☆ 東京大空襲を指揮したカーチス・ルメイ氏の叙勲授与、取消要請 (立川テント村通信)
3月10日、参議院会館で沖縄戦遺骨収集(ガマフヤー)ボランティア具志堅隆松氏が、表題の主旨で内閣府賞勲局に要請行動をした。
内閣府賞勲局からは担当官が1名出席。この時期は春の叙勲の準備で超多忙との説明を受けた。空襲被害者の遺族など約30人が集まった。
☆ いのちと自衛隊育成
太平洋戦争で米軍は日本各地で空襲を繰り返した。3月10日は東京で一夜にして10万人以上の命が奪われた。全国での空襲犠牲者は50万人以上と言われるが、国は調査をしていない。ルメイ氏が指揮したのは67都市。
冒頭、具志堅氏は「カーチス・ルメイ氏は、一般市民を大量殺裁した敵国の軍人。なぜ叙勲なのか。日本人として到底受け入れられない」と、怒りを抑えながら質問した。
1964年日本政府はカーチス・ルメイ氏に勲一等旭日大綬章を授与している。賞勲局は「賞勲は、各省庁が功績を吟味し内閣府に要請する。ルメイ氏の叙勲は、外務省が日本の航空自衛隊の育成・発展に寄与した功績に対して要請した。内閣府は要請を検討して閣議で決めた」と、そして、戦時下と日本国憲法下の叙勲に連続性はないことの理解を求めた。
具志堅氏が当時の国民に認知されていたのかと問うと、過去2回国会で取り上げられていたと言う。
☆ 人命軽視・無差別攻撃
少年時代のルメイ氏は空を飛ぷことに憧れていた。自分の夢に向かって航空隊の学校に入り士官になった。
米軍は当初、軍需工場などを攻撃目標にしていたが「早く終わらせる」ために、より効果的である無差別攻撃に変えた。米国は日本の気象条件、密集する木造家屋などを詳細に分析していた。
ルメイ氏は日本の防空システムの不備を利用して、大量の焼夷弾搭載、夜間の低空飛行による空襲「無差別攻撃」を指揮した。この無差別攻撃は、既に同本が中国侵攻を始めた1937年、重慶などでやっていた。65年、米軍はルメイ氏指揮のもとでベトナム北爆を開始している。
☆ 受忍と叙勲
今、政府は軍産学共同で軍事力強化を進めている。戦争は破壊と殺裁だ。そのために技術と叡智をつぎ込むのは間違っている。
国に貢献した者には賞勲や恩給があり、空襲被害者には受忍を強いている。今も、傷が癒えない「空襲被害者とは雇用関係がない」という理由で補償の対象外だ。
戦時下の防空法では消火は国民の義務で避難禁止。東京大空襲の日、近衛歩兵連隊の裏門には空襲で焼かれた死体が折り重なっていたとある。兵士は戦争が任務。外が火の海であろうと罪は問われない。
いつの時代も、すべての人にその生をまっとうする権利があるはず。決して、国のためにではなく自分のために生きられる社会を望む。
交渉の終わりに、賞勲局は要請があれば今後も交渉に応じると言う。この日を端緒にする決意で終わる。
『立川テント村通信 566号』(2025年4月1日)
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