荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『ハムレット』 ナショナル・シアター・ライヴ2014 @TOHOシネマズ日本橋

2014-10-14 00:05:15 | 演劇
 7月の『ザ・オーディエンス』(スティーヴン・ダルトリー演出)、8月の『リア王』(サム・メンデス演出)に引き続き、《ナショナル・シアター・ライヴ2014》から、こんどはシェイクスピア『ハムレット』舞台上演のパブリック・ビューイングが、日本橋、なんば、京都・二条、川崎、府中などいくつかのTOHOシネマズでおこなわれた。演出はロイヤル・ナショナル・シアターの芸術監督をつとめるニコラス・ハイトナー(任期は来年3月まで)。
 前回の『リア王』でサム・メンデスは戯曲を保持しつつも、コスチュームプレイとしての要素を捨て、リア王と娘たちの骨肉争いを、20世紀的な内戦の殺伐として仕立てると共に、リア王の言動を現代医学成果の知見のもとに置いた。ひるがえって今回の『ハムレット』はいかなる演出、いかなる解釈を、見る私たちに提示してくれるのだろうか? とにかく『ハムレット』はシェイクスピア最長の戯曲なので、上映時間4時間。ジャック・リヴェット『美しき諍い女』や王兵のドキュメンタリーを見るときのような気合が必要だ。

 今回のハイトナー版『ハムレット』の演出的要点は2つあるように思う。1つめはホラーという点。つまりハムレット王子とその臣下たちが王宮の片隅で先王の幽霊に遭遇し、あまつさえその霊の死の秘密を霊本人から聞いてしまい、後に引けなくなってしまうという恐怖である。
 2つめはシェイクスピアのミシェル・フーコー化という試行である。ハムレット王子の身辺はじめ宮廷内にはSPらしき黒スーツが配置され、ハムレットらが何か言ったりしたりするたびに、黒スーツ連中はワイヤレスマイクでひそひそと報告している。宮廷では秘密裏に陰謀が企てられているが、それはガラス張りであり筒抜けである。
 北アイルランド紛争下のベルファストを手始めに、英国社会はいち早く監視社会、カメラアイ社会に突入している。いや、イギリスだけではない。街頭の防犯装置や国際空港の荷物検査のような古典的なスタイルから、AmazonやGoogleなどネット社会のあやしい顧客管理まで、ありとあらゆる監視システムが作動し、増殖している。私たちはただ生きているというだけで監視の対象である。ハムレットが「To be or not to be…」と逡巡するのは、おのれが監視下にあることを甘受した上で、何かを実行するための方便なのではないか? 『ハムレット』に独白(モノローグ)が多用されるのは、監視システムへの必死の対抗措置なのかもしれない。ゆえに、現代を生きる私たち観客自身がこのように言わねばならないだろう。「ハムレットとは私のことだ」と。


次回《ナショナル・シアター・ライヴ2014》の『オセロ』は12/12(金)から
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なお、旧作の『フランケンシュタイン』『コリオレイナス』もアンコール上映が決定
https://www.tohotheater.jp/event/ntl-fc-encore.html

『リア王』 ナショナル・シアター・ライヴ2014 @TOHOシネマズ日本橋

2014-08-27 03:13:09 | 演劇
 7月の『ザ・オーディエンス』(演出 スティーヴン・ダルトリー)に引き続き、《ナショナル・シアター・ライヴ2014》からシェイクスピア『リア王』舞台上演のパブリック・ビューイングが、日本橋、なんば、二条、川崎、府中などいくつかのTOHOシネマズでおこなわれている。演出は『アメリカン・ビューティー』『レボリューショナリー・ロード』『007 スカイフォール』のサム・メンデス。イギリス演劇の最高峰ロイヤル・ナショナル・シアター(ロンドン サウス・バンク)による『リア王』となれば、本流中の本流と言ってよく、この貴重な機会に、おのずとそれを見るこちらにも気合いが入る。
 日本でもさいたま芸術劇場をはじめとして、世界で夥しい数のシェイクスピア劇が今日も上演され、その分だけ斬新な意匠、演出法が存在する。そんな中、本家であるテムズ川南岸のロイヤル・ナショナル・シアターはいま、どのような演出を見せればいいのだろう?
 サム・メンデスが選んだのは、今世紀か前世紀における宮廷紛争、そして内戦下の状況である。ブリテン王リアを陥れた長女と次女に対し、勘当されてフランス王に嫁いだコーディリアが挑戦する。コーディリアの軍服姿は、葉巻でもくわえたらチェ・ゲバラのような出で立ちである。フランス王を後ろ盾にしたコーディリア軍による空爆が果てしなく続く。舞台上には不断に空爆の轟音がこだまする。コーンウォール公がワイン・オープナーのネジ巻き部分でグロウスター伯の両目玉をえぐり取るとき、そして、栄光の手前でリア王の長女ゴネリルがみずからのノドをナイフで掻き切るとき、さらに狂気と絶望に踊らされたリア王がそれまで可愛がっていた道化(Fool)をバスタブに沈めて、鉄パイプを何度も振り下ろして撲殺するとき、テムズ川の水が流血でどす黒く濁っていくかのようである。
 リア王役のサイモン・ラッセル・ピールの、医学的な最新調査結果(シェイクスピアの狂気描写を詳細に分析し、老人性認知症の一知見として同定した英国医学界の見解──そしておそらくシェイクスピアの近親者に同様の症状を呈した患者がいたはずという見解)に基づく演技には、すこし疑問を感じさせた。リア王の狂気を、悲劇への急転直下を、医学的に解明することが、はたして演劇のためになるのかどうか。精神の行方不明という壮大な悲劇性に、ひとつの住所を与えてよいのかどうか。その点は保留としたい。しかし、医学的な解釈によるサイモン・ラッセル・ピールのすり足の歩行演技が、偶然にもどこか『平家物語』の俊寛僧都のごとき凄惨な悲劇的フォルムを帯びてもいたことは、感覚的な情動を呼び起こした。


TOHOシネマズ日本橋(東京・三越前)ほか、全国各地で8/27(水)まで上映
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中野成樹+フランケンズ『ハイキング』『天才バカボンのパパなのだ』

2014-07-12 06:19:02 | 演劇
 中野成樹+フランケンズ(以下、ナカフラ)の別役実戯曲2作同時上演『ハイキング』『天才バカボンのパパなのだ』を、水曜金曜と1日おきに見に行く。
 ナカフラといえば本来チェーホフほか海外戯曲の〈誤意訳〉による上演を得意とするグループで、前回の評では大谷能生と組んだチェーホフ『長単調(または眺め身近め』(あうるすぽっと)をとりあげた。今回は国内作家、それも別役実の不条理演劇である。誤訳、意訳が得意とはなんとも人聞きが悪いが、ナカフラの場合、その人聞きの悪さそのものが主題となっていると言って過言ではない。
 今回の2作上演を、大いなる笑いにつつまれて見終えた。〈間〉のズレの面白さは絶妙で、楽しい気分で劇場を後にした。しかし、不条理であることを笑う、〈間〉のズレを笑う、それでいいのだろうかという疑問を抱いた。深夜テレビなどで演じられる少しシュールな漫才と同じ感覚でこの体験を消費してもいいのだろうか。いや、私は演劇というものに、それ以上のものを要求する。それ以上とは何か。それは、演劇がすでに終焉したジャンルであるという諦念のあとにそれでも醸し出される油脂のことである。今回の2作上演にこの油脂が欠けていたとは断言しない。しかし、上演者側および観客である私たち双方にその油脂が完徹されていたかどうか。
 では、近年の別役戯曲の上演とくらべるとどうか。たとえば大滝秀治率いる劇団民藝が、伝統のメソッド演技を捨てて別役実を理解しようとして滑稽なほど悪戦苦闘する『らくだ』(2009 紀伊國屋サザンシアター)はどうだろう。NHKで『らくだ』上演までの故・大滝秀治の格闘に密着したドキュメンタリー番組が放送されていたのを見たことがあるが、高齢の大滝が別役戯曲への違和を克服しようともがく姿は、まさに「演劇」そのものであった(大滝秀治追悼記事)。そして昨夏に深津篤史演出で上演された『象』(2013 新国立劇場)。放射能によるケロイドのもてあそび(「オリーブオイルを塗ると塗らないとでは、ケロイドのツヤが違う」といったセリフの醸す笑いの黒々しさ)ほか、登場人物の一挙手一投足に息を飲んだ。大量の悲しみが溢れるのを受け止めきれぬほどだった。
 民藝や深津篤史にくらべると、緊張感のレベルが少し違うのではないか。選んだテクストが、よりライトな感覚のものだったに過ぎないのか。突然アニメソングを唄い出したりするパロディの援用におもねった世の小劇場演劇、あれらに時間を使う余裕は、私たちにはない。ナカフラはそういうレベルのものではないというのは今回も感じられたが、よりいっそう研ぎ澄ませてほしい。

P.S.
 見終えて、下北沢のバーで飲む。初めて入った上演会場のシアター711は、たしかシネマ下北沢(のちのシネマアートン下北沢)の跡地であるはずである。バーテンダー氏に確認したところ、やはりそうだと言う。711というのは劇場オーナーの誕生日なのだそう。とすると、きょうは誕生日だったということか。無料サービスとかそういうのはないのだね。シネマ下北沢は以前、あがた森魚の監修のもとで拙作短編も上映してくれた劇場である。入口階段から廊下、ホール内、併設のカフェまでふくめ、凝りに凝った愛に溢れるレトロモダンなセットデザインだったように記憶している。今回伺ったシアター711にその面影は、トイレのシンクに張られたタイル以外はほぼゼロ。スズナリ風の謹厳実直な普通のアングラ劇場となっていて、時計が逆に遡った感覚を覚えた。


中野成樹+フランスケンズ〈誤意訳から別役へ〉2作上演は、下北沢シアター711(東京・世田谷)で7/15(火)まで
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『ザ・オーディエンス』 ナショナル・シアター・ライヴ2014 @TOHOシネマズ日本橋

2014-07-02 03:53:35 | 演劇
 近年シネコンでは必ずしも映画作品だけでなく、ポール・マッカートニーやローリング・ストーンズ、ビリー・ジョエル、サイモン&ガーファンクルといったビッグ・アーティストのコンサート・ムービーや、パリ・オペラ座の歌劇とバレエの公演映像が上映されるケースが増えている。かつて私の子ども時代には「フィルム・コンサート」というものがあって、来日を望めそうもない海外ミュージシャンのライヴ映像が公民館などで上映された。中学時代、四谷の公民館でフレッド・フリス(元ヘンリー・カウ)のフィルム・コンサートを見たし、新宿5丁目の黙壺子アーカイブでレッド・ツェッペリン『狂熱のライヴ』なんかを見たのもその流れである。
 1980~90年代のバブル時代前後は、日本の好景気、国際的地位の向上と共に、ピーター・ブルックのような高名な演出家とロマーヌ・ボーランジェをはじめとする豪華キャストがホテル西洋銀座に長期滞在して、銀座セゾン劇場で来日公演を打ったりした贅沢な時代もあった(当時、友人が銀座の「つばめグリル」でブルックとボーランジェが昼ご飯を食べているのを目撃したりしている)。現代でもミュージカルの分野ではブロードウェイの引っ越し公演がおこなわれたり、オペラやダンスの分野ではパリやヴッパータールからの来日もないことはない。しかし、ことストレート・プレイ(ミュージカルではない普通の演劇)における海外アーティストの来日公演となると、日本の国際的地位の低下とともに激減し、いや激減というよりほぼ皆無に等しくなった。首都・東京でさえも1年に何件もない海外演劇の来日公演を、私自身なるべく見逃さないように努めているが、しょせん雀の涙である。

 TOHOシネマズのチェーンが今年シリーズで開催中の《ナショナル・シアター・ライヴ2014》は、イギリス演劇の最高峰ロイヤル・ナショナル・シアター(ロンドン サウス・バンク)の舞台上演を、ハイビジョンの高画質で英国外の観客に見せようという企画である。そして現在上映されているのは、エリザベス女王と歴代12人の首相たちの「謁見(The audience)」を風刺的に描いた喜劇『ザ・オーディエンス』である。戯曲を書いたのはピーター・モーガンで、この人は映画界でもスティーヴン・フリアーズの『クィーン』(2007)で同種の題材を手がけたほか、ロン・ハワードの『フロスト×ニクソン』『ラッシュ プライドと友情』、クリント・イーストウッド『ヒア アフター』のシナリオも担当している。演出は『リトル・ダンサー』『めぐりあう時間たち』の監督スティーヴン・ダルトリー。主役のエリザベス2世を演じるのは、『クィーン』でも同役を演じたヘレン・ミレン。女王と歴代12人の首相たちの謁見で交わされる会話は、まさに良質そのものと言っていい喜劇に仕上がっている。ロイヤル・ナショナル・シアターの観客のヴィヴィッドなリアクションともども、伝統あるイギリス演劇の魅力をこの目で知る機会となる。
 海外演劇の日本語字幕付きシネコン上映の波は、もっと広がってもいいのではないか。ロイヤル・ナショナル・シアターのような最高峰のもの以外にも、私たちが旅行しなければ見ることのできない素晴らしい演劇は、もっとマイナーなものもふくめ、世界中にごろごろしているのだから。


《ナショナル・シアター・ライヴ2014》シリーズはTOHOシネマズ日本橋ほかで巡回開催
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昨夜に『ヒネミの商人』を見ながら抱いた、詮なき夢想について

2014-03-27 11:51:22 | 演劇
 映画監督の小津安二郎が亡くなったのは1963年、還暦となる60歳の誕生日だったことは、よく知られている。1903年12月12日に生まれ、きっかり60年後の1963年12月12日に死ぬ。3とか6とか12とかそういう3の倍数がちらちらする数字だけで生が成立するというのは、どういう勘定なのだろう。小津の生没の不気味な規則性は、映画を愛する者が口に出して言わぬ大いなる謎であるわけだが、去年は生誕110年、没後50年の節目だったわけだ。いくつかの雑誌が特集号や増刊号を出している。

 それからさらに新しい1年である2014年となり、座・高円寺1では、遊園地再生事業団の『ヒネミの商人』が21年ぶりに再演されている(作・演出 宮沢章夫)。再演といっても、私は主宰の宮沢章夫氏の病気復帰後の第1作『ジャパニーズ・スリーピング/世界でいちばん眠い場所』(座・高円寺1)からようやく見始めた新参の観客に過ぎない。その後はすべて見てきたけれど、今回の『ヒネミの商人』は、近作で顕著だったパントマイム性、フィジカルな運動性が稀薄で、ドラマ性が強い。セリフの断片化、ループとズレが私たち観客を迷子にする点については、近作同様に鋭利に追究されている。

 小津が60歳で死んだのは1963年。この『ヒネミの商人』が初演されたのが1993年だから、もし小津が生きていれば90歳である。現代医学からすれば、90歳まで生きるというのはありふれたことで、現に市川崑や新藤兼人はそれ以上生きて映画を撮った。ポルトガルのマノエル・デ・オリヴェイラは105歳でいまだ現役である(新作『家族の灯り』が岩波ホールで上映中)。
 とすれば、60歳で若死にせずに、90歳の小津が映画を撮っていて、なんの不思議もない。私がもう大人になっていた1993年にもし小津の新作があったとしたら、どうだろう? 撮影所システムが崩壊し、映画監督のことごとくがインディペンデントの荒野に放り出された。ひょっとすると小津も、ATGで低予算のアートシネマや角川春樹事務所でアイドル映画を撮ったり、フランス資本の助けを借りてジャック・タチ風の子どもコメディなんかを撮ったりしていたかもしれない。そしていろいろな経緯があってなおも事態が推移し、誰かがたくらんで小津のために費用を捻出し、不条理演劇を作らせていたとしたら? ご承知のごとく、小津のドラマ性は不条理演劇の閾までほんの半歩の距離にある。常連俳優の中村伸郎がウジェーヌ・イヨネスコのロングラン上演をおこなったように。

 私が今夜、座・高円寺1で『ヒネミの商人』を見ながら夢想したのは、もし小津安二郎が1990年代まで生き延びてしまったら、どんな映画を撮っていたのだろうという、まったく無為な、見果てぬ仮定だ。『ヒネミの商人』という、恐ろしい不発の時限爆弾が煽る不安がすぐそこにあるのに棚上げされ、話を体よく逸らされる、そういうギスギスした不快さが横滑りしていく。そういう方向感覚を狂わされた感触が、鑑賞後何時間もたっているのに私の身体を貫き、上記のような夢想に逃げこむほかは身の置き場がないのである。そして、片岡礼子という遊園地再生事業団にとっての異物が混入したとき、小津が大映に赴いて撮った『浮草』(1959)における京マチ子の過剰な肉感的存在を思い出させた。1990年代の小津映画では、京マチ子のような異物的肉感性が増大していたのではないか?
 勝手なことを書いているけれど、きのう芝居を見ながら受けた感動を言葉にしようとすると、なぜかこうなってしまう。