今回は日野日出志「ホラー自選集」の第7話「蝶の家」と第8話「白い世界」です。
この2作は鏡に映したような対称性があります。主人公は「少年」と「少女」、随所に現れる「能面」と「天狗の面」、家にいない父親、家の外で男と逢っている母親、白骨となる結末などたくさんあります。
まず「蝶の家」から見ていきましょう。主人公の一男は優しい両親とともに暮らしていましたが、突然高熱に冒されて姿が醜くなり、知能も退行してしまいました。蝶を眺めたり幼虫の芋虫と遊んだりすることだけが楽しみでした。父親は船乗りで、家にいることは少なかったのですが、時々一男に海外の珍しい蝶の標本を買ってきていました。父親は一男の異変を母親の責任だと責め続けた結果、母親に表情が無くなり、態度も冷たくなっていました。ある日父親が帰って来たのですが……。
家にはなぜかたくさんの無表情な仮面が壁にかかっており、母親の冷たさの印象が倍増しています。心を閉ざした母親の象徴として全編にわたって仮面が頻出するのですが、母親の素顔はどうかというと、父親の不在時にどうやら外で男と逢っているようです。このように一男の家庭は悲惨な状況で、読んでいるこちらもいたたまれません。
そして再び原因不明の高熱が一男を襲います。
この布団のくるまり方が何となくつげ義春っぽくありますが、最後のコマがキング・クリムゾンのCDジャケットみたいで笑えます(悲惨なシーンなのに)。最初のコマの情報量の多さも印象的です。
この後、一男の身体を食い破って大量の芋虫が出てきます。その芋虫たちは寝ている母親も食い尽くし、蝶の大群となって飛んで行き、二人の白骨だけが残されて物語は終わります。
さて一方、「白い世界」では、雪深い山間に住む少女ユキが主人公です。ユキはお婆さんと二人暮らしで、父親は蒸発してしまっています。母親は普段は街にて水商売をして稼いでおり、たまに家に帰ってきます。母親がたまたま何日か家にいると、街から母親が懇意にしている客という男がやって来て、母親と二人で出かけてしまいます。その夜、三人が囲炉裏を囲んでの会話。
この作品では天狗の面が随所に描かれています。この天狗の面はユキの持ち物ですが、何となくセクシャルなイメージがある天狗の面をユキが無邪気に被っており、母親の業の深さにユキが全く気づいていないということが暗示されているようです。
そして母親はユキにだまって蒸発してしまいます。そのことをお婆さんはユキにだまっていますが、そのお婆さんもついに亡くなってしまいます。そしてその夜……。
この作品で唯一のホラー的部分ですが、ネズミの大群がユキと老婆、家をかじり尽くして全ては雪に埋もれて終わります。
さて、両作品の主人公はどちらが幸せだったのでしょうか。一男は疎まれてはいましたが最後に母親と一緒になれたし、ユキは母親の業を最後まで知らずにすんだ、と言えます。どちらも悲惨な家庭環境ですが、最後の最後で最悪ではなかった、という点で読み手は救われるのかも知れません。それにしても同様の作品が時期的に近接して発表されており(1970および1971年)、さらに類似の作品は他にもあります。当時の作者にはこの日本で何が見えていたのでしょうか。
日野日出志作品紹介のインデックス
この2作は鏡に映したような対称性があります。主人公は「少年」と「少女」、随所に現れる「能面」と「天狗の面」、家にいない父親、家の外で男と逢っている母親、白骨となる結末などたくさんあります。
まず「蝶の家」から見ていきましょう。主人公の一男は優しい両親とともに暮らしていましたが、突然高熱に冒されて姿が醜くなり、知能も退行してしまいました。蝶を眺めたり幼虫の芋虫と遊んだりすることだけが楽しみでした。父親は船乗りで、家にいることは少なかったのですが、時々一男に海外の珍しい蝶の標本を買ってきていました。父親は一男の異変を母親の責任だと責め続けた結果、母親に表情が無くなり、態度も冷たくなっていました。ある日父親が帰って来たのですが……。
家にはなぜかたくさんの無表情な仮面が壁にかかっており、母親の冷たさの印象が倍増しています。心を閉ざした母親の象徴として全編にわたって仮面が頻出するのですが、母親の素顔はどうかというと、父親の不在時にどうやら外で男と逢っているようです。このように一男の家庭は悲惨な状況で、読んでいるこちらもいたたまれません。
そして再び原因不明の高熱が一男を襲います。
この布団のくるまり方が何となくつげ義春っぽくありますが、最後のコマがキング・クリムゾンのCDジャケットみたいで笑えます(悲惨なシーンなのに)。最初のコマの情報量の多さも印象的です。
この後、一男の身体を食い破って大量の芋虫が出てきます。その芋虫たちは寝ている母親も食い尽くし、蝶の大群となって飛んで行き、二人の白骨だけが残されて物語は終わります。
さて一方、「白い世界」では、雪深い山間に住む少女ユキが主人公です。ユキはお婆さんと二人暮らしで、父親は蒸発してしまっています。母親は普段は街にて水商売をして稼いでおり、たまに家に帰ってきます。母親がたまたま何日か家にいると、街から母親が懇意にしている客という男がやって来て、母親と二人で出かけてしまいます。その夜、三人が囲炉裏を囲んでの会話。
この作品では天狗の面が随所に描かれています。この天狗の面はユキの持ち物ですが、何となくセクシャルなイメージがある天狗の面をユキが無邪気に被っており、母親の業の深さにユキが全く気づいていないということが暗示されているようです。
そして母親はユキにだまって蒸発してしまいます。そのことをお婆さんはユキにだまっていますが、そのお婆さんもついに亡くなってしまいます。そしてその夜……。
この作品で唯一のホラー的部分ですが、ネズミの大群がユキと老婆、家をかじり尽くして全ては雪に埋もれて終わります。
さて、両作品の主人公はどちらが幸せだったのでしょうか。一男は疎まれてはいましたが最後に母親と一緒になれたし、ユキは母親の業を最後まで知らずにすんだ、と言えます。どちらも悲惨な家庭環境ですが、最後の最後で最悪ではなかった、という点で読み手は救われるのかも知れません。それにしても同様の作品が時期的に近接して発表されており(1970および1971年)、さらに類似の作品は他にもあります。当時の作者にはこの日本で何が見えていたのでしょうか。
日野日出志作品紹介のインデックス
記事中では触れていませんが、「白い世界」では「雪女」のエピソードが挿入されています。それはお婆さんがユキに聞かせている話という一見本編とは関係ないものです。ですが、この「白い世界」を「現実」とすると、そういう現実のドロドロした部分をそぎ落とし、女の情念だけを恐ろしくも美しくまとめたのが「雪女」という「昔話」なのだ、ということにいただいたコメントから理解しました。気づいてみれば単純な構造ですね。
「蝶の家」も同様ですが、こちらはもっと単純に、醜い芋虫から美しい蝶になる、という構造がありました。どちらにしても、会話シーンで顕著に見られるように、美化されていない「生活感」が前面にでている二作品でした。
昔話風ですが、後年「不適切」とされる部分を削除したり改竄した「嘘の昔話」ではなく、残酷な部分もそのまま描き、それでいて必要以上に残酷さをクローズアップしている訳でもなく、読者に何らかの教訓性を押し付けている訳でもない。出来事をありのままに描いただけの、ごく自然な「昔話」であり「物語」である。だからこそ、却って心に響くものがある。この点は恐らく「蝶の家」の方も同様なのではないかと思います。