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今日は満月

2010-08-25 20:00:00 | 日記
今日は満月ですね。



ところで今日も暑い1日だった。

今日、訪問したお客様のオフィスは文京区本郷だったので、
お茶の水駅からてくてく歩いてむかった。
順天堂大学の脇道は人通りが少なく、並木道なので比較的
歩きやすい。
それでも交差点で信号待ちをしていると、ジリジリと日差しが
照りこみ、汗が噴き出してくる。

「はやく信号かわれ、エイ!」

と試しに念力を送ってみたが、全然効かない(当たり前だ!)。
応接室に通してもらうと、

「間もなく参りますので」

ととても気さくな女性が部屋に冷房を入れてくれ、麦茶を出してくれた。

ありがたい! さっそく飲みたかったのだが、担当者の方が
まだ入室されていないので、がまんした。

(ああー、うまそー、早く飲みてー、頼む早く参ってくれ!)

ようやく担当者の方が来れれて、名刺交換して座るか座らないか
のところで、話を切り出す。
早く麦茶を飲みたいばっかりに、息せき切って話してしまった。
(バレたかも…)

でも麦茶はちょーうまかった!!

その後、いろいろ話が盛り上がってしまったが、それでも
丁寧に挨拶をして、外に出た。
そしたら、冷房とのギャップからか、暑さが倍増した気がした。

「湿気が多いので、熔けきれない鉄の残骸だ。この俺は!」

独り言をつぶやきながら、次のお客さんへアポイントをとる。

「近くまできたので…。」

内心「忙しいからまた今度にしてください」、という言葉を期待していたのだが、

「ああ、いいですよ。」というご返事。

ままよ、と電車に乗り込、2件目の客先へ移動。

そこは、ラボを兼ねているオフィスなのでまるで冷蔵庫のよう。
汗が引くなんてレベルじゃなく、凍ってしまいそうだ。

帰りの電車はすごく空いていて、座ることができたのを幸いと
ばかり、ぐたっとなって眠ってしまった。

気がつくと大船。
あやうく、寝過ごしてしまうところだった。

あまりの疲れに動く気力がない。こういう時はオフィスに
誰かがいてくれるとやる気も出るのだが、と思うがなかなかそうもいかない。
猫だけが、わらわらと寄ってくる。

こういう汗で体がベタベタのところに猫にまとわりつかれると
全身が猫の毛だらけになり、暑いのにくしゃみ連発である。

まあ、自分で選んだ道だ、ひとつ猫のために明日もかんばるとするか!



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ニコちゃん

2010-08-24 17:30:47 | 日記
最近、抜け毛が多い。
とはいっても私のことではなく、家の猫のことである。

毎日夕方になると、ごはんをねだりにあまえてくる。
納品が佳境に入っている時間帯でもあり、無視して作業を続行する。
パソコンの上に乗っかったりするので、わざわざどかして
ひたすら納品に没頭をしている。

そうしているうちに、自分の周りじゅうに毛が舞っている。
それでも、くしゃみを連発しながら仕事に没入している自分は本当に
えらいと思う(笑)。

よる寝ていても、夜中に猫が動き回ったりすると毛がまうので、
運悪く鼻に入れば、くしゃみの連発、器官にはいれば咳を連発することになる。

まあ、もう少しの辛抱だ。

世の中には猫が苦手な人もいるわけで、好きか嫌いかで「嫌い」といっている
人はともかく、アレルギーが出てしまう人もいる。
そういう人が猫を飼うと、とんでもないことになるのは、私のような鈍感な
人間でも容易に想像がつく。

ところで最近、我が家に新しい訪問者がくるようになった。



多分雌だと思う。毛並みと顔つきが雌っぽいもんね。
年はまだ1才くらいじゃないかな…。



写真の顔はこわいけど、とても品のある猫だ。
涼しいところを探しては、家と向かいの家の車の下を往復しながら、
じっとたたずんでいる。

水も飲むし、ごはんも食べる。
結構、なつっこい気がするので近寄ると逃げて行ってしまう。
写真をよく見ると、耳になんか付いてるね。
調べてあげようと思うのだが、近づけない。

名前をつけてあげなきゃな。

三毛じゃなく、二毛だから、「ニコちゃん」というのはどうだろう…。

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『告白』を読んで

2010-08-23 22:18:31 | 日記
今日、久しぶりに小説を読んだ。

『告白』(湊かなえ)である。

映画は見ていないけど、映画のコマーシャルが印象的だったので
寝る間を惜しんで(今日は睡眠不足だよ~ーん)一気に読んだ。

第一章「聖職者」と第二章「殉教者」にはグイグイと引きこまれたが、
その後の章に関しては、う~ん、いまいちかな…。

第三章の「慈愛者」は少年B=直樹の姉が、彼の母親の日記を読む
という設定なのだが、その母親のモノローグがあまりにも、みえみえの
ひとりよがりに思えたその途端、この小説の展開が見えてしまったので
正直、それ以降の章は惰性で読んだ。

ただしこれは作者の意図だと思うし、読者がある種の違和感をもって
読むことすら湊かなえ氏にとっては想定内のことなのかも知れない。

私の感じた違和感を自分なりに考えてみるとそれはおそらく
『冷血』(トルーマン・カポーティ)との比較によるものだと思う。
資料が手元にないし、なにしろ20年前に読んだ代物なのでよく覚えていないが、
殺人を犯した二人の人物への取材を記録したもので、一人ひとり(二人だけだけど)
の考え方、生き方に対するカポーティの心理的描写はまさに完璧で、しかもクールで、
それぞれに納得、あるいは同情できる余地があると思ったのをよく覚えている。

どういったらいいか、『告白』には大切なものが欠落している気がするのだ。
動機やキャラクター設定のあまさ、アンフェアなところ、
つきつめていうならそれは「愛情の欠落」だと思う。
世界に対して心が閉ざされているとでもいうべきか…。

少年A=渡辺修哉は頭のいい子だとは思うが、これもひとりよがりで最後までわか
らずじまいだった。もっともらしくいろいろ言っているが、因果関係が希薄である。

まるで、弱い奴ばかりを相手にして、そいつらをねじ伏せておきながら、

「ああ、人間とはこうもか弱いものなのか」

と叫んでいるような、くだらない演劇のセリフみたいなシーンが多い。

最後の章では再び森口悠子が電話で話している(にしてはしゃべりすぎでしょ!)
という設定のモノローグはどんなに渡辺がひとりよがりで、子供じみた考えを
しているかということを暴いてゆくという一種の謎解きなのだが、作者が最後に
「つじつま合わせ」をしているように思えてしまい、正直白けてしまった。

特に最後のオチは本当に必要だったのだろうか? これはただの「復讐劇」だったのか?
正直、安っぽい少女漫画みたいだと思った(すいません、すばらしい漫画家が沢山いる
ことは承知の上での発言です)。
心理描写においても、ストーリー・テリングとしても「三流」といわざるを得ない。

とまあ、偉そうなことを書いてみたが、それでも自分自身一気に読んだということは
この小説がおもしろいと思ったからだろうか。
いずれにしても、ここまで読者を「読ませる気」にさせるのは魅力があるということなのだろう。

私が感じる違和感こそが、作者の意図するところでもあると思いたい。
そして、こういうものに違和感を感じることなく、若い人たちは読めるんだろうな、とも思う。

「神戸連続児童殺傷事件」における酒鬼薔薇聖斗の文章の中にあった、
「透明な自分」という言葉の感覚を私にはいまだに理解できないでいる。
当初あの手紙が警察に送り付けられてきた時、「30才ぐらいの青年が書いた
しっかりした文章だ」とコメントしていた評論家もいたし、
私の友人でも「彼の気持ちがなんとなくわかる」といっていた人もいる。
そういう人たちに対して心の中では「なんという無責任なことを…」と思った。
私からいわせれば、あんなもの120%以上子供の稚拙な文章でしかあり得なかったからだ。
「わかる」などという言葉を軽はずみに使うものではない。

結局、自分は、あのバーチャルな感覚を未だに理解できていない。
ある意味において、これは新しい世代の小説なのかも知れない。

いずれにしてもバーチャル・リアリティ全盛の現代における
「自分なりの回答」を自分はまだ見いだせていない、というのが私の悲しい現実だ。

新しい世代とのギャップは広がるばかりだ。
そしていつの時代でも、大人は若い世代を理解しようとするが、
若い世代の連中は、そういうのを「うざい」としか思っていない。
そこらにころがっている「現実」を「真実」とおきちがえているのだ。

「だから何なんだ!」とはこっちのセリフである。

(今回は小説に関しては全く素人の自分が随分と無知で失礼なことを書いていると思います。
それでもあえて自分が感じていることを正直に書きたいと思いました。どうかお許しください。)



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嵐は去った

2010-08-19 11:45:49 | 日記
昨日は猛暑の中、大変あわただしい一日だったが、
今日は一転して、ちょっと暇。
本当はやることも山積しているのだけど、ちょっと
意識的に(自分に言い訳をして)休もうかな。

ところで、最近ようやく、ポピーの発情も終わった。
1週間の長い戦いだった。

ポピー体が弱くて避妊手術ができないのだが、
かれこれ4年間くらい観察していると、季節ごとに発情していることがわかった。
1年で計4回くらいとして、そのうちの2回(冬と夏)くらいはそれこそ
「怒涛」のような大波が襲ってくる。今回がまさにそれだった。

半端でない大声で、断続的に夜通し鳴き続ける。
しかもそれが15分くらいの間隔で起こる。

始まってしまうともうなすすべがなく、胸を切り裂かれるような
切ない声をただやり過ごすしかない。
仕事部屋にはなるべく入れないようにしているが、
それでも扉の向こうから必死に鳴きさけぶ声が聞えてくる。
ちょうどお盆休みでお客さんと電話で話をすることはあまりなかったのは
幸運だった。
それでも机に向かって、頭をひねっている最中に突然鳴かれると
アイデアもなにもかもがいっぺんに吹き飛んでしまう。

時折、カーッとすることもあったけど、それでも最近は少し慣れた。
深呼吸すれば、大体、気持ちを落ち着けることができるようになった。
それに人間のアイデアなどは所詮は断続的なものだし、猫の鳴き声ごとき
で吹っ飛ぶようなアイデアは、結局その程度のものだ。だから固執しない。

こうしてブログを書きながら、あるいは翻訳をしながら、ああでもないこうでもない
と考えていても本当に集中していることはごく稀だし、案外翻訳をしながら
「今日の晩御飯は何にしよう」と考えていることはざらなわけで、
(私の友人のミュージシャン(ドラム)は、ドラムをたたきながら、
今天井が落ちてきたらどうしようとか考えている、とアホなことを言っていた(笑))

ひどい時は、「あの野郎、ぶっ殺してやる。」と怒ってみたり、
「明日はどうやって食べていこう?」と不安にさいなまれたりと
まったくろくでもない雑念が湧いてくるわけだが、ものは考えようで、
そういうネガティブな雑念もひっくるめて吹っ飛ばしてくれる
と思えば悪いことばかりでもないと思える。

発情している雌猫はちゃんとしたもので、オスあるいは男(つまり私)に
ばっかり寄り添ってくる。普段、妻にべったりなポピーも、この時ばかりは
私の後を追っかけてきて、やたらスリスリしてくる。
お風呂にまでついてくるし、湯船につかっている私のあそこをジーッと見ている。

そんなことあるわけがない!

と思われるかも知れないが、本当のことである。

自分は猫にとって、そんなにセクシーなのかなー? 
とまんざらでもない自分が本当に悲しい(笑)。

こういう時の対策としては、腰のあたりを軽くタップしてやると落ち着くようだ。
それでもおさまらないときは、綿棒をつかってあそこをツンツン刺激してやる。
ただし、20分とかずっとやってやらないと満足しないし、逆にそれが
ポピーの発情をエスカレートさせてしまうことにもなりかねない。
まるでギャンブルのようだ。

ココ(オス)は去勢しているのだけど、そういう時は加勢してくれる。
ポピーの上に乗っかって、うんしょこうんしょこ頑張っている。

ココ、がんばれ! もっとがんばれ!



嵐が去り、こともなげなポピー



嵐が去り、なぜかカゴの中にたたずむココ


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夢は終わった

2010-08-16 18:05:22 | 日記
昨日、今日の暑さは異常だと思うのだが、自分だけなのかな…。
最近、冷房を設置したものだから暑さに対する免疫が落ちてきているの
かも知れない。

なにしろ、8月3日までは冷房が壊れていたため、猛暑の中、
頭にアイスノンをまいて、扇風機で風でとんでいきそうになる原稿を
片手で押えながら仕事をし、

「これで十分!」

と随分とたくましいことをいっていた自分はどこへやら…。

以前勤めていた会社では営業だったので夏であろうと、冬であろうと
外を出歩いていた。都会の夏は異常だ。特に港区のあたりは
朝であろうと夜であろうと、まして昼などはサウナに入っているようだ。
そういう時に営業からオフィスに帰ると、急に冷気にあたるせいか、
体がおかしくなってしまうのだ。営業は大変だ、中で仕事をしている人が
うらやましいな、などと思っていた。

今は家(オフィス)に帰っても、猫が留守番しているだけで、
当然、冷房は切って出かけるわけで、猫たちをうらやましいとはまったく
思わないし、猫も「冷房を入れてくれ」とは絶対にいわない。
だいたい、うちの猫は冷房という不自然な冷気を嫌う。だから冷房が
壊れていたころは、あれほどまとわりついてきていたのに、新しい冷房を
設置した途端、仕事部屋には寄り付かなくなってしまった。

冷房(冷房の室外機)がさらなる暑さを生み、それから
逃れるために、冷房の温度を下げて、室外機をフル回転させる。

冷房にあたっている人は発汗機能が弱まり、体温を調整できなくなり
冷房から逃れられなくなる。

仕事でイライラし、集中力がきれ、ヘマをやり、さらにイライラする。

要するに、悪夢のような「負のスパイラル」に陥っているわけだ。


悪夢ってば、昨日、すごい悪夢を見た。
そしてうなされながら、心の中で(もしかしたら寝言で)大声で叫んだ。

「これは夢なんだ!」

実は我ながらこの発言には驚いた。
夢をみているということは100%の臨場感に包まれているものと信じていたのだが、
心のどこかで知っているのね。「自分が夢を見ているということ」を。

人生は夢のようなものだという。

つらい夢なら早く終わってほしいし、楽しい夢なら永遠にその中にいたい。
でも、夢は夢、いつかは終わる。




鎌倉の夏も暑い。ただ、朝は比較的さわやかだ。
だから朝起きると、真っ先に部屋の窓を開け放つ。

朝のきれいな空気が静かに入り込んでくる。
ダイヤモンドのような光の粒がそこここに反射している。
鳥のさえずりもきこえてくる。
気の早いセミはもう鳴きはじめる。

自然のとてつもなく大きな空間、時間の流れが圧倒的な存在として目の前に在る。
ずっと以前から、そしてこれからもずっと。



世界はあいもかわらず、不況、政治不安、戦争、貧困、飢餓、環境破壊…、
負のスパイラルの渦の中でもがき苦しんでいる。

もう終わりにしないか、夢は終わったのだから…。


ああ、イライラしてきた。
このスパイラルから逃れるために、猫でも撫でとくか!


ココちゃん、この喜びもいつかは終わるのだよ(笑)。


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