荻野洋一 映画等覚書ブログ

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アントニオ・ロペス、あの『マルメロの陽光』の…

2013-05-14 03:01:23 | アート
 あくまで個人的嗜好に属する独白だが、私はあまり写実主義の美術を好まない。2011年10月にスペイン・バスク地方の中心都市ビルバオをロケ出張で訪れた際、ビルバオ美術館でアントニオ・ロペス回顧展が開催されており、次から次へと人々が吸い込まれていくのを目撃したが、宣伝バナーの写実性にあまり感心せず、この際の自由時間には、ビルバオ・グッゲンハイム美術館におけるリチャード・セラとブランクーシの二人展を優先してしまったのだった。
 この時見逃した画家アントニオ・ロペスが、ビクトル・エリセ監督『マルメロの陽光』(1992)でマルメロの樹をじっと見つめ、果実が落下するまで粘着質に見つめる画家その人であることを知ったのは、今回の東京展のチラシを見てのこと。そして、遅まきながら渋谷Bunkamuraへ出かけることになったわけである。

 個人的な経緯をくどくどと書いたが、この目でようやく見た結論をまず言うなら、アントニオ・ロペスの標榜する写実に常軌を逸した時間の堆積が内包していることをまざまざと突きつけられ、第一印象を撤回せずにはいられなかった。エリセの映画で製作過程がドキュメントされていた油彩画「マルメロの木」(1990)も今回20年越しで見ることができたが、ここでは「描く」ことよりも「見る」ことの優位性が叫ばれている。はたして作家はそれほどまでに対象に対して過剰にコミットしなければならないのか?
 アントニオ・ロペスの他の作品、たとえば図録の表紙(左上の写真)に載った風景画「グラン・ビア」(1974-81)にしても、夏の日の朝6:30、マドリード最大の繁華街グラン・ビア、この地区は新宿や渋谷のように深夜から早朝まで不夜城と化すが、ふとまどろみ、熟睡に入った朝6:30の光のもとでのみ描かれている。画家は画材を携え、自宅から始発直後のメトロでグラン・ビアに着き、Y字路の中央分離帯に画材を広げ、人っ子一人とていない6:30前後の20分間だけ毎日絵筆を走らせつづける。そういう、狂ったほど過剰な時間が浪費され、7年もの歳月を要して完成しているのである。他にも、長い年月の短い時間の光の下で見つめられ、描きつづけられたにもかかわらず、未完のまま放置された作品も枚挙に暇がない。
 こういう鬼気迫る徒労にも似た手続きを経てはじめて写実主義が完遂するならば(いや、完遂すら目指されていないように見える)、一鑑賞者がかんたんに「好まない」の一言で片付けるべき事柄ではないと反省した次第である。


本展はBunkamuraザ・ミュージアム(東京・渋谷)で6/16(日)まで開催されたあと、長崎、岩手と巡回予定
http://www.antonio-lopez.jp

『アイアンマン3』 シェーン・ブラック

2013-05-13 07:13:21 | 映画
 このところヒーロー物のシリーズは、主人公の自宅炎上が大流行である。本作『アイアンマン3』も『ダークナイト ライジング』も主人公が自宅を襲撃されることで物語が始動し、『007 スカイフォール』に至っては自宅炎上がメインテーマだったと言っても過言ではない。そこから抽出されるのはやはり、世のヒーローたちが抱え込んできた幼少期のトラウマまたは子宮回帰願望からの解放、さらにはその湮滅への強迫観念ということになるだろう。
 『アイアンマン』のシリーズは、アルコール依存症で傍若無人、金だけはたんまり持っている傲岸不遜なダーティ・ヒーローの存在誇示で成立するシリーズで、愛されていないと思い込んでいた亡父から愛の証拠を受け取るというメロドラマがこれに接ぎ木されていた。そしてこのダーティ・ヒーローを、ロバート・ダウニーJr.が彼自身のアルコール依存などの自伝的辛苦を観客の意識に浮上させながらうまく演じきってきた。
 その伝で言うなら、今回の『アイアンマン3』はシリーズ中もっとも保守的な作品だ。これまで彼は世界を救助しながらも、同時に世界に中指を立ててきた。ところが今作の彼は、きまじめに救世主をみずからに任じ、誘拐された婚約者や大統領を救助するラストミニッツ・レスキューの古典性に閉じこもって自足しようとしている。家庭への、国家への、秩序への帰順と忠孝に彼は満足しつつあるようだ。そして、過去に邪険に扱われたという私怨だけを抱えて復讐に燃える悪玉のリーダー(ガイ・ピアース)。これは『007 スカイフォール』のハビエル・バルデムも同様だったが、主人公の防衛戦を軽いものにしてしまう。この悪玉が「アルドリッチ」なる名を持つのが片腹痛い。


TOHOシネマズ日劇(東京・有楽町マリオン)ほか全国で上映中
http://www.marvel-japan.com/movies/ironman3/

『孤独な天使たち』 ベルナルド・ベルトルッチ

2013-05-10 02:38:57 | 映画
 先日シアター・イメージフォーラムで『パートナー(ベルトルッチの分身)』(1968)をイタリア文化会館以来25年ぶりくらいに見たが、これがじつに素晴らしい。これぞベルトルッチという、やんちゃで青臭く、ワンシーンごとに観客を困惑させてやりたくてしかたがないという悪戯心がぴかぴかに光っていて、ピエール・クレマンティの長い長い影、洗濯石鹸の箱に囲まれたその顔、ティナ・オーモンの上瞼に描きこまれた目玉、洗面室での泡だらけになっての抱擁など、まざまざと鮮烈なイメージが甦った。
 ベルトルッチが映画の最前線から脱落してどれくらいの歳月が流れたのだろうか? すでに大作『リトル・ブッダ』(1994)の時点で後退の色が濃かった。近年の彼は重病にかかって車椅子生活となってしまったそうだが、めでたく9年ぶりとなる新作『孤独な天使たち』が日本公開されている。
 iPodの音楽と推理小説を友だちとして一人遊びに興じることの大好きな14歳の主人公(ヤコポ・オルモ・アンティノーリ)。学校のスキー合宿と偽って、アパート地下の物置で一週間の秘密アジト生活と決めこむ。そんな至福の時間は、ドラッグ依存症の異母姉(テア・ファルコ)の闖入によってもろくも崩れるのだが、このふたりのやり取りが紡ぎ出す時間には、じわじわと愛おしさが押し寄せてくる。主人公のニキビだらけでうぶ毛の髭を生やしたブサイクな顔つきが、たまらなくいい。よくこんな顔の少年を見つけてきたものだ。
 かつてのような力強い演出はすでに見られず、枯渇した映画作家による晩年の戯作につき合っているという感覚は正直なところぬぐい去れないが、デヴィッド・ボウイーの初期曲「スペイス・オディティ」(1969)の思い入れたっぷりの使用が、すべてをかっさらって見せる(イタリア語版なんて存在したのか)。そして、最後の夜が明けた早朝に撮られたあまりにも美しいラストカット。ベルトルッチがこれから何本の作品を作ることができるのかは見当もつかないが、ベルトルッチのこの〈地下室の手記〉的フィルムの存在が、彼の映画人生の過疎的時間をしずかに照らし出している。キャリアを救済する地下室の薄明である。


シネスイッチ銀座(東京・銀座和光裏)ほか全国で順次上映
http://kodoku-tenshi.com

浦崎浩實 著『歿2 映画人墓参抄』

2013-05-07 00:49:00 | 
 「キネマ旬報」の連載コラム「映画人、逝く」をまとめた2010年の『歿 映画人忌辰抄』の続編『歿2 映画人墓参抄』(ワイズ出版)が出たばかりである。今回はキネ旬だけではなく、「シナリオ」「荷風!」「別冊太陽」各誌から採られた。
 著者・浦崎浩實による、時に辛辣なる審判員としての、時に死者を慰撫し鎮魂する旅の念仏者としての言説は、読者を同道する吸引力に満ち満ちる。私は、前書&本書に相通じるこの感覚を「晴れやかなるメランコリー」と名づけたい。時に細やかな取材と資料探し、時に蕭々たる独歩の墓参。往来の誰も注目しない角地、路地の縁あたりというものは、誰かによって歩かれ、見流されるだけで生命を保つだろう。浦崎が、逝ける映画人たちに捧げる意識もそうしたものではないか。浦崎によって感知され、書き留められることによって、映画人の華やかな生の忘れられた側面が、そして映画史の表裏が、錆びつくのを防がれているのである。私は、ありがたいという感情と共に本書を読み終えた。
 俳優と監督に偏りがちな私たちの関心と思考をしずかに叱咤するかのように、八住利雄から始まって、81人におよぶシナリオライターの墓参記が収録されている。本書のじつに6割以上がシナリオライターに割かれている(木下惠介、安部公房、寺山修司、山中貞雄、岸松雄、福田恆存、山村聰はじめ専従でない人も多数ふくむ)。「映画芸術」誌のようにシナリオライターたちが誌面づくりに参画し、自分たちの地位向上に役割を果たすというケースなら理解の範囲内であるが、評論家の単著としてはこれはかなり過激なことだと思う。そもそも世の評論家たちには、シナリオライターについて80人分も論評するほどの知識も気概もないだろう。これだけの人数についてのコラムが揃うと、それはそれでガイド的な紳士録、若い読者のための出会いの指南書として役に立つ。
 ところで本書のあとがきが、「2013年1月22日、大島渚監督告別式の日にしるす」という締めで終わっている。大島の死は、私たちにとって生々しい現在の事象である。こうした締めからも、私たち生者が現在進行形で葬列の一員なのであって、またその列が、早晩みずからも閻魔大王様と面会するための行列でもある、という点に改めて気づかされるのである。

P.S.
 最終章〈追悼おりおり&エピローグ〉の扉ページに、日本橋人形町は江戸情緒の残り香ただよう「芸者新道」(通称 小菊通り)の写真が使われている。老父と息子さんが昼夜交代でやっている昔気質のすし屋「大田鮨」、それから通りの通称の元となった花柳小菊の旧宅を改造した文化財的日本料理屋「よし梅 芳町亭」、そして日本橋界隈の飲食業界に多大なる影響力をもつ業務用食器の卸商「京雅堂」などが写りこんでいる。ふだん私が食べ歩き、飲み歩いているテリトリーなので、親しみの念がより一層に。
 昔ふう建付の「大田鮨」は、空間の渋い雰囲気を愉しみながら、中級(の上)くらいのすしを食べたい方にオススメである。「京雅堂」は、上階に魯山人なども置いている名門の食器屋だが、一般客が通される1階と2階にはつまらないガラクタしか置いていない。一般の陶磁ファン用にもうすこしマシなものを置けばいいものを。清濁両面において「日本橋中華思想」(こういう思想が本当にある)を象徴する店と言えるだろう。

『夜の緋牡丹』 千葉泰樹

2013-05-04 02:41:42 | 映画
 サイレント期から戦後まで活躍し、日本では史上最もすぐれた脚本家のひとりである八田尚之による、滋味あふれる極めつきのシナリオを得て、千葉泰樹がひりひりと心に沁みる作品を作った。1950年の『夜の緋牡丹』。任侠映画のようなタイトルをもつ本作を、今回初めてテレビ録画で見ることができた。
 銀座プロダクションを興した八田みずから原作・脚本・製作を担当した入魂の作だが、その作風は大向こうをまったく狙わず、一陣の風のように軽快、なおかつ孤高である。監督の千葉泰樹は見れば見るほどいい監督で、語の古典的な意味で「作家主義」の光がより強く当てられていい存在である。千葉と八田は、この世のものとも思われぬ美しさを湛えた『生きている画像』(1948)でも組んでいる。千葉は、シナリオに恵まれた監督だと言えるかもしれない。
 売れない小説家(伊豆肇)が、2人の女──下町の芸者(島崎雪子)と新進小説家(月丘夢路)──のあいだで揺れうごく。終戦5年目の若く活気ある東京の喧噪。それは、まさに何かを置き忘れてしまいそうな一瞬一瞬なのである。サーカス団出身だというアプレ芸者・島崎雪子のへんてこなダンス、逆さ吊りになってのキス、無知な善良さのなんと愛おしいことか。若く、貧しく、明るくて寂しい東京そのものが主人公だ。都会の片隅で、成熟前の男と女がひょんなことで知り合って、人肌恋しさのままに同衾する。ひとつ所に固着するのを厭う生粋のデラシネを演じた伊豆肇がすばらしい。こういう映画はくり返しの鑑賞に耐える作品で、なんど見ても感銘を受けるたぐいのものだ。