ケン・ローチの映画の、私は良い観客ではない。見たり見ていなかったりである。なぜなのかを真剣に考えたことはないが、照れのようなものがある。私の周囲では、ケン・ローチに対して批判的な知人・友人も少なくない。シネフィル度の高い人ほど、不支持率が高まるように見受けられる。消極的ながら私自身がそんな手合いの一員と認めざるを得ないだろう。
では、どんな点に不支持を決め込むのか? 『エリックを探して』(2009)がつまらなくて、それ見たことかと、その後の『ルート・アイリッシュ』(2010)『天使の分け前』(2012)の2本はパスした。そして、ほんの気まぐれで最新作『ジミー、野を駆ける伝説』を見に行ったら、なかなかいいと思った。しかし、この作品にも私がケン・ローチをなんとなく遠ざけてきた理由が隠れているとも。それが何なのかをはっきりさせたい。これほど弱者へのいたわりに満ち、公権力の理不尽に対する怒りに満ち、また民衆の生のおおらかさ、おかしみに満ちているのだから、文句はないではないか。ひょっとすると、そのこと自体に私は文句があるのかもしれない。このポピュリズム一歩手前の民衆主義は、なにかもっと大事なものを置き去りにするかもしれないという危惧である。
ところが、その危惧を証拠立てるものが発覚しないのである。彼の映画は無防備だ。無防備なそのフィルモグラフィに私は警戒感を抱いた。私が初めて見たケン・ローチ作品である『リフ・ラフ』(1991)を当時の「カイエ・デュ・シネマ」が絶賛している記事を、一生懸命に読んだ記憶がある。だが私は、ほぼ同時期に製作されたイギリス映画、テレンス・デイヴィスの『The Long Day Closes』(1992 日本未公開)の方を支持した。テレンス・デイヴィスの前作『遠い声、静かな暮し』(1988)がシネセゾン配給で公開された時、イギリス映画の真の魂を見た思いがしたので、次作『The Long Day Closes』への賞讃の念が『リフ・ラフ』の価値を私の視界から隠してしまったのだ(テレンス・デイヴィスについては、いずれ書きたいと思っている)。
今回の『ジミー、野を駆ける伝説』は1930年代、世界恐慌期のアイルランドの田舎町で公民館活動を通じて社会変革をめざした青年が、ファシズム勢力と手を組んだカトリック教会から弾圧を受けるという内容である。
私がケン・ローチのフィルモグラフィで最も好きなカットは、彼らの狭いマイホームに警察や民生委員、保健所といった公権力がドヤドヤと侵入してきて、彼らに「不法移民」だの「秩序攪乱者」だの「育児不適格者」だの「アカ」だのという馬鹿げた罪状的レッテルを貼りつけ、有無を言わさず彼らの身柄を「しょっ引く」シーンや、彼らの愛児を取り上げるシーンで突然、画面内がインフレを起こし、フォーカスも何もへったくれもない状態で満杯となる、しかしながらレンズはそのインフレをしっかりと目撃するためか微動だにせずフィックスで留まる、あの重心低く被写界深度の浅い画面の数々である。
今作でもそんなカットはちゃんとある。そして主人公の老母が息子の裏口からの逃亡を少しでもアシストするために、警官たちに tea を振る舞う。その tea の湯気にケン・ローチ映画のブリテン的な血気とおかしみ、悲しみが込められている。その血気に対して、私はいつまで警戒心を抱き続けるのか? それは分からないが、その警戒心は馬鹿げているのでないかと自戒したいとも思っている。
1/17(土)よりヒューマントラストシネマ有楽町(東京・有楽町イトシア)ほか全国で順次公開
http://www.jimmy-densetsu.jp
では、どんな点に不支持を決め込むのか? 『エリックを探して』(2009)がつまらなくて、それ見たことかと、その後の『ルート・アイリッシュ』(2010)『天使の分け前』(2012)の2本はパスした。そして、ほんの気まぐれで最新作『ジミー、野を駆ける伝説』を見に行ったら、なかなかいいと思った。しかし、この作品にも私がケン・ローチをなんとなく遠ざけてきた理由が隠れているとも。それが何なのかをはっきりさせたい。これほど弱者へのいたわりに満ち、公権力の理不尽に対する怒りに満ち、また民衆の生のおおらかさ、おかしみに満ちているのだから、文句はないではないか。ひょっとすると、そのこと自体に私は文句があるのかもしれない。このポピュリズム一歩手前の民衆主義は、なにかもっと大事なものを置き去りにするかもしれないという危惧である。
ところが、その危惧を証拠立てるものが発覚しないのである。彼の映画は無防備だ。無防備なそのフィルモグラフィに私は警戒感を抱いた。私が初めて見たケン・ローチ作品である『リフ・ラフ』(1991)を当時の「カイエ・デュ・シネマ」が絶賛している記事を、一生懸命に読んだ記憶がある。だが私は、ほぼ同時期に製作されたイギリス映画、テレンス・デイヴィスの『The Long Day Closes』(1992 日本未公開)の方を支持した。テレンス・デイヴィスの前作『遠い声、静かな暮し』(1988)がシネセゾン配給で公開された時、イギリス映画の真の魂を見た思いがしたので、次作『The Long Day Closes』への賞讃の念が『リフ・ラフ』の価値を私の視界から隠してしまったのだ(テレンス・デイヴィスについては、いずれ書きたいと思っている)。
今回の『ジミー、野を駆ける伝説』は1930年代、世界恐慌期のアイルランドの田舎町で公民館活動を通じて社会変革をめざした青年が、ファシズム勢力と手を組んだカトリック教会から弾圧を受けるという内容である。
私がケン・ローチのフィルモグラフィで最も好きなカットは、彼らの狭いマイホームに警察や民生委員、保健所といった公権力がドヤドヤと侵入してきて、彼らに「不法移民」だの「秩序攪乱者」だの「育児不適格者」だの「アカ」だのという馬鹿げた罪状的レッテルを貼りつけ、有無を言わさず彼らの身柄を「しょっ引く」シーンや、彼らの愛児を取り上げるシーンで突然、画面内がインフレを起こし、フォーカスも何もへったくれもない状態で満杯となる、しかしながらレンズはそのインフレをしっかりと目撃するためか微動だにせずフィックスで留まる、あの重心低く被写界深度の浅い画面の数々である。
今作でもそんなカットはちゃんとある。そして主人公の老母が息子の裏口からの逃亡を少しでもアシストするために、警官たちに tea を振る舞う。その tea の湯気にケン・ローチ映画のブリテン的な血気とおかしみ、悲しみが込められている。その血気に対して、私はいつまで警戒心を抱き続けるのか? それは分からないが、その警戒心は馬鹿げているのでないかと自戒したいとも思っている。
1/17(土)よりヒューマントラストシネマ有楽町(東京・有楽町イトシア)ほか全国で順次公開
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