パワー・トゥ・ザ・ピープル!!アーカイブ

東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

え~かげんにせーよ!天皇在位20年フォーラム

2009年10月25日 | 平和憲法
 ▲ 天皇在位20年の秋

 今年はアキヒト天皇即位から20年の年に当たる。11月12日(木)には国立劇場で政府主催の記念式典が挙行され、1万円硬貨や記念切手も発売される。また日本会議、日本経済団体連合会、日本商工会議所を中心とする民間の奉祝委員会は同日、皇居外苑で奉祝パレード、皇居前広場で祝賀式典を開く。
 10周年のときはXJAPANのYOSHIKIがアキヒト夫妻の前で演奏したが、今回はEXILE(エグザイル)が、オリジナルの奉祝曲を歌う。その他、ノーベル賞を受賞した小柴昌俊、原辰徳監督、女優の森光子、五輪金メダリストの荒川静香らが祝辞を述べる予定だ。また地方では、秋田、神奈川、新潟など13の県議会が賀詞を決議した。これから奉祝ムードが盛り上がるかもしれない。
 天皇在位20年記念日を1ヵ月後に控えた10月12日祝日の午後、こうした天皇賛美の風潮に反対し奉祝に異議を唱える人が文京区民センターで「え~かげんにせーよ!天皇在位20年フォーラム」を開催した(主催:〈天皇即位奉祝20年〉に異議あり!え~かげんにせーよ共同行動)。

 まず全体会で、鵜飼哲さん(一橋大学教員)が「アキヒト天皇20年の思想状況」という講演を行った。
 天皇制、自民党、日米安保の3点セットがこの国の「秩序」を形成してきたが、このタイミングで自民党政権が崩壊した。今後左派の運動と右派がそれぞれどうなるのか。将来を占ううえで参考になるのが、いまから28年前にジスカール・デスタンからミッテランの社共政権へと交代したフランスの状況だ。
 政権交代とは公権力の再分配ということだ。81年5月にミッテランが権力を手にすると、たちまちのうちに腐敗していった。権力は恐ろしい。左翼が政権を取っても解決しない問題に直面すると、それまでどこかで一致しているため一体だった左翼は、真の解決を目指すグループと2つに分裂し、勢力が半減する。政権交代を果たしたほとんどの国が同じ経験をした。そのときどうするか、今から考えておいたほうがよい。
 ミッテラン政権の場合、就任から時を経ずして不況に直面した。当初は、社会主義的な国家主導の経済運営を打ち出したが、数年のうちに市場経済へと舵を切った。そのうち何度も保革共存内閣が成立し、左右の区別がつかなくなった。そのなかでトロツキスト系政党が最大時に20%の支持を得た。この点は、現在の日本とは時代も状況も違うので当てはまらないだろう。
 一方、移民を排斥するルペンなどの国民戦線が伸長した。それまで与党だった右派が野党になりダイナミズムが働いたからだ。8月15日のデモで、在特会(在日特権を許さない市民の会)や主権回復を目指す会の若い人が「攘夷」というプラカードを持っていたのを見かけた。二大政党とその外部という関係が生まれ、極右と極左が場外乱闘を繰り返すパターンになった。日本では従来、右翼は自民党に代表された。自民が下野したいま、日本でも新しい代表勢力を結成しようという方向に動く可能性がある。
 天皇制と民主党政権の問題に触れる。新しい支配勢力はアキヒト天皇制との調和的なシステムをつくりだすだろう。イギリスでは王室と人民が何度も契約を繰り返したが日本ではそういうことはなかった。しいていえば天皇の人間宣言と憲法1条がその代わりといえるかもしれない。今回の選挙で日本は一定の民主化を果たし、一歩前進した。今後民主党は新たな契約代理物をつくるだろう。たとえば神道と分離した無宗教の国立追悼施設をつくるといったことだ。
 改憲については、自民党が推進した憲法9条2項や24条男女同権まで変える方向にはいかないだろう。9.11以降の対米従属路線を脱し、一定の対米自立路線を歩むだろう。天皇制の再構造化も含め、こうした新しい契機が改憲への新たな社会的呼び水になりうることには今後、注意する必要がある。
 このあと6つの分科会が開催された。わたくしは「天皇制の戦争責任・戦後責任」の第2分科会に参加した。タイトルは「『謝罪と補償』を求めるアジアの人々に「平成」の日本国家は、どう応えてきたのか?」である。
 まず、高橋寿臣さん(反天皇制運動連絡会)から「戦後補償裁判とは何であり、どのように展開されてきたのか」という報告があった。
 戦後補償裁判は、80年代までは8件に留まったが、90年以降この20年で80件に劇的に増えた。被害・犠牲の内容は、「軍隊慰安婦」問題、強制連行・強制労働、戦後補償における日本人との差別、捕虜虐待、非日本人のBC級戦犯問題などさまざまだ。判決は、ごく一部の裁判で認容や和解になったがほぼすべて「国家レベルにおける戦後処理は決着しており、個人レベルの犠牲への補償(請求権)は消滅した」という理由で棄却(原告の敗訴)された。
 昭和天皇にはもちろん戦争責任がある。ただアキヒトに、個人としての戦争責任を問うのはむずかしい。しかし天皇継承者としては責任を負っている。90年に盧泰愚(ノテウ)韓国大統領が来日した際、アキヒトは宮中晩餐会で「私は痛惜の念を禁じえません」と述べた。しかし天皇が天皇の地位のままごめんなさいというのではいけない。責任を取るなら、退位し、天皇制廃止を前提に謝罪すべきだと考える。
 次に内海愛子さん(日本アジア関係論)から「BC級戦犯とされた人々の闘いとその想い・裁判の経過と内容」と題する問題提起があった。
 わたしは1988年の昭和天皇の下血のニュースをニューヨークで聞いた。それまでアジアに対する日本の侵略と植民地支配の問題を中心に運動していたが、このニュースに激しく怒ったのは欧米の元捕虜だった。アジア太平洋戦争で日本軍が戦ったのは、シンガポールでは英印軍、インドネシアでは蘭印軍、つまり欧米と現地人の連合軍だった。30万人の捕虜のなかに白人が12万人いた。日本軍は30万人もの捕虜を処遇することはできず、現地人はいちおう「解放」して労務者にした。白人は捕虜にして日本に連行して強制労働させたり、現地の収容所に入れ、たとえば泰緬鉄道で使役した
 陸軍省は俘虜管理部をつくり、外地の収容所のトップは将校、その下に若い下士官がいたが、現場を任されたのは植民地・朝鮮や台湾の若者の軍属だった。内地の収容所は傷痍軍人を使った。朝鮮や台湾の若者に満足な教育は行わず、教えたのは軍人勅語や「生きて虜囚の辱(はずかしめ)を受けず」の戦陣訓だった。つまり捕虜は「恥ずかしい」存在とされた。
 虐待とは、殴る蹴るだけでなく、食糧不足による飢餓や強制労働、医薬品不足も含まれる。コレラや熱帯性アメーバの医薬品や圧倒的に不足し、泰緬鉄道のバラスト踏みでは靴がなく裸足で作業し熱帯性潰瘍になっても、麻酔なしで足を切断手術することもあった。秋田の花岡鉱山では大豆カスやリンゴの絞りカスまで朝鮮人・中国人の食糧になり、最後には仲間の死体の肉を食べることもあった。
 英米は開戦直後から、捕虜の待遇を取りきめた1929年のジュネーブ条約を守ることを強く要求した。日本はジュネーブ条約に署名していたが陸海軍や枢密院の反対で批准はしていなかった。そこで外務省は条約を「準用する」と答えた。しかし香港の捕虜収容所での虐待やバターン半島のデス・マーチは国際的に有名になっていた。そこで1945年のポツダム宣言10項で「吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ厳重ナル処罰ヲ加ヘラルベシ」と宣言し、戦後の戦犯裁判を行った。
 BC級戦犯裁判では「通例の戦争犯罪」により5700人が起訴され、4400人が有罪、うち984人が死刑に処せられた。このうち旧植民地出身者で有罪になった人が7%含まれ、朝鮮人で有罪が148人(うち死刑23人)、台湾人で有罪が137人(うち死刑21人)いた。
 1951年9月日本はサンフランシスコ講和条約に署名し、52年4月28日発効した。同時に朝鮮人や台湾人は日本国籍を喪失した。
 そして4月30日戦傷病者戦没者遺族等援護法(援護法)が公布施行され、4月1日にさかのぼり適用された。その附則2項で「戸籍法の適用を受けない者については、当分の間この法律を適用しない」とされた。戸籍は*内地戸籍、朝鮮戸籍、台湾戸籍に分かれており、4月1日時点で国籍が日本人でも戸籍が内地戸籍でないので適用されない。こうして旧植民地の人は援護法の遺族年金や障害年金から排除された。
 その後、帰化して日本国籍を取得した人は援護法が適用されるよう運用の変化があったが、帰化の時点は日韓請求権協定発効の日(65年12月18日)以前に限定された。当然帰化を拒否する人がおり、戦後補償裁判が提訴された。高裁判決の付言で「立法措置を講じる」ことが求められ、2000年在日旧軍人・軍属給付金法が制定され、遺族に260万円、当事者に400万円が支給されることになった。ただし3年間の時限立法だった。戸籍や国籍条項にみられるよう、侵略は武力だけでなく、日常気づかないところでも行われる。
 一方、1952年5月1日法務総裁(現在の法務大臣)は「戦犯は犯罪人ではない」という通達を出し、死刑を「法務死、公務死」とし、援護法の対象にした
 また戦犯裁判で裁かれたのは軍政系統の人だけで、服部卓四郎ら軍令系統の人は裁かれなかった。こういう高級参謀が戦後の再軍備に暗躍した。
 逆に巣鴨プリズンに収容された若い将校や民間人のなかで、戦場をよく知っているのは戦犯だと、反戦平和運動を行ったグループも現れた。「私は貝になりたい」の原作をまとめた加藤哲太郎もその一人だ。
 戦犯裁判は未完のテーマのまま終わった。わたしたちはあの裁判で何が問われたのか問い直すべきだ。90年代に入り、韓国の民主化のなかで次々に被害者が声を上げ始めた。日本の市民も裁判を運動で支えた。市民が日本の戦争責任の問題を自ら問い直しながら関わったのだと思う。
 80件以上の戦後補償裁判は、慰安婦裁判に限らずひとつひとつすべて違う。どれか一つでよいので関心を寄せてほしい。そこから全体が見えてくる。これから中国人の強制連行の問題が、訴訟も含め起こってくるだろう。
 分科会のあと総括会が行われ、各分科会から報告があった。わたしは最後までは参加できなかったが、第4分科会「ミチコの20年 天皇制の危機?」の女性と天皇制研究会の報告が興味深かった。ミチコの皇室改革への絶賛は、女性自衛官の増加など「女性の社会進出」と関連するとのことだった。報告の内容は概略下記のようなものだった。
 今年は結婚50年の年でもありミチコ、マサコ、キコら女性皇族がメディアに露出した。ミチコの「開かれた皇室」絶賛ムードは、ここ10年に過ぎず、それ以前は右翼や皇室内部のバッシングが続いた。「絶賛」の社会的背景に70年代のウーマンリブ、フェミニズムや、85年の男女雇用機会均等法があった。たとえば女性自衛官は85年に1.5%だったのが95年に4.3%に激増した。93年皇太子は自らエリート女性マサコを選び結婚した。皇太子の結婚観にはミチコの教育方針が反映しており、皇室の危機はミチコが招いた、つまりミチコの失敗といえる。ミチコは出産、育児、家事など私的領域での改革には成功したが、天皇制の男系世襲という壁は乗り越えられなかった。
☆この日も一目で公安とわかる人が多数、会場前の歩道に立っていた。暗くなった19時過ぎになってもまだ出てくる人のチェックを続けていた。井上ひさしの「組曲虐殺」には小林多喜二を監視する特高刑事2人が登場する。1933年ごろは特定の人物を検挙すれば高額の報奨金が出たそうだ。ドラマでは刑事の一人は、ちょうど生まれた双子のおシメの新調を当てにしていた。いまでも報奨金はあるのだろうか。ラストは、もう一人の山本刑事が「交番巡査組合」結成運動の活動家になり、特高に追われる場面だった。
『多面体F』より(2009年10月20日 集会報告)
http://blog.goo.ne.jp/polyhedron-f/e/552cacfaa3105e9f6b3346c13dc12a51

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