荻野洋一 映画等覚書ブログ

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無残にたゆたう木っ端舟

2013-01-03 01:28:17 | 映画
 大晦日にはしごで見た2本の新作、サム・メンデス『007 スカイフォール』と金子文紀『大奥 ~永遠~ 右衛門佐・綱吉篇』が酷似した作品だという印象は単なる偶然だが、その作劇上の偶然は示唆的でもある。
 いずれも、主人公の所属する強固なはずのシステム──前者ならMI6、後者なら徳川幕府──があっさりと崩壊していく様に必死に抗いながら、それでも崩壊の進行に押し流されていく。マザーファッカーであり、オイディプスでもある自分自身、そして父祖のシステムが同時進行的に機能不全に陥り、主人公たちがこぞって取る組織の延命措置は、ことごとく一般民衆を無視したクズ行動である。最後は(ネタバレ防止のため、精一杯抽象的に説明するなら)、単なる老いらくの恋のようなものへと落ち着くのである。
 中国古代・殷の紂王の暴虐に際し、のちに周を建てた武王が紂王を討った故事を、大奥の総取締(堺雅人)が引用し、「天命を失った天子はもはや天子にあらず」と将軍綱吉(菅野美穂)に諫言する。『OL忠臣蔵』のようなジェンダー・コメディでいいはずが、映画の行く末をアナーキーに難破させてしまったシナリオライターの神山由美子には、いかなる意味深遠な方向感覚をもって書いたのか質してみたい気もする。
 私にはまったくと言っていいほど係わりあいの少ない2本の映画ではあるが、しかし、天命を失い、面目を失ってなおも延命される現代国家の不透明な行き先、霧の中の木っ端舟のごとき幽霊姿をさらす無残さが、ここにあからさまに露呈しているように思える。その点では考えさせられるものがある。

『たとえば檸檬』 片嶋一貴

2013-01-02 00:42:23 | 映画
 20歳の女(韓英恵)と40歳の女(有森也実)。前者は母(室井滋)との、後者は娘との、おのおの親子間のぞわぞわした愛憎的な依存にからめ捕られ、にっちもさっちも行かなくなっている。世代の異なるふたりの女の地獄行を虚実ない交ぜにシェイクした『たとえば檸檬』は、和製ニューロティック・スリラーの捨てがたい一篇だ。
 年増女の焦燥、孤独、傲慢、渇望、それらの激化した感情を、心の内側と外側の両面から熱して身体上に露出させた有森也実は、代表作とするにふさわしい人物像に血と肉を与えた。絶望に身をよじる女は、時にみすぼらしく老いて見え、時にかよわい童女にも見える。そして醜と美、愛と憎を全身に漲らせている。
 韓英恵のDV依存の母親を演じた室井滋もまた近年の老いたキャリアから脱却し、この女優が元来そなえる奇妙なる色香を再び放っている。

 室井滋、そして監督の片嶋一貴ともに1970年代後半の早大シネ研の主要メンバーで、気恥ずかしながら私の大先輩にあたる方々だ(在学期間は重なっていない)。
 以下、余談──本部キャンパス12号館の裏廊下にあった部員用ロッカーに、連絡ノートのバックナンバーが膨大に保管されていて、暇な時にこれらを引っぱり出して読みあさったものである。室井滋の名前も片嶋一貴の名前も、これらのノートで見た。室井滋がページ一杯に、“あす『ビハインド』撮影、7:00AM 高田馬場BIG BOX前に集合。遅刻したらぶっ飛ばす!!” とか殴り書きしていたのを覚えている。『ビハインド』(1978)というのは、山川直人という当時のシネ研内の寵児が撮っていた8ミリ作品で、室井滋はこれの主演女優だった。主演女優みずから部隊集合の号令までかけるとは、やっぱりプロ志向の先輩は気合がちがっていたのだな、などと寝ぼけた感心をしていた。
 …いかん、愚にもつかぬ回想に耽ってしまった。これも『たとえば檸檬』が焚きつけた毒気のせいだろう。


12月15日(土)より、シネマート六本木ほか各地で順次上映
http://www.dogsugar.co.jp/lemon