奥 山 豊 和 (おくやま とよかず)公式ブログ

培った経験と人脈を活かし、生まれ育った故郷を元気に。
対話重視、市民が主役の市政運営を取り戻します。

原点~陸上競技との出会い~ Part4

2013-08-31 23:59:31 | 日記

陸上競技に対する想いをこれまで述べてきましたが、ついつい熱くなってしまい今日が4回目。いい加減そろそろ終わりにしないといけませんね(汗)


さて、舞台は1996年12月の札幌。北海道東北地区の選抜強化合宿である。
世間はクリスマスムード一色の中、自分はむさ苦しい?ハンマー投げの選手2人とともに、朝から晩まで陸上漬けで、冬の札幌を満喫していた(笑)

一人は、北海道別海町の選手。北方領土を沖に望む酪農と漁業の町だ。
極寒の北海道を、早朝にジャージ1枚スニーカーで、凍った路面の上を普通にジョギングしている姿には驚いた。

もう一人は、宮城県名取市の選手。
東日本大震災では、津波の被害が甚大だった地域だ。
今も元気で暮らしているのだろうか?

宿舎で3人で、『バカ殿様』を見て大笑いしていたのを覚えている(笑) いや、ドリフだったか?


冬期間、一面雪に覆われたグランドの中、雪を払って投げ続けた。

雪というハンディキャップを乗り越えなければ全国では戦えない・・・
技術や記録うんぬんではなく、ひたすら自分との戦いであった。

語弊があるかもしれないが、中学や高校スポーツは技術よりも気持ちだと今でも信じている。

素晴らしい練習環境や技術指導・・・。大人の手によってそんなものがいくら用意されようとも、実践するのは10代の子どもだ。

まずはその競技を好きになる事。仲間を思いやる事。感謝の気持ち。
そして、平常心で試合に臨むこと。練習通りに、やってきたことを試合で発揮すること。

どうやったら普段の自分の力を試合で出すことができるのか?

それは、日々積み重ねてきた練習。そこにたどり着くまでに積み重ねてきた自分自身の努力しかない。

「一瞬たりとも油断しない。気を抜いたら負けてしまう」

夢を掴むために、そう自分に言い聞かせて練習に取り組んできた。
多少体が痛くても我慢した。練習を休むことが怖かった。

ごまかしごまかしでやってきたツケがついに・・・
春休み、能代での合宿中、悲鳴を上げていた左足首がついにパンクした。

歩くこともままならない状態だった。疲労骨折だった。

春の県南総体(十文字陸上競技場)まであと1か月ちょっと。練習後に整骨院での電気治療を続けた。
完全に回復するはずもなく、試合には左足首をテーピングで固定しての出場。
軸足がうまく動かない。下半身の踏ん張りがきかない。練習不足・・・
まともに投げるのは到底無理だった。

45メートル台の記録で2位。1位のライバルは堂々の50メートルオーバー。
惨敗だった。

彼も人一倍やってきたんだな・・・自分だけが頑張ってきたのではない・・・
そう思い知らされた。

「大曲の奥山は完全に終わった」と誰しもが思っただろう3週間後の全県総体。
左足の痛みは大分回復していた。
それでも、4投目までは4位に甘んじていた。
東北大会出場権の6位以内を確保できればいいと、半ばあきらめかけていた5投目、気持ちがふっきれて出場中唯一の50メートル台を記録し逆転優勝。
紙一重の勝利だった。

一年下に有望な後輩がたくさん入部してきた自分たちの代。
全県総合優勝を目指してやってきた。
短距離陣、後輩たちの圧倒的な活躍。
それを支える3年生。
投てき種目の充実。部のお荷物だった俺たち素人3人衆は、いずれも東北大会の切符を掴み取り、チームのために大きな貢献をした。

部員全員がそれぞれ与えられた立場で精一杯やれることをやった。
それをまとめるキャプテンがいた。皆を導くキャプテンがいた。
心が一つになった。

苦しい時、孤独な時、仲間に助けられた。

陸上競技は個人種目ではない。皆で支えあわなければならないということを教えられた。

最終種目の1600メートルリレーを制し、奇跡の逆転総合優勝。
伝統ある大曲高校の歴史に、我が陸上競技部が栄光の軌跡を記した瞬間であった。

その後、東北大会では51メートル台まで自己記録を伸ばし優勝。
悲願であった東北2冠を成し遂げることができた。
秋田県勢が1位から4位までを独占。ともに切磋琢磨してきた仲間たちと全国に行けることが、何よりも嬉しかった。

1997年夏、京都。
夢にまで見た全国の舞台では平凡な記録に終わり、予選通過~ベスト8という大きな目標には遠く及ばずに私の夏は終わった。
秋の国体の出場権も逃してしまい、インターハイ前に記録した52メートル16という県南高校記録(当時)をさらに伸ばすことができないままに、自分の高校陸上は幕を閉じたのである。

今思えば、自分の全てを賭けて臨んだ夏の京都で完全に燃え尽きてしまっていたのだろう。後悔はしていない。

素人が誘われるままに入部した、名門大曲高校陸上競技部。

追いつけ追い越せで次第に陸上競技にのめり込み、具体的な目標が出来た。

「全国で戦いたい」

夢をかなえるために努力した。体が壊れるまで努力した。一番になるために一番の練習をしようと頑張った。
それでも全国では及ばなかった。

「上には上がいる」

謙虚さを忘れずに努力し続けなければいけないという大切なことを、陸上競技は自分に教えてくれた。


秘書として東京で働いていたときも同じように感じた。

田舎で通用していたことも、東京では通用しない。

永田町では政治家志望の若い秘書に出会った。
20代30代の議員も全国には大勢いる。

17歳の夏。京都で掴めなかった夢を追い続けながら・・・

まずは、自分の足で地域を歩く。地域の声をしっかりと聞く。
まずは基礎。あせらず着実に。

それがやがて大きな花を咲かせることを信じてしっかりと歩んでいきたい。


原点~陸上競技との出会い~ Part3

2013-08-27 22:29:51 | 日記

お盆休みも終わり、横手市では9月定例議会が開会した。
五十嵐市長、市議会にとって任期中最後の議会である。

市町村合併から早8年。合併の特例措置は10年でひと区切りとなるため、次の任期は、まさに新しい横手市の方向性を決める大事な4年間である。

しっかりと総括をし、地域の諸課題についてはこれからも引き継いでいかなければならない。
それと同時に、世の中が大きく動き出していく中で、横手市がこれから進んでいく方向性やビジョンを、市民に対してしっかりと示すことが求められているのではないか。

若い世代の代弁者として、未来に、明日の横手市に責任を果たすべく、精一杯取り組んで参りたい。


さて、自分の人生を大きく動かした陸上競技との出会いについて、だいぶ長くなってしまっているが(汗) これから、いよいよ自分自身が大きく変わっていく局面を迎えるのである・・・


・・・1996年夏、山梨。

全国の高校生アスリート憧れの舞台であるインターハイ。
ハンマー投げの先輩が出場権を獲得されたことで、何とか顧問の先生方に頼み込んで自費で同行させて頂いた。自費といっても、移動は先生の車。宿泊場所は健康ランドの仮眠室。
とても過酷な遠征であった。

総合開会式の日、スタンドに入るゲートをくぐった瞬間のあの興奮は今でもはっきり憶えている。
押しつぶされそうな独特の重い空気。選手として来ている訳でもなく、これから試合をする訳でもないのに心臓がバクバクしてきた。体中がしびれ、鳥肌が立つような今まで経験したことのない感覚だった。

「これが、全国か。」

16歳の自分が初めて経験する世界だった。

自分があまりに小さい存在であることを痛感させられたと同時に、ここに辿り着くには果てしない道のりであるということを思い知らされた。

来年の夏、選手としてここに帰ってくるためには何をしなければいけないのか?

この舞台で戦うためには、これから何をしていかなければならないのか?

誘われるままに始めた陸上競技、ハンマー投げ人生の中で、初めて自分が目指す道が見えてきたような気がした。


3年生が引退した秋の新人戦。県南地区大会を迎えた。
会場は、十文字陸上競技場。

当時、自分より投げる選手は県内には一人もいなかった。

負けるなどとは微塵も思っていなかった。
勝って当然。完全に舐めていた。

結果は自己記録に5メートルも及ばずに2位。

「今から学校に帰って練習だ。」

先生が残した言葉は、たったそれだけだった。

何本投げただろうか?
くやしかった。

45メートルライン越えを連発した。優勝できる投てきだった。

自分は何をやっているのだろうか?

夏、山梨で経験させて頂いた初めての全国。
そこに辿り着くための道。

あの場所で勝負するためには、これから何をしなければいけないかということを思い知らされたではないか?

なのに、なぜ自分はつまづいているのだろうか?何を浮かれているのだろうか?

心を入れ替えた。

それまでは、与えられたメニューをこなずだけの練習だった。
自分で考えるようになった。
陸上以外のことは頭から消えた。
一度しかない高校生活を、自分のすべてを陸上に捧げよう。
心に誓った。

全県新人でリベンジを果たし優勝。そして東北新人では、自己記録に迫る47メートル台を記録しての優勝。
東北のディフェンディングチャンピオンとして、翌春のインターハイ予選に臨むことになったのである。

勝って当然、追われる立場の中で迎える冬季練習は、過酷を極めるものであった。

 

 次回に続く・・・


十文字陸上競技場

2013-08-18 23:58:40 | 日記

先日後輩と飲んだ時、

「16から18日まで県南新人ですよ」

と言われていたので、最終日の今日、やっと時間がとれたので足を運んでみた。

ていうか、県南新人て今の時期だっけ?

新人大会は、文字通り3年生が抜けて初めて新チームで挑む大会。
自分たちの頃は確か9月に入ってからだったはず。
年々秋の大会が過密になり、前倒しになってきているのだという。

それにしても、インターハイが終わってまだ2週間足らず。お盆休み返上で大変だな(汗)


正直、ここの競技場に良い思い出は無い。

ここで一度も勝ったことがないからだ。

詳しくは、昨日の続き「原点~陸上競技との出会い~Part3」で紹介することとして・・・

ここは、2007秋田わか杉国体のホッケー会場として整備され、観客席付全天候型の陸上競技場として見違えるように立派になっているが、それ以前は土のグラウンドだった。


学校の運動会じゃあるまいし、高校生の陸上競技の大会がなぜ土なのか?

県北・中央地区にはあって、なぜ県南だけ全天候型の競技場が無いのだろうか?

県南からも全国で活躍する選手を多数輩出してきたではないか?

立派な野球場はあちこちにあるのに、なぜまともな陸上競技場がないのだろうか?


子供心に、これも政治の影響か?などと、行政に対する不満を持っていたのを覚えている(笑)


それはさておき、
試合を見る目的以上に、何をしに行ったのかと言えば、

もう何年もご無沙汰している恩師の先生に、きちんと近況報告するためだ。

「お~久しぶりだな」とがっちり握手をし、テントの中に招かれた。
久しぶりに味わう体育会系の空気(笑) やはり先生方の前では背筋が伸びる。

中の雰囲気は当時のままで、緊張感が溢れていた。選手たちも皆礼儀正しかった。

さすが、先生の教え子たちだな・・・


そして、不甲斐ない試合をしたのだろうか?

「お前は、練習の1本目だけだったな・・・」

と、キツ~い一言を浴びている選手を横目に、
昔の自分の姿を思い出し、ついつい苦笑い。

  少年よ、君は期待されている。ここから這い上がれ。そして強くなるんだ。

と、心の中でつぶやいたのだった。


近いうちの再会を先生と約束して、午後一番の約束があったため足早に会場を後にした。


追伸・写真を撮ってくればよかった。残念。



原点~陸上競技との出会い~ Part2

2013-08-17 23:49:30 | 日記

昨夜は、同級生であり親友でもある大曲高校陸上部キャプテンの呼び掛けにより、卒業以来?の懐かしい仲間たちに再会することができた。

彼は、東京で超一流の一部上場企業で活躍している。
高校時代から文武両道で人望があり、彼の存在なくして自分自身、あれだけの成績を残すことはできなかっただろうし、大曲高校陸上競技部が全県総体ではじめての男子総合優勝を飾ることはなかっただろう。

自分が陸上に出会ったのは、まさに彼からの誘いであった。
同じ大雄中学校から3人。野球部出身で、陸上競技の種目もルールも全く知らないど素人3人組が、誘われるままに入ったのがきっかけであった。

当時の大曲高校陸上競技部は全県トップクラスで、全国レベルの主将をはじめ一人ひとりが高いレベルをめざし切磋琢磨している、まさに県内有数の強豪校であった。

同学年からも、やはり中学時代から有名だった選手が多数入部してきた。


なぜこんなところに素人の俺たちがいるのだろうか?

きっとまわりからも「なぜあいつらが?」と思われていたに違いない。

それほど、自分たち3人は浮いた存在だった。

そこで、とりあえず顧問の先生からの「野球部出身だから、投てき種目をやってみようか?」という勧めにより、自分は初めてハンマーというものを手にするのである。

ハンマー投げって、かなづちのでかいのを投げているのかと思っていたが、丸い鉄球に長いワイヤーと取っ手がついていて、自分の胸の高さまである、とても片手では持ち上げられないものだった。

今でこそ、ハンマー投げは室伏広治選手の活躍により知名度があるが、当時は正直言ってマイナーな競技であり、最も、グラウンドの中でむやみに振り回していたら危ないし、きちんとした練習環境、指導者がいなければなかなか手を出せない種目であっただろうと思う。

幸い大曲高校には練習する設備があり、全県トップレベルの先輩もいて、顧問の先生はやり投げ出身、投てき種目全般に精通されていた。

約6.3Kgのハンマー(ボーリング場でいう14と書いてある玉と同じ重さ)を初めて振り回したとき、翌日はこれまでの人生で経験したことのないような全身筋肉痛に襲われ、布団から起き上がれなかったことを記憶している(笑)


そんな、高い身体能力と技術が要求される最も難しいであろう種目になぜ挑もうとしたのか?

それは、ハンマー投げは砲丸投げと違い高校から正式種目となる競技であり、基本的に皆スタートラインは同じ。専門にしている選手も他に比べて少ない。

高校3年間という皆等しく与えられた時間の中で、頑張れば素人の自分にもチャンスがあるのではないか?

そんな動機から、高校生活をこの競技で頑張ってみようと決めたのである。


当然、素人がすぐに結果を出せるような甘い世界ではなかった。

当時の自分は体が大きい方ではなく、最初はハンマーに回されて自分が飛んでいく(笑) そんな感じで、まともに回転することも、まして前に投げることもままならない状況であった。
結局、1年生のシーズンでは、30メートルを超えるのがやっと。

先輩方から教えられた、「きちんと冬季練習を頑張れば、10メートル以上記録が伸びることだってある」という言葉を励みに、素人3人組で助け合って、何とか投げ出さずに厳しい冬季練習を乗り越えることができたのである。

元々空っぽだったせいか(笑)教えられた技術が身についていき、成長期の体も急激にたくましくなっていった。


そして2年の春、45メートル前後の投てきが出来るようになり、全県総体で6番、はじめて東北大会を経験することになる。

東北大会の会場は、今はプロ野球楽天の本拠地として立派に生まれ変わっているが、当時は宮城球場という非常に古くて小さい野球場の敷地内にあった、宮城野原陸上競技場。
2001新世紀みやぎ国体の主会場、サッカーの2002日韓ワールドカップ決勝トーナメント・日本対トルコ戦の会場となった宮城スタジアムが出来るまでは、そこが一番大きな陸上競技場であった。

秋田で6番。当然東北6県のランキングも下から数番目というレベル。来年に向けての経験が積めれば十分だという中で、なぜか自分は「あわよくば」という気持ちで、無謀にも全国に挑もうとしたのである。(6位以内がインターハイ出場権を獲得)

身の程も知らず、一人で舞い上がり、勝手に緊張して、何もやれずに、3本投げて予選敗退。

当然の結果だ。

もっと練習をしなければならない。


そこから、自分の陸上競技に対する考え方、取り組み方が急激に変わっていったのである。

 

 次回に続く・・・
 


原点~陸上競技との出会い~ Part1

2013-08-15 23:08:36 | 日記

昨日は、大曲高校陸上部投てきチームの後輩たちと久しぶりの再会。夜遅くまで、ついつい酒が進んだ。

みんな、いい意味で当時と何も変わっていなかったし、真面目にそれぞれの分野で一生懸命頑張っているようで嬉しかった。


「先輩!もうすぐ3人目が生まれます」

あの子が3児の母とは!・・・ふぅ(汗) 仕事しながら、たいしたもんだ。


家業を継ぎながら、中学校でコーチをやり、大会では審判も務めているという後輩。
陸上に対する情熱を失わずに頑張っていることが羨ましかった。
自分もせっかく地元にいるんだから、まずは陸協に入って何かお手伝いをしてみよう・・・


秋田市の病院で事務をしているという後輩。
医療現場が抱える生の声を聞けたことは大きかった。

「地方の医師不足」という大きな課題に対し、すぐに答えを出すことは難しい。
上が考えている以上に、現場は複雑だ。


東京でバリバリ働いている後輩。

「地元には何もない」と言う。

あてもないのに無理して田舎に帰ってくることはない。都会で働いて生計を立てているのであれば、それを変えてしまうこともない。

しかし、彼女にとって故郷が、「何もない田舎」ではなく、「都会では味わえない魅力を持ったかけがえのない場所」として感じてもらえるよう、東京から地方に帰って政治をやることを決断した一人として、故郷が第二第三の人生をスタートさせられる場所として、選択肢を与えられるような個性を磨く街づくりを進めていかなければいけないと強く感じた。


他にも、きつい練習や遠征の話。馬鹿やってた当時の懐かしい思い出。あの頃と変わらずみんなで話ができることはなんて素晴らしいんだろう。

それにしても・・・「先輩にマカロニサラダ食われました」って、よくそんなこと覚えているよな(笑)

大曲高校陸上競技部黄金時代を共に戦った仲間たちとの、15年以上経っても色あせることのない青春。

「これが俺の青春だ」

胸を張って言えるものに出会えたことは誇らしい。


明日は、親友である当時のキャプテンが、同じ陸上部の先輩後輩に声をかけてくれているようだ。どんな人に再開できるのか?今から楽しみだ。