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オールナイトニッポンと石田サン

2009-07-24 12:45:38 | 特集 石田達郎 石田のお父さん !
オールナイトニッポンと石田サン


                        羽佐間 重彰


「お前は部長だろ。自分のやりたいことはやったらいいじゃないか!」
と、石田サンの叱声が飛んだ。

「ヤング・ヤング・ヤング」「日立ミュージック・イン・ハイフォニック」
など、若年層の番組に先鞭をつけたニッポン放送だったが、
0時過ぎの深夜には手を出せなかった。 
すでにTBSの「パック・イン・ミュージック」、文化放送の「セイ・ヤング」は始まっていた。 
ニッポン放送の深夜は「株式会社深夜放送」に制作・営業を委託していたのだ。
 この会社は資本はニッポン放送だが、代理店買い切りで、営業・制作はまったく別経営になっていた。34名の社員で、月商700万円位。

 深夜をニッポン放送の制作にすると、この会社の社員の問題が発生する。
 「深夜放送の社員はどうすればいいんですか」と、私が聞くと
「そんなことは俺がやってやる」と即答。
 石田さんサンはニッポン放送の常務・編成局長だったが、
当時発展期にあったポニーの専務でもあった。
 
そのポニーに深夜放送の社員の半分を引き取り、後はニッポン放送に
移籍させた。
 見事な裁き方であった。
 
これなくしては「オールナイト・ニッポン」は出発できなかった。
 昭和42年のことである。

×         ×

10月にスタートした「オールナイト・ニッポン」は、営業局に
セールスを半年待って貰った。評価が定まるまで一括セールスして
ほしくなかった。揉めたことは言うまでもない。

そこでまた石田サンである。
半分の300万円をポニーがスポンサーになってくれたのである。
破竹の勢いのミュージックテープの時代であった。
「オールナイト・ニッポン」設立には、石田サンなくしては成り
立たなかったのである。

×          ×

 後日談がある。
 「帰って来た酔っ払い」の反響の大きさから、営業は完売して翌年
からポニーの援助を必要としなくなった。
 しかし何も知らないディレクターやパーソナリティは、スタートした
ばかりのキャニオンのレコードを殆どオン・エアさせなかった。

 石田サンは「分かってないんだな、みんな」と、苦笑されるのみだった。


当時 編成部長 羽佐間 重彰



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