☆★ 高校はどこへ行くか ★☆
高村薫
●学習指導要領の存在意義
全国の高校の一割が、大学受験に必要な科目を重視するあまり、学習指導要領に定められた必修科目の一部を生徒に教えていなかった。不正はすでに多くの高校で常態化していたと見られ、問題は深刻である。
大学入試まで三カ月というこの時期、生徒や父母の不安を代弁するかたちで、文部科学省は未履修の単位を抱えた受験生に配慮する対策を早々に決めたが、政府も文科省も、高校教育の現状を本気で憂慮しているようには見えない。
高校の裁量で必修科目を教えないこともあるという事実は、学習指導要領の存在意義を否定するものであるのに、政治家や役人の目はどこについているか。
●大学受験に対応していない学習指導要領
もっとも、高校にしてみれば、現実の大学受験に対応しておらず、一貫した基本方針をもたず、しばしば内容が変わり、そのつど現場を混乱させるような指導要領は、押しつけられても迷惑というものだろう。
しかも文科省は、通達は出すが、学校での実施状況には無関心かつ無策であり、都道府県と学校に下駄を預けて、責任は取らない。こうなると、高校のあり方や、高校で教えるべき内容について、誰が確たる方向を決め、誰が責任をもって実施するのか、国民が不安にならないほうがおかしい。
政府が執心してきた改正教育基本法など、学校教育の課題にはなんの関係もない。政治がいま一度考えるべきは、実業高校を含めた高校教育全部の基本である。大学受験はその上の二階部分にすぎない。
●甘やかされている受験生
ただし、問題は錯綜している。
都道府県は、進学率を上げろと高校に言う。
高校は、学校五日制で授業時間数が減ったうえに新たな必修科目が増えて、これでは大学受験に備えられないと言う。
大学のほうは、少子化時代に定員を確保したい私学は入試科目を減らし、国公立は相変わらず高校の履修内容を超えた難しい試験で学生を選抜しようとする。
さらに、根本には大学進学率の上昇と、塾に通える子どもと通えない子どもの教育格差、地方格差の問題もある。
またさらに、進学熱が高いわりには、生徒の負担をできるだけ減らしたいというゆとり教育の発想が学校にも子どもにも浸透しており、結果的に履修科目の削減を加速させている現実もある。
学校や塾で受験科目に集中することを許されている現代の子どもたちは、こと勉強にかけてはかなり甘やかされているということもできる。
●高校教育の構造的矛盾
見えてくるのは、現代の普通高校が大学受験のためにあるという身もふたもない現実である。
目的が進学であれば、普通高校はそのための授業態勢を取るほかない。さらに進学率で高校が評価され、父母もそれを歓迎するとなれば、学習指導要領はもはや建前でしかない。
これは明らかな構造的矛盾だが、高校も生徒も父母もともかく現実を優先させてくれと言う。
そして、この矛盾の一端にある大学のほうも、いまや自らの経営に手一杯で、入試制度に目配りする余裕はない。
こうして失われてゆくのは高校で何を学ぶかという本質である。
もとより高校は大学受験の予備校ではない。高校生の約五割にとって、社会に出てゆくために必要な最後の学びの場であり、五割の進学希望者にとっても、大学で学ぶために必要な最低限の土台をつくる場が高校である。
歴史や地理を含めたすべての教科は、どれもが一体となって世界を眺める眼差しをつくる。社会で働くのも、学問をするのも、そうして育まれた眼差しの営みである。そのために全高校教育はある。
●学びの醍醐味示せぬ政治
とすれば、まずは学校長をはじめ教育者は、履修科目をできるだけ増やしこそすれ、減らすことはないはずだ。
またセンター試験は科目数を増やし、一方で世界史の年代を暗記させるような出題をやめるべきだ。
また、大学は高校の履修内容を逸脱するような入試を自制し、代わりに猛烈に勉強しなければ卒業できないようなシステムに変わるべきだろう。
高校の未履修問題が投げかけているのは、高校教育の不全である。
子どもたちは入試問題を解く訓練はしているが、そこには本来の学びの醍醐味や可能性はない。高校教育とは何かを示せない政治と学校の現状を憂う。
(たかむら・かおる"作家)
『東京新聞』(2006/11/13)「社会時評」
高村薫
●学習指導要領の存在意義
全国の高校の一割が、大学受験に必要な科目を重視するあまり、学習指導要領に定められた必修科目の一部を生徒に教えていなかった。不正はすでに多くの高校で常態化していたと見られ、問題は深刻である。
大学入試まで三カ月というこの時期、生徒や父母の不安を代弁するかたちで、文部科学省は未履修の単位を抱えた受験生に配慮する対策を早々に決めたが、政府も文科省も、高校教育の現状を本気で憂慮しているようには見えない。
高校の裁量で必修科目を教えないこともあるという事実は、学習指導要領の存在意義を否定するものであるのに、政治家や役人の目はどこについているか。
●大学受験に対応していない学習指導要領
もっとも、高校にしてみれば、現実の大学受験に対応しておらず、一貫した基本方針をもたず、しばしば内容が変わり、そのつど現場を混乱させるような指導要領は、押しつけられても迷惑というものだろう。
しかも文科省は、通達は出すが、学校での実施状況には無関心かつ無策であり、都道府県と学校に下駄を預けて、責任は取らない。こうなると、高校のあり方や、高校で教えるべき内容について、誰が確たる方向を決め、誰が責任をもって実施するのか、国民が不安にならないほうがおかしい。
政府が執心してきた改正教育基本法など、学校教育の課題にはなんの関係もない。政治がいま一度考えるべきは、実業高校を含めた高校教育全部の基本である。大学受験はその上の二階部分にすぎない。
●甘やかされている受験生
ただし、問題は錯綜している。
都道府県は、進学率を上げろと高校に言う。
高校は、学校五日制で授業時間数が減ったうえに新たな必修科目が増えて、これでは大学受験に備えられないと言う。
大学のほうは、少子化時代に定員を確保したい私学は入試科目を減らし、国公立は相変わらず高校の履修内容を超えた難しい試験で学生を選抜しようとする。
さらに、根本には大学進学率の上昇と、塾に通える子どもと通えない子どもの教育格差、地方格差の問題もある。
またさらに、進学熱が高いわりには、生徒の負担をできるだけ減らしたいというゆとり教育の発想が学校にも子どもにも浸透しており、結果的に履修科目の削減を加速させている現実もある。
学校や塾で受験科目に集中することを許されている現代の子どもたちは、こと勉強にかけてはかなり甘やかされているということもできる。
●高校教育の構造的矛盾
見えてくるのは、現代の普通高校が大学受験のためにあるという身もふたもない現実である。
目的が進学であれば、普通高校はそのための授業態勢を取るほかない。さらに進学率で高校が評価され、父母もそれを歓迎するとなれば、学習指導要領はもはや建前でしかない。
これは明らかな構造的矛盾だが、高校も生徒も父母もともかく現実を優先させてくれと言う。
そして、この矛盾の一端にある大学のほうも、いまや自らの経営に手一杯で、入試制度に目配りする余裕はない。
こうして失われてゆくのは高校で何を学ぶかという本質である。
もとより高校は大学受験の予備校ではない。高校生の約五割にとって、社会に出てゆくために必要な最後の学びの場であり、五割の進学希望者にとっても、大学で学ぶために必要な最低限の土台をつくる場が高校である。
歴史や地理を含めたすべての教科は、どれもが一体となって世界を眺める眼差しをつくる。社会で働くのも、学問をするのも、そうして育まれた眼差しの営みである。そのために全高校教育はある。
●学びの醍醐味示せぬ政治
とすれば、まずは学校長をはじめ教育者は、履修科目をできるだけ増やしこそすれ、減らすことはないはずだ。
またセンター試験は科目数を増やし、一方で世界史の年代を暗記させるような出題をやめるべきだ。
また、大学は高校の履修内容を逸脱するような入試を自制し、代わりに猛烈に勉強しなければ卒業できないようなシステムに変わるべきだろう。
高校の未履修問題が投げかけているのは、高校教育の不全である。
子どもたちは入試問題を解く訓練はしているが、そこには本来の学びの醍醐味や可能性はない。高校教育とは何かを示せない政治と学校の現状を憂う。
(たかむら・かおる"作家)
『東京新聞』(2006/11/13)「社会時評」
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