り。自分のところは被災地から少し離れている上、計画停電も行われていないので、正直に行ってごく普通に日々が過ぎています。一応会社や自治体を通して僅かですが援助などさせてもらったものの、あまりに大きな被害に対する自分の非力さに肩を落とす毎日です。

そんな中ネット等を覗いていると、有名なアーティスト達が震災を受けて曲を書いて発表したというニュースをよく眼にするようになりました。もちろんその曲の収益を寄付したりしている人が多いのは立派だと思いますが、

それとは別に感じたのは、やはりこういう人達というのは、芸術家としての感性が一般の人より敏感なので、こういった非常事態には神経が鋭くなって何か曲を「書きたくのなる」のかもしれないな、という事です。(全ての人が、とは言いませんが)

そういう点ではJWの人々にも相通じるものがあるかもしれませんね。なにしろ彼らはこの世の中で災害やら事件が起きると嬉々として布教に出てはそういった事象と神の言葉(と己が信じているもの)を結び付けたくて仕方がなくなるからです。

表面上は悲惨な出来事に心を痛めている、と言いつつ、実はそれをネタに自分達の日頃の主張を正当化する行動に出たくて堪らなくなる。

そう考えると自分がJWでやっていた事が全て虚しく感じられます。自分がJWとして生きた時間て一体何だったのか。他人の不幸を餌にして、また他の人を騙すために奔走していた27年間。

母と妹は今でもその組織にいるけど、そういう事に本当に何の疑問も持たないのだろうか?とよく不思議に思います。もしかしたら日々の生活と、JWの活動をきっちり分けて考えているのか?もしそんな芸当が出来るのだとしたら、果たしてそんなお遊びに僕の人生まで巻き込む必要があったのか?

おそらくその答えは彼女達からは得られないと思います。思いをぶちまけても「この子は悪魔に騙されている」と泣きながら聴くことを拒否されて、今後とも自分らは「不活発な息子を持ってはいるが頑張っている姉妹達」というポジションで組織内で生きていくだけでしょう。

震災に逢った方々の苦労に比べれば小さいものかもしれませんが、30代もまもなく半ばに差し掛かるというのに、自分はまだJWに縛られたままな気のする今日この頃です。

コメント (1)
この記事をはてなブックマークに追加

今回の地震に思う

 | Weblog
東北を中心とした未曾有の大地震が起こってしまいました。個人的にも今回被害を受けた地域は旅行でよく行っていた所なので、廃墟と化してしまった街やそこで呆然としている人たちの姿を見るのはとても悲しいです。

あの阪神大震災の時の事を思い返してみると、やはり自分はまだJWにどっぷり浸かっている時だったので、「この地震も終わりの日のしるしなんだ、やはり聖書は正しい」等と、今思えば情けない考えに囚われて、災害で苦しんでいる人たちを心配する事を二の次にしていたんだと思います。

JWの信者がこれから真っ先にやりそうな事といえば、この地震の話をネタにして、頼まれもしないのに人ん家に押しかけて組織の機関紙を売りつけることなのでしょうが、

今回自分が真っ先に思ったのは、他の大勢の人たちと同じように「何か自分にできることはないか」という事でした。

こういうまともな思考が無意識に出来た自分に少しホッとしています。

幸い明日は休みなので、援助物資の受付けをしてる所がないか調べたりして、少しでもこの災害で被害を受けた人たちの力になれたらと思っています。

何の役にも立たないカルト教団の教えに振り回されて、思考を狂わされていたあの頃の自分の分まで。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

まずは感覚のズレを直す

 | Weblog
JWから脱出してきて、あの世界にいた時に普通だと感じていた感覚が所謂世間の感覚と随分ずれている事が分かったりして愕然となることがあります。

たとえば、まあこれは僕のいた会衆にだけ多かったのかもしれませんが、主に離婚または別居して子供と暮らしている姉妹たちの中で、冬用タイヤの履き替えを若い兄弟にいつもやってもらっている人がかなりいました。

その兄弟というのは自動車整備の仕事をしているので交換自体はお手の物だったんですが、頼まれる数がハンパではなく時期も重なるのでかなり大変そうだったのを覚えています。

僕はそういうのを頼まれるタイプではなかったので「いつも大変だな」とただ傍観していた訳ですが、JWを出て世間に慣れてから感じたのは、その姉妹たちのやっていた事が随分と図々しい行為だったという事です。

だってタイヤを替えるのって大体1本500円する訳です。4本で2000円位になります。それだけの費用が掛かる仕事を「JW同士だから」や「母子家庭だから」という理由だけでタダでやらせるというのは、世間の感覚で言えば首を捻りたくなるかもしれないなと思った訳です。

ただ繰り返しになりますが、こういう感覚を覚えるようになったのはJWを出た後でした。あの組織にどっぷり漬かっていた頃はそんな風に思ったことはありませんでした。

細かいことかもしれませんがこういう感覚を修正するというのは大事だと思います。

体はJWから脱出できていても、心がJWから脱出できていないうちは本当に生きていて苦しいことが沢山あります。

このまま自分はどこにも属せずダメになっていくんじゃないかと不安に苛まれます。でも順調に行けばそんな闇夜のような毎日から出られた、と思える日は必ず来ます。

もし悩んでいる人がいたら、希望を捨てずに、そして恥を掻くことを怖がらずに(といっても最初は怖いでしょうが)とりあえず毎日を生きていったもらえたらと思います。
コメント (2)
この記事をはてなブックマークに追加

本物のボランティア

 | Weblog
岡山に泊まった次の日、そろそろ東に向かおうかと思って電車の時刻表を見ていたら、ふとここから四国の高松まで30分程で行ける事が分かり、せっかくなので讃岐うどんを食べて帰ろうと思い立ちました。

自分的に最も贅沢な朝飯を食べようという算段ですw

瀬戸大橋を渡り出した頃、写真を撮ろうと立ち上がってウロウロしていたら、近くに座っていたおじさんが「ここからだとよく見えますよ」と教えてくれました。言われたとおりそこに立ってみると確かに海に浮かぶ瀬戸内の島々がよく見えました。

写真を撮り終わっておじさんにお礼を言うと、ニッコリ笑って「ようこそ四国へ!」と言いつつ電車を降りていきました。

少し良い気分になりながら高松に着いて無事うどんを食べ、岡山に戻るまで時間があったので駅近くの城跡に行くとなんとその日は無料開放日。

さっそく入ってみると、中は人が殆どいません。

正月だし仕方ないかと思っていたら、観光ボランティアらしきお爺さんが「どうぞどうぞ」と城内に案内してくれ、丁寧に城の略歴などを話してくれました。

お礼を言って帰ろうとすると、同じ城内に綺麗な庭があるのでぜひ見ていって下さいと言い残してお爺さんは去っていきました。

電車の中で会ったおじさんといい、このガイドのお爺さんといい、人の為にこうして骨を折って動ける人というのはつくづく立派だと思います。

思えばJWも僕の関わった時代の最後のほうでは、布教の際に自分たちの活動を「ボランティア活動」というように組織からお達しが来ていましたが、個人的にはそれにとても違和感を感じていました。

それはきっと自分のやっていることが相手に全然喜ばれていないという感触があったからだと思います。だからやっていて苦しかったのでしょう。

自分がこの先、人の為に何かできるようになるのかは分かりませんが、少なくとも人の為にならないことだけには二度と手を出さないようにしたいと思います。



コメント (1)
この記事をはてなブックマークに追加

新年早々・・・

 | Weblog
只今中国地方を旅行中のわけですが、何だか嫌なものを見てしまった・・・という話を新年早々書こうと思います。

30日に全国的に有名なある神社に寄ってきたのですが、雨の中着いてみると目に飛び込んできたのは遠く離れた駐車場から続く長蛇の列。

正月前なのだから空いてるだろうと安易に考えていたのが失敗だったか、さすがこの手の有名所は違うな・・・と急いでその列の最後尾に並んでみたのですが、しばらくしてどうも様子がおかしい事に気付きました。

何故なら雨に濡れながら並んでいるその大集団など関係ないといった顔をして、幾人もの人がどんどん境内に入っていくから。

そこで観察してみると、その列は100人位の人の先頭に一人数字の書いたプラカードを掲げた人がいる、という固まりが何十も集まっているのでした。しかも所々に、腕にオレンジの腕章を付けた人間がいてその列の世話をしている様子。

あとで分かったんですが、彼らは某宗教団体の集団お参りの列でした。

面白いのは、彼らの服装がスーツや着物等の「正装」だったこと。そう、あたかも大会で給食の列に並んでいたJWの集団そっくりだったのです。

「第一種正装で列を作って並ぶ」というのが、部外者から見るとこんなに気持ち悪い(失礼!)ものなのだということを改めて感じました。まあ、数年前には自分も堂々とやってたんですがね。

というわけで謎も解けた僕は列を離れてとっととお参りを済ませ、次なる目的地に向かいました。

(オチ無しw)
コメント (3)
この記事をはてなブックマークに追加

思い出したように・・・

 | Weblog
前回「今年最後の更新」的な記事を書いておきながら、暇に任せて年内にまた更新する僕をお許し頂きたいと思いますw

昨夜は会社の忘年会でした。最後にやった抽選会で液晶TVが当たったりして、何だか幸運に恵まれた今年を象徴するかのような締めくくりだったと思います。

その後、先輩方を車に乗っけて(僕は一切呑んでませんw)夜の街に繰り出し、午前3時頃に宿に戻ってきました。というわけで、今日は寝不足です。

2010年は僕にとってかなり内容の濃い年でした。仕事は忙しくて肉体的には大変でしたが、そういう中でも不必要に周りに振り回される事なく、あくまで自分で状況をコントロールしながら物事をこなせたと思います。

別の言い方をすれば、今までの自分がいかに周りの目ばかりを気にしながら生きてきたのかを実感できた1年だったとも言えます。

己の中で「ちょっと自己主張し過ぎたかな?」とか「生意気だったかな?」と思える場面でも、周囲はそのことで必ずしも不快にはなっていないという状況が多々あり、そういう事が積み重なっていった事で、ある意味自信が付いてきた気がします。

勿論、入社して1年という立場だから大目に見てもらっているという所もあるのかもしれませんが。

というわけで、内容の濃かった今年も終わろうとしています。

来年はどんな年にしようか、明日からの旅行中で考えようと思っています。今流行のパワースポットを幾つか巡ってこようと思ってます。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

今年も終わる

 | Weblog
早いもので今年もあと2週間足らず。会社のほうでも忘年会の話が出るなどしていて、すっかり年末だなと感じる今日この頃です。

今年も独身のまま年を越すことになり、そこには一抹の寂しさもあるわけですが、その他の私生活は割合に楽しかったので良しとしたいと思っています。

とはいっても僕は自分自身が典型的な「リア充」ではないということは理解しているつもりです。会社に行けば色々と良くしてくれる先輩や同僚がいるわけですが、家に帰ればまた独りです。

ただ、会社での自分のテンションで私生活でも周りの人と関われるかというと甚だ自信はありません。多分持たないと思います。素の自分というのは昔も今も変わらずネクラです。

ある本に「30過ぎて自己肯定できない人間は周りの人に迷惑をかける」という趣旨の事が書いてあって、なるほどと思いました。極端な話、そういう人間が今日茨城で起きた無差別殺傷事件を起こすんではないかと。

「人生を終わらせたかった」と犯人は述べているようですが、若干27歳でそんなこと言えるほどコイツが濃い人生を歩んできたのかは疑問です。この歳で「自己肯定」できなかったばっかりにやけっぱちになったとしか思えません。・・・勿論捜査はこれからなので何とも言えませんが。

振り返って己が自己肯定できているかと言うとまあ道半ばです。自己肯定とは単純に今の自分を好きになるという事なのではないかと勝手に理解しているんですが、こんな人間だけどまあ生きててもいいか、と思えているのでとりあえずは第一歩は踏み出せているかなと感じています。

来年もパッとしない年になるかもしれませんが、ボチボチ行くしかないと思ってます。

明日は前にも書いたように宝くじ買うために東京行です。早起きは辛いですが、久々に都の空気を吸ってきます。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

良い意味での勘違い状態?

 | Weblog
最近、会社の先輩達から「みんなでお金を出すから宝くじを買ってきて」と頼まれました。その理由は「こーじーに頼めば当たりそうな気がするから」との事(笑)。

少し迷いましたが「多分、無駄金になりますよ」と念押しした上で引き受けました。今度、東京の当たりが良く出るという売り場に行ってくる予定です。

こんな事ではありますが誰かに頼りにされるというのは嬉しいものでもあります。確たる証拠はないのですが、JWを出た直後よりは人として少しはしっかりしてきたかなとも思います。

おかしなもので、組織内であれだけ色々な仕事を任されていたにも関わらず、僕にはそこから「責任感」というものは全くと言っていいほど育たなかった気がします。

少なくともJWにいた頃は、組織曰く「世俗の仕事」においては僕は全く使い物にならない存在でした。幸い勤めた会社で上の人に可愛がってもらったおかげで給料を貰っていた気がします。

今はその頃に比べれば人並みには仕事ができるようになったという自負があります。実際、会社の人にもそういう評価を貰っています。

そう考えると結局、JWというのは人間の成長には何の役にも立たないことばかり構成員にやらせていたんだなと思います。

こうしてまともな思考を持った人たちの中で少し認められるようになると、以前とは比べ物にならないほど自分に自尊心が芽生え、積極的になれたという気もします。

これもあの組織の中では味わえなかった感覚です。あれだけ寝る間も惜しんであくせくとJWにこき使われても一切といっていいほど自分に自信など持てなかった事とは雲泥の差です。

もちろんそこには多少は自信が持てたという「勘違い」があるのかもしれません。それでも今は、その勘違いしているかもしれない自分の状態を許容できる心の余裕が生まれてきたように思います(ちょっと変な言い回しですがw)。

この状態でこのまま生きていければすごく楽だろうからこのまま行けたらな、と密かに狙う今日この頃です。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

焦り、のようなもの

 | Weblog
今の会社に入って、本当に沢山の人と出会い、これまでの人生の中で一番打ち解けた関係を築けていると実感している今日この頃。

30代前半という自分の年齢は、この会社の中ではダントツに若い部類に属するので、ある人は子供のように、またある人は孫のように扱ってくれてるみたいです。

逆に若い人たち(といっても数人しか居ないんですが)とはどうも上手くいかないと感じることがあります。これはJWの頃と同じで、あの頃もたとえば若い人同士で遊びに行くとか集まるとかいった行事は誘われてもほぼ全てパスしてました。だから若い人らの中では僕は非常に浮いた存在だったと思います。

その影響は学校にも及び、特に高校時代は酷いもので、たとえJWをやってなくても孤立していたと思います。だから僕は友達が作れない欠陥人間だと思ってました。

しかしこの年齢になると、それまでは諦めていた自分の性格を変えなければならないと焦りに似た感覚を覚えるようになってきました。いくら周囲の人は若いと言ってくれても、三十過ぎと言えば将来の事を嫌でも考えなければならない歳です。

このままの性格では、やがて独りぼっちになってしまう。

独りぼっちには慣れていた僕が今になってそういう感覚に襲われたのも、今の会社に入って人の暖かさに改めて触れ、それがいかに虚しく、人生を損していたかを実感したからだと思います。

うちの父を見ていてもその怖さを感じます。父もJWを辞めてからは会社と家の往復だけの生活で、僅かな親戚以外には関わる人間もおらず、休みはTVの前でいつの間にか眠るこけるばかり。おそらく葬式にも殆ど人は来ないでしょう。

別に葬儀が寂しくてもいいんですが、母が居なければこの人は多分ホームレス等になっていたのではないかと思います。僕は歳を取ってからそうはなりたくない。父に同情はしないけど、自分の将来の姿を見るようで悲しくなる事はあります。

何とか、もう少し自分が生きていて人生を少しは楽しんでいるという実感を持てれば思います。

コメント (1)
この記事をはてなブックマークに追加

それは寛容さじゃない

 | Weblog
先日テレビでアメリカの「アーミッシュ」と呼ばれる聖書の教えを厳格に守る人達の事をやっていまして。確かハリソン・フォードが出てた映画で彼らのコミュニティーの中で生活しているうちに未亡人と恋に落ちるみたいな内容のがあったので「ああ、あの人たちか」という感じで見ていました。

詳細な点は省きますが個人的に一番感銘を受けたのは「子供達は16歳になるとそのまま信仰を守るか一般社会に出て行くかの選択ができる」というシステムがあるという事です。

その決定の仕方というのが真に合理的(?)で、それまでコミュニティー内で聖書の教えを叩き込まれ、規則にがんじがらめにされていた子供達にいきなり酒や遊び等のあらゆる楽しみを一定期間与えた上で判断させるのだそうです。

ただその番組が言うには「子供達の9割は元の生活を選んでコミュニティーに戻る」と言っていました。でも裏を返せば1割の子供達は、その先に苦労はあるものの自由を得て社会に出て行く事ができるわけです。

今更願っても詮無い事ですが、もしJWにこのシステムがあったらどれだけ沢山の若者が精神疾患やその他のあらゆる苦しみから解放されるだろうなと思いました。まだあの中にいた頃、僕はそういう人達を何人も見てきました。

親のため、生活のため、やむを得ずJWに居つづけざるを得ないものの、傍から見ても心身共にボロボロな人達・・・。そしてそういう人達に「個人研究が足りない」だの「世の事を考え過ぎてる」だのと、アドバイスという名の「感情の強制」を喰らわすベテラン信者者・・・。そのせいでどれだけの人達が地獄絵図のような毎日を送っていた事か。

しぶとくJWに残るには余程の馬鹿(失礼!)でないと自分の感情が保てなくて無理ないのではないかと、組織を出た後によく思ったものです。

そう言えばそのベテラン達は己らの宗教がいかに寛容かを折に触れてぐだぐだと言っていましたが、本当の寛容さとはアーミッシュの人達のやっているようなものじゃないかと思えてなりませんでした。

日本も宗教の自由は結構ですが、信仰の強要は是非とも憲法で禁止して欲しいとつくづく思います
コメント (4)
この記事をはてなブックマークに追加