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音楽療法のライブ日記

音楽療法士がお届けする、日々の活動記録と情報発信のブログです。

延命措置を中止してもらえた家族の想い・・

2022-03-04 16:07:11 | ひとりごと
「点滴の管を取りますね」と医師が優しく言葉かけをされる。
89才のお母様が脳梗塞で救急搬送された大学病院で命を繋ぐために
心臓に近い首辺りの太い静脈の点滴から栄養を取る「中心静脈栄養」処置をされたという。
ただ、家族は人に頼らず気丈だったお母様が今の生き方を望んでいるのか・・、
疑問に思うとともに、お母様らしさを尊重したいと希望されて管を外すことを決断された。

‘最期まで自宅で自分らしく生きるサポート’をする病院の番組でした。
現在8割の人が病院で最期を看取ることに疑問を抱いた医療者たちの挑戦だそうです。
家に帰りたくても帰れない・・、そんな現実を見てきた医療者が集ったという。
住み慣れた我が家で最期を迎えられるように、患者と家族を支えたいとのこと。

私の母が同じように脳梗塞で緊急入院してから10ヵ月余の間、
介護、看護、医療関係者の多くの人に支えていただきました。
身近においても長い付き合いのある友人から多くの励ましをもらいました。
そんな友人の一人から、「お母様と同じような看取りの番組があったよ」と
ご連絡をいただき、拝見させてもらいました。

意思表示が出来ず寝たきりの状態で、気丈だったお母様の雰囲気は私の母と同じです。
同時に家族の不安な想い、迷いから決断に至るまでの経過も同じでした。
母は中心静脈栄養の点滴ではなく、経腸栄養法で鼻から胃まで管を通して栄養を取りましたが、私たち家族はかなり紆余曲折でした・・。

母が延命治療を望まなかったこと、家族も同様であることをその都度医師に伝えましたが、
「本人が書いた書面が無いから意思確認ができない」「管を外す処置をしたことが無いので」
「栄養で身体は安定しているから」「鼻管栄養の処置をした医師に抜いてもらわないと」
「他の医師を探してください」「経管栄養をする時に断らないと途中下車は出来ない」
「栄養の量を減らすことは出来るが、抜くことはできない」と・・・。
厚労省のガイドラインで医療行為の変更及び中止の話し合いは可能だと記してあることを
伝えましたが「ガイドラインに過ぎませんから」と・・。
家族に寄り添うことは無く、管を取る処置はしてもらえませんでした・・。
家族が最も辛い時間を過ごし、袋小路に入って迷い諦めかけた時でした。

ケアマネジャーさんの紹介で会えた医師は上記の番組と同じように優しい声で
「(管を)抜きましょうね。ご高齢でもあるし、ご本人もご家族さんも望まれていますので」と。
身体から力が抜けていきました。ずっと堪えてきた涙が溢れてきました。
やっと母の願いが叶って、母自身が楽になれると思えました。

コロナ禍で面会も限られていましたが、母に会えて嬉しいと思ったことはありませんでした。
延命治療を望まないことを何度も聞いていた私は母の姿を見るたびに辛い気持ちでした。
脳梗塞の後の後遺症である痙縮から既に拘縮にまでいき、足も手も曲がったままで
伸ばすことは出来ません。自己実現できることは何も無く、寝たきりで鼻から胃へと管を通した
栄養のみで「生きること」に母を頑張らせてしまったことには今でも後悔が残っています。

番組でも言われていましたが、管を抜いて栄養と水分を摂らなければ余命は一週間程度だと。
私の母も6日目の朝に静かに息を引き取りました。
管を抜くことを拒否された医師に余命を尋ねた時に「それは分からない」と言われた。
この後何年も母は寝たきりで意識が分からない状態が続くかもしれないと
悲嘆にくれたことを思い出します。

その後、様々な本などを読んでいると、最期に近い看取りの時には水分を摂ると却って
むくんだり、辛いそうで、身体の水分を出しきった方が安らかに逝けることを知りました。
一人ひとり異なる看取りの時になるかと思いますが、本当に多くのことを学ぶ機会になりました。

ただ、番組でもお母様を看取られたご家族が
「淋しさはありますが、後悔とかじゃなく、亡くなった時からすごく気持ちが穏やかなんです」と。
その穏やかな気持ちの感覚はとてもよく分かります。
やっと母を見送ることが出来たこと、多くの人たちに私達家族が支えられたこと、
家族皆で同じ気持ちを持ち続けられたこと。
本当に穏やかな気持ちで沢山の思い出を整理できていることに感謝です。

患者や家族を支え、寄り添いながら、‘最期まで自宅で自分らしく生きるサポート’へ
挑戦される医療者の皆様を心より応援しています。

  ・・・・・・・    ・・・・・・・    ・・・・・・・
因みに、令和2年(2020年)5月に日本医師会 生命倫理懇談会 答申
『終末期医療に関するガイドラインの見直しと
         アドバンス・ケア・プランニング(ACP)の普及・啓発』
として21ページに亘ってまとめられています。

以下、一部を掲載します・・・
人生の最終段階における ACP の重要性と延命措置の開始・差し控え・変更
及び中止等に関して、基本的な考え方及び手続き等を述べた。
患者が延命措置を望まない場合、または本人の意思が確認できない状況下で
ACP 等のプロセスを通じて本人の意思を推定できる家族等がその意思を尊重して
延命措置を望まない場合には、このガイドラインが示した手続きに則って
延命措置を取りやめることができる。
それについて、民事上及び刑事上の責任が問われるべきではない。
本人の意思決定を尊重した医療・ケアを提供し、尊厳ある生き方を実現するために も、
本人が意思を明らかにできるときから、家族等及び医療・ケアチームと繰り返し
話し合いを行い、その意思を共有しておくことが重要になると考える。

従来、延命治療といわれてきたが、現在では、これはもはや「治療」ではな いとする
考え方も有力になりつつあるため、本ガイドラインでは、延命措置と いう言葉を用いた。

忌明けでひと区切り

2022-02-28 08:48:17 | ひとりごと
昨日、母の四十九日法要が終わり、やっとひと区切りした気持ちでいます。
久し振りに早朝散歩をすると、小川沿いの白梅は満開、紅梅も7分咲きでした。
春らしい景色と太陽が上る眩しい陽射しを受けて心を軽くして帰ってきました。

母の思い出アルバムを兄夫婦始め、孫夫婦、曾孫たちにわちゃわちゃと
楽しく見てもらった事は何より嬉しいひと時でした。
母の喜寿、米寿、卒寿などのお祝い時に皆で書いた色紙も綺麗に飾ってもらって
義姉の優しさと心配りに感謝の気持ちを伝えました。

一人っ子だった母は家族皆が幸せでいることを何より願っている筈です。
コロナ禍の中なので、十分に気を気をつけながらでしたが、
退院した兄も含めて、思い出話で賑やかに過ごせたことは何よりの供養だと思います。
4月には百か日法要がありますが、別名「卒哭忌」と言う話を和尚さんがされていました。

あらためて、一人ひとりの看取り時も、最期の時も全て異なり、
一人の人の生と別れることについて多くを学ぶ機会になりました。
偶然とはいえ、折りしも母の命日は父と同じ日になり、昨日の四十九日法要は
一年前に母が脳梗塞で緊急入院したその日でした。
病院や施設ではコロナ禍で会えないことの辛さを感じておられる多くの人の気持ちに
共感できます。
会う前にPCR検査をして陰性であれば面会は出来るということをせめてもの
望みとしてお伝えしてきましたが・・、叶うことはありませんでした。

在宅介護に対する家族への支援も少しずつですが、丁寧で柔軟な体制が整えられる
様になっていると感じています。
何よりお互いに理解し合える話し合いの時間を持つことは在宅介護の敷居を
低くする要因だと思っています。

母への看取りの毎日を安心とともに充実させていただけたのは本当に有難く、
昨日も義姉とともに感謝の気持ちを共有していました。

自宅で「自分らしい死」を迎えるために・・

2022-02-24 20:29:21 | ひとりごと
母の最期を自宅で看取った体験を通して、私の想いと重なるネット記事の特集を
見つけましたので、以下簡略した内容をご紹介します。

東京の「やまと診療所」における在宅医療の看取りに関する特集です。

********  ********  ********  ********  ********  
2020.03.15 #終末期医療  
自宅で「自分らしい死」を迎えるために大切な「ただ1つのこと」
~やまと診療所のPAが示す看取りの未来~
根岸 康雄:ノンフィクションライター

2035年前後のピーク時には、年間死者数が170万人以上に及ぶ。
年間の死者数がいまよりも30万人以上増えるのだ。
国はこれ以上の病床の増加は抑える方針だ。
・・・これまで死に場所の8割は病院だったが、これからは自宅での看取りが加速するのだ。

これまでの在宅医療は、クリニック等の病院の医師が在宅の診療を兼ねるという形が
一般的だった。 だが近年、病院を持たずに在宅医療だけに特化する医療機関が増えた。
24時間、365日、より多くの患者に質の高い在宅医療を提供するなら、
在宅に特化した医療機関の規模が大きくなのは必然と、やまと診療所の安井佑院長は言う。
在宅医療機関の急成長は、在宅での看取りがより一般化した証でもある。
在宅医療とは何か。自宅で死ぬとどんな状態になるのか。
自宅で死ぬことにどんな意味があるのか。・・・

いま亡くなっていく高齢者は、高度経済成長の日本を支えた人たちで、
最期を迎えても生か死か、白か黒かの戦いを強いられる。
本人も家族も医療者もつらい。90才の人が病院のベッドで管だらけになり、
「死んじゃいけない!」と言われる医療現場を目にしてきた安井氏にとって、
「我々の社会に必要なのは『見送りの医療』なんじゃないか」・・・

「皆さん、それぞれ自分の人生を自分らしく生きてきたわけで。
発病してその病気が治らないとなった時、自分らしさが見えなくなってしまう。
どんな最期を過ごしたいか。それを患者さん本人の意思で、見つけてもらう。
我々はそのお手伝いをします。自分らしさは、自分の生きてきた歴史の中にあるわけで」
ずっと暮らしきた家で、残りの時間を生きて旅立つのが最も自然ではないか ・・・

「子や孫や医療者、介護者、地域の人が、旅立った人から温かいメッセージを受け取れる。
温かい多死社会って悪いことじゃない。
多死社会が温かければ、社会全体を温かくすることができます。
我々が実現したいビジョンはまさにそれです」 ・・・

********  ********  ********  ********  ********

母が施設から自宅へ帰ってきてから、聴覚的な環境が大きく変化したことになります。
馴染みの仏壇のある座敷の部屋で、リンや木魚の音色、好きな音楽、
日々のニュース、家族を始め、看護や介護で関わって下さる人たちの声かけ、
日常生活における様々な音に包まれた空間は母らしい居場所だったことでしょう。

施設ではずっと見られなかった‘母の穏やかな表情’を自宅で見ることができ、
義姉と私はそれだけでも良かったと共感し合いました。
コロナ禍では十分気をつけながらになりますが、誰とでも会えます。
曾孫たちの声や雰囲気は、ほぼ一年振りくらいに感じとったことでしょう。

96年の人生を生きてきた母の歴史を振り返りながら作った‘思い出のアルバム’には
母らしさが溢れており、昨日皆で一緒に見ながら温かい気持ちになっています。

‘思い出’に包まれて・・

2022-02-20 07:04:14 | ひとりごと
母が自宅へ帰る二日前に脳梗塞で入院していた兄が退院しました。
会話は変わりなくできたので、スマホで報告や相談をしてきました。
ただ、やはり喪主として見送ることが出来なかったことは心残りだったことと察しています。

今日は六七日法要の日ですが、コロナ感染者の現状から遠路の帰省を見合わて欲しいと
連絡がありました。来週の四十九日法要には帰る予定でいます。
菩提寺から預かってきた写経を書くことで気持ちを届けることにしました。

感謝の思い出のアルバムも仕上がってきました。
母は綺麗好きで、几帳面で、お洒落で、音楽を好み、じっと見守るタイプの人でした。
私が迷ったり失敗したりした時にも何も言わずに見守ってもらいました。
そんな雰囲気が写真からもうかがえます。
母の大きな愛に支えられてきたことに気付かされ、あらためて感謝の気持ちでいっぱいです。

4年余り前に91才の母と二人で長島温泉へ旅行をしましたが、
「貴女が実家から離れてずっと遠くに行った折々には何も思わなかったけれど、
最近はつくづく近くに居て欲しいと思うようになったのよ、年取ったからかしら」と。
兄は二人いますが、心の距離は誰よりも近くにいるつもりでしたが・・。
それからは週二日の電話での長話を心がけました。
「この前、コンビニで〇〇ちゃんに会ったのよ。声かけたらびっくりした感じだったけど、
喜んでもらえて話したよ」
その通り、中高の親友からの今年の年賀状には
「去年、コンビニでお母さんから声をかけてもらってとても嬉しかったわ」と。
一年前まではしっかりしていました・・。

来週にはこのアルバムをお供え出来るように、楽しみながら仕上げたいと思っています。






在宅医療を選択するまで

2022-02-10 08:18:23 | ひとりごと
母を実家で看取ることを決めるまでには揺れ動く自分の気持ちもあって
かなりの時間を要し、多くの資料を参考にしました。
施設における母の担当医師とケアマネージャーとの話し合い。
実家で5年前から母と一緒に住んでいる兄夫婦との話し合い。

10年近く前に義母が認知症を患っている時に在宅ケアは正直無理だと思いました。
昼夜関係なく行動する母を私達夫婦が二人で交替しても難しいと感じていました。
物盗られ妄想があり、排泄ケアも夜に何度もあり、デイサービスを利用しても
日々の家での介護で心身ともに疲れている状態でした。

母が脳梗塞で入院した時は寝たきりで右半身麻痺、発語は無し、
食事も不自由だと聞いていました。
脳梗塞後に初めて会った時は複雑な気持ちになりました。
私の顔を認識した喜びの表情が見えて、左の手で握り返して返事が出来たことと
帰りに「またね」と声を発したことに喜びさえ感じました。
リハビリをしたら話せるようになるかも・・。
動く左手で文字盤を使って会話が出来るようになるかも・・。

コロナ禍もあって中々会えなくなっているなかで、
会うたびに状態が悪くなっていました。
退院して住宅型有料老人ホームへ行くことになっても面会は難しく
会えない月もあったり、短い時間しか会えないまま半年以上の月日が経ってしまいました。

会えない辛さが積み重なっていくうちに、在宅医療や在宅看取りに想いが募っていきました。
在宅でなら、いつでも母の傍にいられ、お世話も少しは出来、面会不可能だった孫や曾孫にも会える。
実家で無理なら私の地域で一緒に暮らすことも考えて家族と話し合いました。

地域の在宅医療に関する資料は「在宅療養支援診療所」でネットで地域毎に調べられます。
24時間訪問看護可能、往診診察可能、何時も訪問可能な体制。年間の看取り人数の把握、等。
後に年間の看取り人数の把握は重要だと分かりました。
経験が看取りに対するチーム力になっていると感じました。

実際に在宅医療を経験して思うことは、現在在宅で出来ないことは
専門的で大がかりな検査と手術だけの様に感じています。
母は脳梗塞後で寝たきり、介護度は最高の5(Ⅴ)で訪問診療、看護、介護など
介護保険と医療保険を利用しながら、診察から介護ケアプランまで
ケアマネージャーさんに日々のプランを家族とともに丁寧に作ってもらいました。
これなら家族も一緒に参加しながら母を見守れるという内容に安堵しました。
「緊急の場合だと思う時は遠慮なく、いつでも連絡してください」と看護師さんに言われ、
不安だった私たち家族の心の負担を随分軽くしてもらいました。

思い出アルバム用の写真と一緒に色々と整理していると、2006年に作成された
‘「おかえりなさい」プロジェクト事務局’作成の
『あなたの家にかえろう』改訂版の冊子(28ページ)が見つかりました。
‘あなたもわたしも仕事が終われば家へ帰る。
それと同じように人生という仕事が終わる時は家へ帰ろう’、と表紙に書いてあります。
もう15年余前の冊子が新鮮に見えました。
実際に体験したことで内容がしっくり入ってきます。

「自分で自分らしく死ねる。そういう世の中をつくる」
を理念に2013年に開業した‘やまと診療所’は現在1200名以上の方々の、
ご自宅での生活に関わりながら、自問自答されています。
入院の目的が「病気の治療」に偏りすぎていないだろうか。
「自宅での生活を続ける」ための入院の形はないだろうか。・・・

「人生の最終段階における医療・ケアの決定的プロセスに関するガイドライン」を
厚生労働省が2018年3月に作成しました。
それまで使用していた「終末期医療」という言葉を
「人生の最終段階における医療」という表現に改めました。
そのガイドラインの内容は、
・本人にとって何が最善なのかを話し合うこと。
・適切な情報の提供と説明がなされること。
・医療・ケア行為の開始・不開始、医療・ケア内容の変更、医療・ケア行為の中止等は
 医療・ケアチームによって、医学的妥当性と適切性を基に慎重に判断すべきであること。

どんなケアも治療も丁寧に繰り返し話し合うことで家族内の理解が共有され、
不安が解消されることに繋がり、精神的な健康が保たれます。
一人の「人生」を見送る時に家族の心に寄り添う医療とケアの重要性を感じました。
それは‘人間同士としての関わり合い’が基礎になるのではと思っています。
一時は看取ってもらえる医者に会えないのではと思ってしまうほど山あり谷ありでしたが、
最期の看取り時に優しくも心強く家族を支えていただいた
チームの皆様には感謝の気持ちでいっぱいです。

そして最期の看取りまでの間、兄が脳梗塞で入院している間、お義姉さんと二人で
スクラムを組んで乗り切れたことは喜ばしく、誇りに思っています。
いつも話し合いながら、理解しあいながら支え合ってきました。
お互いに感謝し合う言葉の繰り返しが未だに続いています。




想像以上・・‘感謝の思い出アルバム’作り

2022-02-09 07:44:56 | ひとりごと
1月30日と2月1日にも掲載しましたが、あらためて・・
グリーフとは死別などによる深い悲しみや悲痛を意味する言葉(グリーフgrief)です。
その悲しみに寄り添うケアとしてグリーフケアがあります。
遺族の複雑で深刻な心の状態を理解して寄り添うことで回復のサポートをする取り組みです。
喪中とは近親者が亡くなったご遺族が故人の冥福を祈り、喪に服す期間のことになり、
故人の死を偲ぶために設けられる期間とされています。

母を偲ぶ想いを込めて、感謝の思い出アルバムを作っていると穏やかな気持ちになります。
ただ、96年間の長い人生をまとめるのは簡単ではなく、
四十九日法要には間に合わないかもしれません・・。
想像以上に多くの写真があり、母の若いころの白黒写真や私の記憶が無い写真などから
順に整理を始めました。7年前には父の思い出アルバムを作ったことを思い出しながら・・。
96才の回想用年表を見ながら、母が過ごしてきた日本の歴史との関わりも分かってきます。

一年余り前、父の七回忌に25人の身内が集った時には、95才近くになっていても
元気でしっかりしていた母がお土産や料理などの全般を仕切っていました。
「一人っ子の私だったのに、こんなに多くの身内が集まってもらえて幸せだこと」。
その後、全員の集合写真を母へ送った時には本当に嬉しそうでした。

白黒の写真はかなり小さいサイズが多く、コピー機で拡大しないと分からない程です。
実家の家の移り変わりも楽しめました。
飼っていた犬の種類や父が乗っていた愛車なども同様です。
既に記憶が薄くなっていた時期にも様々な想いが甦ります。

中には幼い頃から一軒空けたお隣りさんとして今でもお付き合いのある
美容師だった同級生との写真があります。
仲良く子供会で一緒に撮った写真、母の行きつけの美容院だったこともあり
私の着付けもしてもらうなど、懐かしい写真ばかりです。
そんな幼友達は母が入院した時に心配して涙を流しながら、「もう会えないの?・・」と。
在宅で看取ることを決めて自宅へ帰った時には、母の顔を見ながら大きな声で
「おばちゃん、帰ってこれて良かったね。また会えて嬉しいよ。」と。
私が遠くに住んでいるので、高齢な父母だけの生活の時にはいつも気にかけてもらって
本当に感謝しかありません。

感謝のアルバムを作っていると、自分自身の生前整理にも繋がっていることに気付きます。
断捨離とまではいかないですが、気持ちがすっきりしていくことを感じながら、
母への感謝のアルバム作りを、好きなBGMをかけながら楽しみたいと思っています

家族への‘心のケア’に感謝

2022-02-01 07:47:17 | ひとりごと
グリーフケアとは悲しみの中にある人をサポートすることです。
死別などによる深い悲しみgrief(グリーフ)をケアcare(世話)することと言われています。
葬儀やお別れ会などはグリーフケアの一つになります。
大切な人を亡くした悲しみから立ち直る鍵は、グリーフワークにありますが、
私自身は気持ちを整理しながらのアルバム作りがその時間になっていると思います。

悲しみ、絶望感、不安、自責の念、などのいわゆる‘心の症状’は別れる前の
この半年間に多くを体験し過ぎて、看取り後はある意味安堵感があり、心穏やかに
写真の整理をして感謝のアルバム作りが出来ています。
睡眠障害、動悸、疲労感、などの‘身体症状’なども同様です。
山あり谷ありのこの半年間に身体症状も出てきましたが、
自宅の看取りまでの経過の山場では、胸全体にガラスの破片が突き刺さるような
痛みを長く感じるようになり、いわゆる肋間神経痛を患っていました。

そんな中でしたが、家族に寄り添って暖かい言葉かけをしていただいたことに
どれほど心が軽くなったのかを思い返しています。
初めて母の部屋へ来られた訪問看護師さんは、「明るく暖かい部屋で、
音楽も聞こえ、お花も写真も飾ってあってお母様はお幸せですね。」と
看取りをされた医師は母の状態を看ながら、「痰も褥瘡も気になってくると思いますが、
程ほどに付き合っていきましょう」と、少し神経質になっている家族に対してゆったりと
優しい声かけをされました。家族は緊張していた肩の力を抜くことが出来ました。

一番多くの関わりを持っていただいた介護福祉士さんやヘルパーさんは
いつも母への挨拶の声かけから始まり、体温、皮膚の具合、尿の量、などを母に
伝えてくださいました。対象者は‘母である’ことをいつも心がけておられる姿に
家族と同じ気持ちを共有していただいている想いでした。
母だけではなく、家族への心のサポートが大切なことを実感しました。

「本当にご自宅へ帰られて良かったですね」
「お母様の表情が穏やかにみえます」
「何かあればご遠慮なくいつでもご連絡くださいね」

曜日も時間を問わず、何かある度に何度も駆けつけて下さったケアマネージャーさんには
頭が下がりました。「私の仕事ですから・・」と言われましたが、私が素直に心のままに
涙することを可能にしてくださった人でした。感謝の気持ちでいっぱいです。

母への看取りに際し、家族の気持ちは共有されており、それだけでも心強かったことは
言うまでもありませんが、関わっていただいた多くの人からの声かけの内容も
家族ですぐに共有していました。いわゆる‘報連相’の日々でした。
一人で関わらなかったことは心の負担が少なく、家族でその都度話し合うことで
多くの判断をそれぞれ微調整できたことは本当に良かったと思っています。

色々と整理をしていると、この8年半の間に92才から100才までの老親4人を
見送ってきたことに気付きました。思い出はいっぱいです・・・

母へ・・感謝のアルバム作り

2022-01-30 06:29:08 | ひとりごと
父が亡くなってから感謝を込めて思い出アルバム作りをしました。
七回忌を一年余前にした時に、母から「このアルバムはよく見せて貰ってるよ。有難うね」
と言われ、母の時も作るからと冗談交じりで笑って応えたのを覚えています。

母のお通夜から葬儀の時もお仏壇近くにある父のアルバムを見ている家族の姿がありました。
見る人が父との関係性だけではなく、92年間の歴史を感じて下さっていると思います。
母は満96才の誕生日を家族と一緒に迎えた翌日に亡くなりました。
96年間の回想年表を作成し、私のアルバムの中から母との思い出の写真を集めています。
*音楽回想年表に関しては2021.3.2.の投稿記事をご参照ください。

始まりはやはり私が赤ちゃんの頃の写真です。勿論、白黒になります。
記憶にはありませんが、兄たちとの写真もあります。
家の姿の変遷もあり、懐かしく思い出します。
本当に日本の歴史を見ているようです。

5年前に二人で長島温泉旅行をして、宿泊した翌日に隣りの大きな観覧車に乗りました。
母から「木曽川と長良川の下流が見えて気持ちが良い景色だから、もう一度見たい」
と希望があって実現した旅行でした。
なばなの里の夜景を見ていると初老夫婦から声をかけられました。
母の年齢を尋ねて、「凄いですね、私も元気でいたいと思いました。頑張ります」と。

4年前と3年前は奈良へゆっくり泊まりに来て、孫夫婦と曾孫にも会えました。
4年前は京都まで送り、その後は一人で帰るからと言い、着いた電話を貰いました。
流石に3年前は一緒に帰りましたが、昨年の1月まで一人で
近くのかかりつけ医へ行くことが出来ていました。
自分で出来ることはしたい、という自立の意思が強くありました。

母との思い出アルバムを作っていると、余りにも多くの写真があり選択に迷います。
母が関わってきた家族、親戚、友人、近隣の人などの写真から
歩んできた歴史と共に、母の多くの想いが伝わってきます。

感謝を込めて、四十九日法要に間に合うように作りたいと思っています。

大寒に・・母を想う

2022-01-20 11:35:16 | ひとりごと
大寒の早朝に散歩をしました。
昨年までは母に会えない辛い思いを空気や景色に包んでもらいました。
母なのに、コロナ禍とはいえ傍にいられないことに何度涙したことでしょう・・・。

家族で話し合いを続け、昨年末から母を住み慣れた自宅で看取る準備をしました。
お正月気分は無く、実家へ帰る準備をしていると、朝早くお義姉さんから電話が入りました。
「お父さん(私の兄)が朝から右足が重いって言うの・・・」
直ぐに病院へ行くことを薦め、お義姉さんは救急車を呼び兄は緊急入院しました。
左脳梗塞でひと月程の入院予定です。

姪からスマホに緊急入院の知らせと診断書の写メが届きましたので、
直ぐに実家へ向かいました。
新幹線からの景色は途中から雪景色で、深々とした中で凛とした気持ちになりました。

実家へ着くと直ぐにお義姉さんと相談しました。
明後日、実家に母が帰る日でしたので、二人で頑張ってみよう、と。
近くには心安くしている姪も二人いて心強く思えました。
母を実家で迎えるにあたって、仏間の座敷部屋にベッドを置く準備、ケアマネさんと
今後の打ち合わせなどをしました。

無事に母を迎えられ、やっと傍にいられる幸せを嚙み締めました。
温かいガーゼで顔を拭いてあげられる、ヘルパーさんと一緒にお世話をさせてもらえる、
何より夜に横で一緒に寝られることの幸せを感じました。
お義姉さんは「お義母さんの表情が全然違うね。穏やかで優しい顔になってるわ」と。

9日は母の96歳の誕生日でした。
母が大好きだけどずっと会えなかった孫と曾孫が奈良から駆け付けました。
私が初めて買ってもらった古いピアノと孫のバイオリン演奏で♪ハッピーバースデーを
近くの孫と曾孫もかけつけて、お義姉さんも一緒に歌ってお祝いしました。

その日は看護師さんから「今日は血圧も脈も酸素濃度も心音も良いですよ」と
言われており、珍しく目をずっと開けてくれていて、皆が交代で声かけをしていました。
賑やかな一日が終わって、お義姉さんと二人で喜びを噛み締めました。
やはり自宅だからこそ出来たお誕生日会のお祝いでした。

その夜は静かに更けていき、深夜2時頃に少し痰がらみの声がしただけで朝まで寝ました。
朝6時頃に目覚めて、お布団の中から母の横顔を見ても変わりは無いように見えました。
まだ寝てる‥と思っていました。
少し経って、そろそろ温かいガーゼで顔でも拭こうかと起きてみると
いつもと違う雰囲気を感じました。声をかけながらそっと額に手を当てると冷たいのです。

直ぐにお義姉さんを呼んで、医師と看護師に連絡を取りました。
こんなに静かに息を引き取るものなのかと思いました。
医師は死亡診断書に「老衰」と書かれました。
昨日、お誕生会を賑やかにやって体調も良かったという話をすると
「皆さんに会えて安心して逝かれたんですね」と。

たった5日間だけでしたが、私にとって幸せな毎日でした。
母が大好きだった音楽をかけたり、昔の懐かしい話をしたり、身体を触ったり、
ピアノを弾いたり、リンや木魚を鳴らしたり、写真や動画を見てもらったり・・・
母には感謝の気持ちでいっぱいです。


















音楽に包まれて♬

2021-12-31 22:38:45 | ひとりごと
BGMの音楽を聞きながら大晦日に色々な片づけをしています
物の片づけをしながら、実は心を整えているように思えています。

以前、このブログで施設にいる母に中々会えなくて辛い気持ちを書きましたが、
明日からの1月に入るとすぐに自宅へ帰ることになりました。在宅介護の看取りです。
介護度はⅤで大変重いのですが、終末期の看取りも含めて自宅でゆっくりと
寄り添えることに感謝したいと思っています

やっと、傍にいて大好きな音楽を聞きながら、色々な思い出話や感謝を伝えられます。
初めて買ってもらった古いピアノは今でも実家にあり、母に聴いてもらえます。
スマホがあるので、動画電話で孫や曾孫の声も聞くことができます。
ワクチン接種をしても、感染者数が随分減っても、月に2回しか会えないのは余りにも辛かったです。

そんな時に音楽に癒され、背中を押してもらい、何とか1年が過ぎようとしています。
今夜もラジコのタイムフリーを利用して、村上RADIOを聞いています。

ラジコのタイムフリー聴取機能は、過去1週間以内に放送された番組を聴くことができ、
12月26日(日曜日)の夜8時頃までのラジオ番組は明日元旦の夜まで期限があります。
最近、Spotifyの音楽を聞く機会が増えてきましたが、ラジオやYouTubeも気軽に使えるツールです。

「コロナ禍で自分自身にとって、音楽の大切さが身に沁みました」と
音楽家が話されていました。
音楽家だけではなく、その時ならではの自分の気分に寄り添ってくれる音楽に
多くの人が助けられているように感じています。
音楽が自分の心を包んでくれているようで落ち着きます。

先日は久し振りに弦楽四重奏の生演奏を聴いてきました。
やはり、ライブ演奏は魅力がいっぱいでワクワクします。
小さなレストランでしたが、弦の音色がシャワーの様に全身に降り注いできました。
幸せなひと時でした。

来年こそ、穏やかな時が少しでも多くありますようにと願わずにはいられません。
自分の居場所に、好きな音楽を友として加えてください。
心が包まれるように、落ち着きます。
どうぞ、良い年をお迎えくださいませ