荻野洋一 映画等覚書ブログ

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ジャン=ポール・サルトル 作『アルトナの幽閉者』(新国立劇場)

2014-03-01 06:41:11 | 演劇
 ルビッチにせよホークスにせよ、ハリウッドの古典を集中的に見た学生時代、室内の男女が立ったまま会話するシーンを眺めていて、訳もわからず感動がこみ上げてくることがあった。私たち日本人は、腰かける、あるいはしゃがみ込むことからコミュニケーションのスイッチが入るのであって、立ったままおこなうのは、もっぱら炊事、洗濯、掃除、洗顔、着替えなど、家事や身だしなみといった姿勢に限られる。だから、ドアを開けてつかつかと歩み寄りながら激しい議論の応酬がすでに開始されている、といった光景はカルチャーショック以外の何物でもなかった。このショックには、あんな風にフランクに他人と応酬できたらさぞかし痛快だろうという憧憬が混じる。
 サルトルの1959年の戯曲『アルトナの幽閉者』が、東京・初台の新国立劇場小劇場で上演されている(演出 上村聡史)。3時間半にわたり登場人物たちがもがき苦しむこの舞台を眺め続け、私の意識へとヴィヴィッドに突き刺さったのは、ナチスドイツが滅んで15年の歳月が経ったハンブルクのブルジョワジー家庭のだれもが立ち尽くしまま考え、しゃべり、家族と対峙するという、演技者の現象的側面であった。逆に、登場人物のだれかが椅子に座るという行為は、なにやら相当の決心を必要とする行為であるかのように演出されている。
 劇の後半、フランツ(岡本健一)の部屋に入りびたるようになったフランツの弟妻ヨハンナ(美波)が、ヒトラーの肖像写真の真下に椅子を運んできて、観客に正面から向き合う角度で腰かけてみせるとき、これはなにやら、あってはならぬ事態が起きてしまったのような、奇妙な切迫感があたりにただようのだ。私には、まっすぐ前に視線を送る美波の正面の顔が、大島渚の映画における佐藤慶のように見えた。
 アルジェリア戦争の最中に書かれた本作は、フランツの従軍体験への悔悟をねちっこく描写することによって、フランス公安部隊によるアルジェリア人への残虐な拷問をサルトルが暗喩的に告発したもの、というシニフィエが説明されている。そして、革新的な企画選びに定評のある新国立劇場が、現代日本の政治的状況を鑑みて、『アルトナの幽閉者』の上演を決めたことは、火を見るよりも明らかである。
 しかし、そのことを十二分に受け取りつつも、私はどうしても、上演における演出アプローチ、あるいは単に手癖のようなもの、そういう舞台上のフィジカルな磁場を探そうとしてしまうのである。

E・イェリネク作『光のない。(プロローグ)』(演出 宮沢章夫)

2013-12-09 01:54:37 | 演劇
 あれよあれよと時間が過ぎゆき、80分ほど経ったところで女優たちが能楽のシテを模しただろう幽玄の足取りで舞台から順々に去っていくのを、呆然と眺め終わって会場から吐き出された私は、いま吐き出された言語のざわめき、複雑に織りなされた言葉と所作の文様に追いつこうとして、ロビーで作品のテクストを手に取った。それはウィーンの女性劇作家エルフリーデ・イェリネクによる数ページの言葉の羅列に過ぎず、戯曲というよりは散文詩のようなものである。曰く、

「わたしの思考、ありきたりの表象、それをこうしてあなたが引き受けた、それが表象されたものと表象の、上演の関係、いいえ、表象は、上演は、失敗する。それがわたしにはもう見える、表象の、上演の欺瞞、それをあなたはここに見る。だがわたしが欺くのではない! あなたが欺く!」

 宮沢章夫にこんなテクストを渡したらどれほど危険なことになるのか、F/T13の主催者はあらかじめ分かっていたのだろう。テクストはバラバラに解体され、ほとんど宮沢のオリジナル作品の様相を呈していた。イェリネクはこの「戯曲」を、3.11以後の現実に向き合うために書いた。だから単刀直入に言えば、この作品は津波と、放射能汚染について、あるいはそれに対峙する者の無力について語っている。それが表象として、やがてはその作品の上演そのものへと刃(やいば)が向けられている。「わたし」「あなた」「彼ら」といった第一、第二、第三人称が飛び交うが、この人称は瞬間ごとに代置され、更新される。「わたし」は最初、作者本人を指しているが、それはいつのまに上演しようとする演出家に代置され、それに視線を向けるわれわれ観客ひとりひとりにまで敷衍している。
 宮沢章夫の遊園地再生事業団が宮沢の病気療養ののちに発表してきた『ジャパニーズ・スリーピング/世界でいちばん眠い場所』(2010)、『トータル・リビング1986-2011』(2011)、大島渚追悼上演『夏の終わりの妹』(2013)、そして今回の『光のない。(プロローグ)』と、私はそのすべてを見ておこうと期してきた。『夏の終わりの妹』初日の数日前に代官山のカフェで青山真治に会ったとき、青山は「いま、一番のキーは宮沢さん」と言っていたが、私もそう思う。


フェスティバル/トーキョー13の一プログラムとして、東京芸術劇場(東京・池袋)にて上演(12/8で終了)
http://festival-tokyo.jp/program/13/prolog_miyazawa/

チェルフィッチュ『現在地』(作・演出 岡田利規)

2013-12-06 03:48:01 | 演劇
 正直なところ私は岡田利規の上演作品および散文作品に対して、マンネリと停滞を感じ取っていた。彼が書く文章、語るインタビューに対しても冷ややかな感想しか持つことができなかった。
 しかし今夜、それは少し風向きが違ってきた。フェスティバル/トーキョー13の演目のひとつとして上演されたチェルフィッチュ『現在地』が提示したSF的なフィクション、これは都市のトリビアルな生態からの脱却であると同時に、プリミティヴと言っていいほど、現在的問題と対峙している。はっきり言うならば、この『現在地』は、先の選挙で大勝した保守・右傾化政権に対する強烈なノンである。原発事故から目をそらすわれらに対する叱責である。7人の女性がカフェテリアのような椅子とテーブルの付近に集まり、順繰りに言葉を紡ぎ出す。それはかつての『三月の5日間』『フリータイム』の間接表現(世界は紛争まみれではあるが、僕たちはラブホテルに連泊してるというような)も軽快な若者言葉も影をひそめ、アジテーションにも似た言葉の叩きつけとなって、観客に突きつけられた。

P.S.
 ささやかなこの記事を、若くして逝った鷲見剛一の魂に捧げる。鷲見君は早大シネ研の後輩で、七里圭と同期。8ミリ映画『酔醒飛行』が稲川方人などによって絶讃された。
 2010年3月、つまり東日本大震災の1年前、私は、横浜美術館レクチャーホールで上演されたチェルフィッチュ『わたしたちは無傷な別人である』の完成前のワークインプログレス公演『わたしたちは無傷な別人であるのか?』の物販ロビーで9年ぶりに鷲見君と再会し、しばし旧交を温めた。帰りのみなとみらい線、東横線の中でも話は尽きなかった。
 「ブログ、いつも読んでますよ。荻野さんって、学生時代よりマメになってますよね」と彼は言った。2000年初頭に一度、私は彼に仕事を手伝ってもらったことがあり、私の忙殺ぶりを彼はよく知っている。だから、その言葉は「あんたはあんなに忙しいのに、ほかの用件を無視して、休息も取らずによくもまあ、あちこち見たり聴いたり行ったり、精が出るよね」とわが鬼っぷりを褒められていると解釈し、まんざらでもなかったことを覚えている。


東京芸術劇場(東京・池袋)で12/8(日)まで
http://festival-tokyo.jp/program/13/current_location/

遊園地再生事業団『夏の終わりの妹』

2013-09-21 04:30:18 | 演劇
 東京・東池袋のあうるすぽっとにて、宮沢章夫作・演出、遊園地再生事業団の『夏の終わりの妹』を見る。
 タイトルから一目瞭然、今年1月に逝去した大島渚監督の映画『夏の妹』(1972)に対する、宮沢章夫による40年越しの返歌である。主人公の主婦がひとつの疑問をみずからに打ち立てる。曰く「たまたま観た『夏の妹』のわからなさとは、なぜこれを作ったのかというだけの、ごく平凡な疑問だ」。そしてこの疑問は、この戯曲を書いた作者みずからの疑問でもある。青山真治との対談で作者は述べる。「あれだけ優れた映画を作った大島渚という作家が、なぜあんな弛緩した映画を作ってしまったのか。どうしても納得できない」と。
 私たち映画ファンの常識は以下の通りだ。つまり、1960年代に充実した活動を送った大島の個人プロダクション、創造社もそろそろ前年の『儀式』をもってある高みに達し、賞味期限というか活動のモチベーションが尽きかけていた。風向きを見るに長けた大島はこれをいち早く察知し、みずから創造社をぶち壊すために作品そのものの中に弛緩を導入することを敢えてよしとした、という仮説である。私自身、この考えをずっと持ち続けている。事実、このあと創造社をつぶした大島はフランスとの共闘に入り、『愛のコリーダ』など、よりグローバルな映画製作に漕ぎ出していくのである。
 そんなことは作者の宮沢もとっくに承知のはずで、それでもなお『夏の妹』への疑問のもとに滞留し、沖縄各地の同作のロケ地をめぐり歩き、あまつさえ『夏の妹』への疑問それ自体を演劇作品および小説(すばる9月号所収)の主題としてしまったという、これは妄執が現実を食い荒らしている証左である。そして私たち観客の存在も、妄執によって食い荒らされる現実の一部にすぎぬ。

 本公演の作者に全面的に賛意を示すためという言い訳を作り、ここで手前味噌ながら、雑誌「nobody」に寄稿した大島渚を追悼する拙稿「さらば夏の妹よ」をみずから引用する愚を、どうか許していただきたい。
 曰く「大島死したいま、私はこの『夏の妹』をもっとも欲する。大事なものが喪失する過程にあり、しかもその喪失に対して上の空のまま、なすがままに流されていく無防備な『夏の妹』を、もっとも見続けたく思う。いまこの時、『夏の妹』は大島渚であり、大島渚は『夏の妹』である。大島の告別式で、出棺時にかかっていたのは坂本龍一の『戦場のメリークリスマス』のテーマ曲「禁じられた色彩」だったが、真に流れるべき音楽は、武満徹によるあの甘美きわまりない『夏の妹』の音楽ではなかっただろうか?」

アントン・チェーホフ作『かもめ』 演出ケラリーノ・サンドロヴィッチ

2013-09-07 06:33:56 | 演劇
 チェーホフの芝居というのはつねに一筋縄でいかず、中毒性が高い一方、上演されたと同時にすぐさま感動を呼び起こしてしまうから始末におけぬ。何年前だったか、『かもめ』を栗山民也が演出し、藤原達也がトレープレフを、美波がニーナを演じた上演がいかに感動的だったかを故・梅本洋一に話したら、「ちょっと待て」と制止され「それってさぁ、単に戯曲がすごかっただけじゃん?」と例によって乱暴に喝破され、二の句が継げなかった思い出がある。「それに美波ってさぁ、荻野君好みだよね」とまで図星の指摘をされて終了である。
 ことほど左様に難しいわけであるが、ケラリーノ・サンドロヴィッチは、トレープレフに生田斗真、ニーナに蒼井優、トレープレフの母アルカージナに大竹しのぶ、売れっ子作家トリゴーリンに野村萬斎という配役で『かもめ』に挑んでいる(9/4-28 Bunkamuraシアターコクーン)。悲しみが魂の奥まで深くもぐっていくすばらしい戯曲。もういろんな上演バージョンを見てきたから、問題はストーリーじゃない。ケラがこの芝居をどう解釈するかである。
 見終わった結論から言うならば、…いや結論はまだなし。戯曲が素晴らしすぎて、演出がどうとか、演技がどうとか考える以前に感動してしまう段階である。大竹しのぶの低音を非常に強調した発声、そして蒼井優の悲壮感溢れる台詞「私はかもめ」が胸に沁みる。
 ケラの演出はというと、意外に普通というか、パンク的な傍若無人さが影をひそめ、いつものビデオエフェクトなどの趣向を凝らしたガジェットも切り捨て、ひょっとすると「チェーホフに負ける」ことを前提に企画したのではないかとさえ感じさせる。代わりにモーリス・ジョベールのジャン・ヴィゴ映画のスコアかちゃんと確認できなかったが、幕間の劇伴がいい雰囲気を出している。
 従来は仲違いの印象の強いトレープレフと母アルカージナの仲直り、もっと言うと近親相姦的な同衾意識が強めに出ていた点、それからラスト、破局から数年後のトレープレフと元恋人ニーナの再会シーンで、男女の再会に冷水を浴びせる意図か、嵐のための停電、バチバチと点灯しそうでしない電気が激しいSEと共に仕掛けられている点が、ケラ演出らしい部分と言えるだろう(戯曲では電気は登場せず、ロウソクのみ登場)。


9/4-28 Bunkamuraシアターコクーン(東京・渋谷松濤)で上演
http://www.bunkamura.co.jp/