2.日本の教育が注目を集めた
◎先生がフィンランドに行かれて,日本の教育基本法を紹介された経緯をお聞かせ下さい。
中嶋:私は,U.シグネウス(1810~1888)という,西欧の学校体制の原型をつくった,フィンランドの労作教育家に,ひじょうに興味をもっていました。念願かなって,ヘルシンキ大学の客員教授に迎えられ,フィンランドに参りましたのが,1962年4月から63年3月までです。
行っている間の1年間は,あっという間に過ぎました。なぜでしょう。もう連日のように,日本の教育のことや文化のことを,講演に来てくれ,講義に来てくれ,学会誌に認めてくれ,なのです。
こちらは,シグネウスの書簡集や著書が,研究所や教室に山のようにあるのに,宝の山が月の前にあるのに,仕事をしていると,電話がかかってくるのです。
フィンランドでお会いした重要人物の一人が,ヘルシンキ大学教育学講座主任で日本生まれのM.コスケンニエミィ教授です。1945年から52年に,フィンランドの学校改革プログラム委員会の事務総長を務めた人です。その後も,各種の学校改革委員会の委員をなさったり,教員養成審議会の会長をなさったりしました。教員の適性検査を考案されたり,フィンランドの教員養成を修士課程で,とされたりした人です。
彼からは,6・3制のどこが問題か,どこが日本のいいところなのか,根掘り葉掘り聞かれました。そしで,彼に,英文の教育基本法,学校教育法とその施行規則を渡すと,「これは大変に興味がある。」と言って,当時の学校改革の行政的な責任者であるR.H.オイッティネン博士に紹介状を書いてくれたのです。
オイッティネン博士は,当時学校管理庁の長官でした。彼が学校改革プログラム委員会の委員長としてまとめた,1959年の答申書が私の手元にあります。ここでは,日本のことにはふれていませんが,アメリカで,当時主流でなかった,6・3・3制に注目しています。
じつは,6・3制を国としてやったのは日本だけなんです。そこで,彼にも,教育基本法などの3つの文書を渡したところ,「これはひじょうに役に立つ」「これは大変ありがたい」と言われました。ちょうど,学校改革の法制化を考えていたところだったのだと思います。
◎1960年ごろ,フィンランドで学校改革が求められた動機は何だったのでしょうか。
中嶋:イギリスでいうイレブン・プラスは,ずっとヨーロッパの代表的なシステムでした。4年生までは普通にやっているが,4年生の時に学カテストを受けさせて,算数と国語の成績がよくて,家計に学費支払い能力のある人だけが中学校に行けるというものです。つまり,「教育の機会均等」ではないわけです。その後,4年が6年になり,7年になり,8年までになるのですが。
それに対しで,生まれた家系とか地位,性別などの差別を撤廃しでいかなくてはならない,というのは国民の願いで,そのための長い闘いの歴史があるのです。
それを頑張ってきたのは,フィンランドでは圧倒的に女性です。1800年代後半に,各種の成人学習機関では女性が多数を占め,男女共学の国民高等学校をつくり上げた。そして1906年に,フィンランドの女性は,ヨーロッパで最初の参政権を獲得したのです。
そして戦後,すべての者に平等な教育を,ということで,福祉国家をつくっでいくためには,どうしても教育の改革をしなければならない,ということになりました。
それ以前は,フィンランドでも,幼いうちから,子どもを振り分ける複線型の教育体系をもっていたのですが。
◎そうしますと,先生が客員教授としてフィンランドに行かれた時というのは・・・
中嶋:ちょうど境目だったのです。さっき名前が出たコスケンニエミィ教授は,広島大学の荘司雅子先生たちと世界教育学会(WAER)をつくりましたが,北欧の教育学会でもリーダーシップを発揮していました。
1962年,ウップサラ大学で第6回北欧心理学教育学会議がひらかれ,私もヘルシンキ大学から派遣され,フィンランドのバッジをつけて参加しました。
じつはその年から,スウェーデンが3・3・3制の総合制学校を始めたのです。その大原則の1つは男女共学だったのですが,デンマークが強く異議をとなえました。男女共学では,気が散ると。
そうしたら,スウェーデンが,「子どもたちが共学をチョイスした。それで学力が上がっできた。特に女の子は,男の子を教えるのに興味をもっている。これは人間の本性ではないか。」と言って,デンマークはギャフン,でした。
"スウェーデンの学校改革の父"と言われるのが,当時すでにIEAの会長をしておられたフセーン教授で,彼は日本に一目置いてあらゆる情報を国立教育研究所から入手されでおりました。フィンランドより,スウェーデンの方が,日本の教育基本法の影響を受けたのが早いと考えられます。
そして,その年の終わりに,コスケンニエミィ教授がその後委員長になる北欧文化委員会で,全北欧はスウェーデンにならって,総合制による学校改革に努力しましょう,という申し合わせが行われました。
そして,1966年にオイッティネン博士が委員長を務めたペルスコウル(基礎学校)改革委員会の最終答申で,6・3制の総合制が提案されました。コスケンニエミイ教授が一員になっていた学校改革委員会も6・3制を決めます。つまり,コスケンニエミィ教授の路線と,オイッティネン博士の路線が全く一致したのです。
1968年に法案が国会を通って,フィンランドでは1972年から,5か年計画で全土に総合制学校をつくることを決め,へき地を優先して,1977年までかけで,6・3制に完全移行しました。その法律の文言の中に,「人格の完成をめざし」とあったりしているのは,日本の教育基本法からとってきたのだと思います。
私は,1984年,フィンランド科学アカデミーの外国会員に,東洋人としては当時初めで推挙されましたが,その受賞の理由に,「フィンランドと日本の学術交流,とりわけ,フィンランドに6・3制を定着させた」とありましたから,まちがいないと思います。
(続)
じっきょう「地歴・公民科資料№63」
◎先生がフィンランドに行かれて,日本の教育基本法を紹介された経緯をお聞かせ下さい。
中嶋:私は,U.シグネウス(1810~1888)という,西欧の学校体制の原型をつくった,フィンランドの労作教育家に,ひじょうに興味をもっていました。念願かなって,ヘルシンキ大学の客員教授に迎えられ,フィンランドに参りましたのが,1962年4月から63年3月までです。
行っている間の1年間は,あっという間に過ぎました。なぜでしょう。もう連日のように,日本の教育のことや文化のことを,講演に来てくれ,講義に来てくれ,学会誌に認めてくれ,なのです。
こちらは,シグネウスの書簡集や著書が,研究所や教室に山のようにあるのに,宝の山が月の前にあるのに,仕事をしていると,電話がかかってくるのです。
フィンランドでお会いした重要人物の一人が,ヘルシンキ大学教育学講座主任で日本生まれのM.コスケンニエミィ教授です。1945年から52年に,フィンランドの学校改革プログラム委員会の事務総長を務めた人です。その後も,各種の学校改革委員会の委員をなさったり,教員養成審議会の会長をなさったりしました。教員の適性検査を考案されたり,フィンランドの教員養成を修士課程で,とされたりした人です。
彼からは,6・3制のどこが問題か,どこが日本のいいところなのか,根掘り葉掘り聞かれました。そしで,彼に,英文の教育基本法,学校教育法とその施行規則を渡すと,「これは大変に興味がある。」と言って,当時の学校改革の行政的な責任者であるR.H.オイッティネン博士に紹介状を書いてくれたのです。
オイッティネン博士は,当時学校管理庁の長官でした。彼が学校改革プログラム委員会の委員長としてまとめた,1959年の答申書が私の手元にあります。ここでは,日本のことにはふれていませんが,アメリカで,当時主流でなかった,6・3・3制に注目しています。
じつは,6・3制を国としてやったのは日本だけなんです。そこで,彼にも,教育基本法などの3つの文書を渡したところ,「これはひじょうに役に立つ」「これは大変ありがたい」と言われました。ちょうど,学校改革の法制化を考えていたところだったのだと思います。
◎1960年ごろ,フィンランドで学校改革が求められた動機は何だったのでしょうか。
中嶋:イギリスでいうイレブン・プラスは,ずっとヨーロッパの代表的なシステムでした。4年生までは普通にやっているが,4年生の時に学カテストを受けさせて,算数と国語の成績がよくて,家計に学費支払い能力のある人だけが中学校に行けるというものです。つまり,「教育の機会均等」ではないわけです。その後,4年が6年になり,7年になり,8年までになるのですが。
それに対しで,生まれた家系とか地位,性別などの差別を撤廃しでいかなくてはならない,というのは国民の願いで,そのための長い闘いの歴史があるのです。
それを頑張ってきたのは,フィンランドでは圧倒的に女性です。1800年代後半に,各種の成人学習機関では女性が多数を占め,男女共学の国民高等学校をつくり上げた。そして1906年に,フィンランドの女性は,ヨーロッパで最初の参政権を獲得したのです。
そして戦後,すべての者に平等な教育を,ということで,福祉国家をつくっでいくためには,どうしても教育の改革をしなければならない,ということになりました。
それ以前は,フィンランドでも,幼いうちから,子どもを振り分ける複線型の教育体系をもっていたのですが。
◎そうしますと,先生が客員教授としてフィンランドに行かれた時というのは・・・
中嶋:ちょうど境目だったのです。さっき名前が出たコスケンニエミィ教授は,広島大学の荘司雅子先生たちと世界教育学会(WAER)をつくりましたが,北欧の教育学会でもリーダーシップを発揮していました。
1962年,ウップサラ大学で第6回北欧心理学教育学会議がひらかれ,私もヘルシンキ大学から派遣され,フィンランドのバッジをつけて参加しました。
じつはその年から,スウェーデンが3・3・3制の総合制学校を始めたのです。その大原則の1つは男女共学だったのですが,デンマークが強く異議をとなえました。男女共学では,気が散ると。
そうしたら,スウェーデンが,「子どもたちが共学をチョイスした。それで学力が上がっできた。特に女の子は,男の子を教えるのに興味をもっている。これは人間の本性ではないか。」と言って,デンマークはギャフン,でした。
"スウェーデンの学校改革の父"と言われるのが,当時すでにIEAの会長をしておられたフセーン教授で,彼は日本に一目置いてあらゆる情報を国立教育研究所から入手されでおりました。フィンランドより,スウェーデンの方が,日本の教育基本法の影響を受けたのが早いと考えられます。
そして,その年の終わりに,コスケンニエミィ教授がその後委員長になる北欧文化委員会で,全北欧はスウェーデンにならって,総合制による学校改革に努力しましょう,という申し合わせが行われました。
そして,1966年にオイッティネン博士が委員長を務めたペルスコウル(基礎学校)改革委員会の最終答申で,6・3制の総合制が提案されました。コスケンニエミイ教授が一員になっていた学校改革委員会も6・3制を決めます。つまり,コスケンニエミィ教授の路線と,オイッティネン博士の路線が全く一致したのです。
1968年に法案が国会を通って,フィンランドでは1972年から,5か年計画で全土に総合制学校をつくることを決め,へき地を優先して,1977年までかけで,6・3制に完全移行しました。その法律の文言の中に,「人格の完成をめざし」とあったりしているのは,日本の教育基本法からとってきたのだと思います。
私は,1984年,フィンランド科学アカデミーの外国会員に,東洋人としては当時初めで推挙されましたが,その受賞の理由に,「フィンランドと日本の学術交流,とりわけ,フィンランドに6・3制を定着させた」とありましたから,まちがいないと思います。
(続)
じっきょう「地歴・公民科資料№63」
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