五十年前 小学校の登下校が交通の規則を学習するため
1年生から六年生まで 自治で区分けした子供同士
いっしょに歩くようになっていました。
その集合場所で 休憩時間で お手だまをして
あそぶ習慣がありました。
あそびうたにあわせて 1つなげ投げたお手玉が落ちてきて
下に到達する前に捕まえる
この短い時間に
いくつものお手玉を動かして あわせて拾って行く作業をする。
一見 単純な遊びだけれど 意識が三つ以上働くうち玉を受け取るという
集中しなければならない作業ができて はじめて上手にお手玉はできるのです。
子供のころは 上級生の上手さに感動したり
下級生の追い上げに懸命に練習したものでした。
お手玉は 自分で上級生に教わって作りました。
この一連のあそぶ姿を 目くじら立てずに見守る大人たちがいたのです。
一年生から 身体に必要なあそびに 精神や気配り
そして 幼い人のありさまを 自然に理解できるようになっていたとおもいます。
理屈などなく 楽しんでいた子供時代の記憶から
いま意識できる楽しみのスパイスをひもといてみると
この婆にも通じる人生荒波越えのヒントがありました。
それは集中するべきときに かならず集中して事に当たるべき。
でも 意識はときに散漫にトリアージする余裕の時間も 必要だということです。
今年のお節はあと一歩の集中ができずに
すべておいしくないものになってしまいました。
あとから 少しずつ修正したら随分おいしくなったのに
散漫な意識から自分を引き上げられず撃沈でした。
その原因は お手玉つくりでした。
子供のころはできたのに いざ六十二なって復習したら
これが結構難しい数学でした。
今ではゲームがあって 実際のお手玉は伝えられていませんが
昔の女性の気配り 集中力 子育てのスパイスは
お手玉にも潜んでいたような気がしています。
1年生から六年生まで 自治で区分けした子供同士
いっしょに歩くようになっていました。
その集合場所で 休憩時間で お手だまをして
あそぶ習慣がありました。
あそびうたにあわせて 1つなげ投げたお手玉が落ちてきて
下に到達する前に捕まえる
この短い時間に
いくつものお手玉を動かして あわせて拾って行く作業をする。
一見 単純な遊びだけれど 意識が三つ以上働くうち玉を受け取るという
集中しなければならない作業ができて はじめて上手にお手玉はできるのです。
子供のころは 上級生の上手さに感動したり
下級生の追い上げに懸命に練習したものでした。
お手玉は 自分で上級生に教わって作りました。
この一連のあそぶ姿を 目くじら立てずに見守る大人たちがいたのです。
一年生から 身体に必要なあそびに 精神や気配り
そして 幼い人のありさまを 自然に理解できるようになっていたとおもいます。
理屈などなく 楽しんでいた子供時代の記憶から
いま意識できる楽しみのスパイスをひもといてみると
この婆にも通じる人生荒波越えのヒントがありました。
それは集中するべきときに かならず集中して事に当たるべき。
でも 意識はときに散漫にトリアージする余裕の時間も 必要だということです。
今年のお節はあと一歩の集中ができずに
すべておいしくないものになってしまいました。
あとから 少しずつ修正したら随分おいしくなったのに
散漫な意識から自分を引き上げられず撃沈でした。
その原因は お手玉つくりでした。
子供のころはできたのに いざ六十二なって復習したら
これが結構難しい数学でした。
今ではゲームがあって 実際のお手玉は伝えられていませんが
昔の女性の気配り 集中力 子育てのスパイスは
お手玉にも潜んでいたような気がしています。
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