パワー・トゥ・ザ・ピープル!!アーカイブ

東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

〈中国通信1114〉真実を追求する魯迅

2017年02月23日 | 平和憲法
 皆様へ、日中友好と教育の自由のために〈中国通信1114〉を送ります。
 重複お許しください。ご意見ご批判をお願いします。転送OK。
 *記事の中国語原文については大幅に(略)しています。全文を読みたい方はご連絡ください。
 ◆ 映画《母 小林多喜二の母の物語》上映(八王子・イチョウホール)
 *小林多喜二が虐殺されたとき、魯迅は次のような追悼文を寄せた。(日本語訳:近藤)
 “我?知道,我?不会忘却。”(我々は知っている。我々は忘れないだろう。)
 “我?将?定地沿着小林同志的血路携手前?。”(我々は、断固として小林同志の血路に沿って手を携えて前進するだろう。)
 今日、《共謀罪》が画策されている時、映画の中でも特高が“治安維持法に死刑が加えられた。”と恫喝したのを忘れない。(近藤)
 ~~~~~~~~~~~~~~~
  ◆ 魯迅、お化けを蹴る
    作者:?? 原文:『読者2016・19』(日本語訳の簡約:近藤)

 ~~~~~~~~~~~

 お化けは一体いるのか、いないのか?

 見たという人もいれば、お化けと話したという、また、後を付けられたというもの、吊るされたお化けが人を見ると壁に張り付いたという、しかし、お化けを捕まえてみんなに見せた者はいない。
 魯迅先生は彼が見たお化けの話をみんなに聞かせた。

 “紹興で・・・”魯迅先生は言う、“30年前・・”

 その時魯迅先生は日本から帰り、なんというかわからない学校で教え、夜は何もないとき友達のところで語った。
 この友達の家は学校から数里(中国の1里は500メートル)のところにあり遠くなかった。
 しかし、墓地を通り過ぎなければならず、時に遅くなり、11・2時になって学校に帰ることもあった。ある時、魯迅先生はとても遅くなり、空には大きな月が出ていた。
 魯迅先生が帰路を急いでいると、遠くに白い影があった。魯迅先生はお化けを信じていなかった。
 日本に留学して学んだのは医学でよく死人の解剖をし、20数体にものぼり、お化けが怖くないばかりか死人も怖くなかった。
 したがって、墓地も怖くなく、いつも通り進んだ。

 数歩もいかないうちに、白い影はなくなり、突然また現れ、時に小さくなったり大きくなったり、高く低くなり、お化けのようだ、お化けは変幻自在ではないだろうか?
 魯迅先生は、少し怖くなり、一体進むべきか、引き返すべきか?もともと、学校への道はこの道だけではないが、これが最も近いのだ。
 魯迅先生はさらに前に進み、お化けはどんなものか見ようとした。怖かったけれども。
 魯迅先生はその時日本から帰ったばかりで、かたい底の靴を履いていた。

 致命的な打撃を与えようと、白い影のそばに近づいた時、白い影は小さくなり、しゃがんで、1声も発せず、墓に寄り掛かった。
 魯迅先生は、かたい靴で蹴った。白い影は、“おお”と1声叫び、立ち上がった。魯迅先生がしっかり見ると、なんと人だった。
 魯迅先生は言う。彼は蹴った時、怖くて、もしひとけりで死ななかったら、反撃されると思い、全力で蹴った。
 もともと、盗掘をしていたもので、魯迅先生はここで笑い出し、“お化けも蹴られるのが怖くて、ひと蹴りするとすぐ人になった。”
 私は、もしお化けでも魯迅先生に蹴られるのはいいことで、人になる良い機会を得たのだから、と思った。
コメント    この記事についてブログを書く
« 大阪市職員基本条例は、当局... | トップ | JAL不当解雇撤回国民共闘... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

平和憲法」カテゴリの最新記事