パーフェクトワールド

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★なんでも祈り求めることはすでにかなえられたと信じなさい

2010-02-19 21:18:48 | ●脱JW後の悩みとガイド
 皆様お久しぶりです。

お正月に記事をアップすると書いたのに全然書いていなくてすみません。

それというのも、最近思っていたことをどう表現したらいいか自分でも分からず思いあぐねていました。


 最近、だいぶ前に不活発になった元JWの友人からメールが来ました。彼女は脱マインドコントロール出来ているわけでなく、会衆になじめずフェードアウトした子です。そしてたまにお母さんの希望で一緒に集会に出たりするそうです。


その子によると、最近集会で「輸血拒否」のプログラムがあったそうで、代用輸血(輸血拒否)を進める協会のDVDを予習として見せられたそうなのですが、

そのDVDの映像がグロイ!


王国宣教にも「グロいシーンがあるので子供とかは気をつけれ」みたいな注意書きがあったみたいですよ。


でも彼女によるとチャプターやマークがあるわけじゃないから、まるっと手術シーンが唐突に挿入される状況で、全部を見せられてしまった。みたいな。

すごく不快だった。と言っていました。



 あのDVDはだいぶ前に発表されたはずですが、自分は全部見た記憶がありません。確かにあの喉に何か詰まったような独特のべテラーによる特徴的な朗読の合間に、修正なしの手術シーンがちりばめられていたのは覚えてます。

なんでああいうシーンが数多く必要なのかはなぞですし作った人たちに文句も言いたいのですが、


久しぶりに輸血拒否の話題と、いまだこのようなDVDを見せられているエホバの証人(-その中には私の肉親も含まれる―)のことを思うと暗澹たる気持ちになりました。


それから自分の親が輸血を拒否して死んだら自分はそれを親の意思として尊重できるだけ強いのだろうか?

とか、そうなったら組織を許せるだろうか。とか


そんな事を考えたらもうその気になって底なしに悲しくなるは、怒りを感じるは、輸血拒否の教理だけはなんとかしなければ、でもどうやってなんとかするのか????とか

おなかをぐるぐるとかき回されたような酷い気持ちになってきたのです。



 そういえば、このブログを始めた頃、時につけて「輸血拒否だけは命にかかわる教理だからなんとかしたい」と書いてきたのにちっとも打倒への良い案が浮かんでいませんよね。


誰かがいいアイディアを思いつくんじゃないかな~と他人本義な甘えた考えもありました。


 輸血拒否反対運動をされている方たちもいますが、エホバの証人家族親戚の手前、こんなブログを書いていることも隠している私です。せっかくのそのような運動にも参加できません。


こんな事を書いている間にもどんどん輸血拒否の犠牲になったり、その教理のせいでただでさえ難しい状況をさらに耐えがたいものにされている家族が増えているのです。

どうしていいかわからないもどかしさばかりを感じていました。


 それに前回の記事でも引用させていただきましたが、(カルト)集団や個人は反対されるといよいよ結束するらしいですし、自分の親などを見ているとそれは本当に真実だと思います。

自分も父親から激しく反対されていた時期が一番信仰が厚かったですもん。


だから親に輸血拒否教理の間違いを説いても、親はますます熱心になるばかりですし、たとえ組織への反対運動をしても組織はより固く結束するでしょう。ね。


だから、本当に自分は何をするべきなのか行くべき道を全く失った気分でした。

今、自分は自由で、人生を謳歌して幸せだけれど、愛する人をこんな組織に残してそんな自分だけの幸せが何になるだろう。とか。


でもそんな自分をいつも暗い気分にさせるのがエホバの証人という組織とそこに残っている親や友人たちの事なのです。


そんな中、元JWのRさんから一冊の本を紹介されていたのでその本を読む機会があったのですが、

読んで日数がたつにつれ、とても自分の気持ちに良い変化をもたらしていることに気づきました。


その本は

「ザ.シークレット」ロンダ.バーン著

という本です。


実は、


 スピリチャル?ニューエイジ?


 などという印象や先入観があってせっかく長い間すすめていただいていたのに手をつけていませんでした。



ところが読んでみるとスピリチャルや自己啓発ビジネス感は全くなく、それどころか思いがけず救われた部分が多かったのです。


アマゾンのサイトを見てみると「引き寄せの法則」というジャンルの紹介されていますが、私はもっと違う印象を受けました。


エホバの証人の家族という爆弾みたいなものを抱えている私にとっては、どうする事もできない「無力感」と何かが起こる前に「敗北感」「後悔」を感じていたのでが、


その中でこの本の

「良い事を願っていれば良い事が起こる」


という考えは「どうする事もできない」という無力感からとりあえず自分をすくってくれそうで、しばらく考えてこのフレーズを信じる事にしました。


信じたいから信じるのではなく、しっくり来たというか、自分の中で無理なく納得がいったので信じることにしたのです。


その理由の一つに「なんであれ良い事を考え続けなさい」という箴言の聖句や


「持っている者はさらに与えられる」

「求め続けなさい。そうすれば与えられます。」


というイエスの言葉や

矢を三回しか放たなかったエリシャに対して神が「5,6回打つべきだった」と言われた聖句(列王第二13:19)

ソドムとゴモラを滅ぼさないようにという願いを聞き入れようとされた聖句など


などの意味がわかったような気がしたのです。


上の聖句たちは私に神はしつこい人が好き??という印象を与えていたのですが、その意味は分かりませんでした。

(JW教理の中にいると積極的に求める事はどちらかというとダメという印象があったのです。それよりも「求めないこと」「あきらめること」自己犠牲を神は良しとされるのだと。)


 結局は(良いことを)「積極的に求める人」が神に好まれるという事だったのではないかと「ザ.シークレット」を読んでいて「そうだったのか~」と一人納得してしまったのです。


 (本をすすめてくれたRさんも同じような感想を述べておられました。今思えばそういう理由でこの本をすすめてくれたのでしょうか。

 
だから良いことを思いっきり願っていいし、それは願った時にかなえられると読んで、上の聖句たちがそれを後押ししてくれるように次々と浮かんできたのです。


さて、冒頭の話に戻りますが


「ザ.シークレット」ではこんな事も書かれていました。


「なんでも厭だと思ったり強く反対したりするとそれが逆にやってきてしまう。それが実現してしまう」


そして私がエホバの証人に足してやってきた事はまさにそれだったのではないかと思えてきました。


 それで母親が圧力をかけてきたり、組織で行われている良くないことを耳にしてもその事について長く考えを巡らせるのは控えることにしました。


こういう事は確かに練習やコツが必要ですが、努力をしてみました。


結果?は今のところ自分の心が持ちそうもない時にはとても役に立っています。そういえば鬱ぽくなる時期やパターンがあったのですが、それがなくなりました。(今までは女性はサイクル的にそうなって当然なんだと思っていたのですが、そうでもないんですね)


問題が解決したのかといえばもちろんそうではありません。まぎれもなくエホバの証人という組織はまだ存在しています。


でも今の自分にはエホバの証人という組織が精神的に人を苦しめることがない世の中を願ってそのような日がくることを信じるしかありません。

で、そんな願いが実現するかどうかは、自分の気持ちが楽になったのは事実ですが、実は正直信じられません。。


「なんでも祈り求めることはすでにかなえられたと信じなさい


イエスも何か思うことがあってこう言ったのだろうから、一生に一度くらいはイエスという人を信じてみてもいいかな。と思ってはいます。


結局今まで一度もイエスを信じたことがなかったわけだから、一回くらいは?信じてみないと?