荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『タニノとドワーフ達によるカントールに捧げるオマージュ』(作・演出 タニノクロウ)

2015-12-23 23:32:16 | 演劇
 人間は日々、無駄に等しいことに時間を浪費して過ごしている。筆者たる私などその典型であって、馬鹿なことに喜んだり、あせったりしている。そして、それを無数の死者が苦笑まじりに、多少の慈愛と共に眺めている。質量保存の法則を宇宙的規模に考えるなら、生者たちの全質量は死者のそれのゼロコンマ数パーセントに過ぎないだろう。
 西池袋にある東京芸術劇場。つい先日、青山真治が演出したジャン・ラシーヌ作『フェードル』を見た場所である。『フェードル』が上演された同劇場地下のシアターウエストのはす向かいに、アトリエイーストがある。切符を買うと、「場内は非常に暗いですので」と言われて係員女性から半球型プラスティック製の小さな電球を手渡され、アトリエに入る。すでにたくさんの豆電球が薄ぼんやりと暗闇に浮かび上がっている。上演時間を少し過ぎると、暗幕の向こうから5人のドワーフ(小人)が細長い三角形の三輪車に乗って、私たちが立ち尽くす暗闇に入場してくる。
 「しー!」「静かにしろ」「誰かに見られてる」。マメ山田をはじめとするドワーフたちが警戒を強めながら、ゆっくりと前進する。かなりおびえている。そこに立ち尽くしていた私たち観客は、豆電球片手に、彼らに道を空けるのだが、彼らは私たち観客を認識できないようである。いま、私たち観客もまた、亡霊という役を演じているのだ。彼らはおっかなびっくり、場内にある段ボール箱や幟、ロボット、壊れたテレビ、ゲームコーナーの20円の乗物などと戯れ続ける。演者たちはひとしきり戯れ、楽しんだふりをしている。私たち人間がこの世でやっていることである。観客は暗闇の中で、手の平に薄ぼんやりとした光を握りしめつつ死者の視線となって、ドワーフたちの戯れを眺める。
 やがて、彼らはそれらの戯れものを引きずって進み出す。アトリエの扉が開かれ、ドワーフたちは乗り物に乗ったまま、場外へと旅立つ。われら人間の短き寿命が名指しされているのだろうか。彼らは私たち観客を手招きする。100人ほどの観客が演者の先導によって、ぞろぞろとエスカレータに乗って、地上へ。私たちはおのれの死をあらかじめ先導する。カントールの言う死の演劇とは、私たち人間の生であり、死である。その後ドワーフたちは逃げ出して、夜の池袋に消えて行った。
 わずか1時間あまりの上演だったが、北青山のテアトル・ド・アパルトマン「はこぶね」を喪失したタニノクロウが、ポーランドの前衛劇作家・演出家・造形作家タデウシュ・カントールへのオマージュを媒介に、庭劇団ペニノの新たな展開を見せた。


同上演は12/24(木)まで
http://www.geigeki.jp/

ラシーヌ作『フェードル』(演出 青山真治)

2015-12-11 01:26:43 | 演劇
 オーソン・ウェルズによる「ヴードゥー・マクベス」ならぬ、青山真治による「マスムラ・フェードル」の様相を呈している。
 緊急入院という今秋の予期せぬトラブルから間もない時期に上演されている本作が、はたして青山真治の演出家としての本領が真に発揮され得た作品であるかどうかは分からない。しかし、俳優たちのテクスト解釈には、通常のラシーヌ悲劇の上演とは違い、喜劇的な要素が濃厚になっている。ジャン・ラシーヌの戯曲と違ってハッピーエンドでもある。
 増村保造の映画を見ていて、坂道を転げ落ちていく男女の運命論的悲劇を客観的に眺めているうちに、思わず失笑を禁じ得なくなった経験はおありではないだろうか? 今回の青山ラシーヌがあちらこちらに仕掛けてまわるのも、悲劇を眺める際に副作用のように現れてくる失笑の捕獲装置の作動である。
 夫の息子イポリットに恋をする王妃フェードル(とよた真帆)は、何か事があるとすぐに自己憐憫と自殺願望をけたたましく主張し始める。これを、乳母で相談役のエノーヌ(馬渕英俚可)が聞いて失笑しながら諫める。笑いつつ批評的答弁を繰り出していくのである。これは王子イポリット(中島歩)の侍従テラメーヌ(高橋洋)によるリアクションも同様である。王妃フェードル-乳母エノーヌという女2人組と、イポリット王子-侍従テラメーヌという男2人組が鏡像的な構図をつくり(とよた真帆によるフェードルは、増村映画における不倫愛に身をやつす可憐な主婦・若尾文子となり、中島歩によるイポリットは川口浩となる)、共にメロドラマとその覚醒的批評のリアクションを映し出している。そしてその元素は笑いなのである。
 イポリットが真に愛するのはアテネ王の娘アリシーだが、このアリシーを演じるのがイケメン若手俳優の松田凌だったり、王(堀部圭亮)の衣裳が可憐なプリーツスカート、王冠と髭がまるでニッカウヰスキーのマスコットキャラクターのようだったり、ひどく滑稽にローカライズされている。オーソン・ウェルズは、ニューディール政策下のNYハーレム地区でオール黒人キャストを起用し、シェイクスピア悲劇をカリブ海のハイチに移して「ヴードゥー・マクベス」を演出し、いっぽう青山真治はラシーヌ悲劇をオール黄色人種によって、荒唐無稽にローカライズする。この時、柱時計やサンドストームの微細なノイズを伴ってラシーヌに起こったことは、悲劇の不条理なる喜劇化であり、1時間40分という、まるでスタジオシステム内で生産される映画のような、悲劇的人物たちの喧噪模様だ。「おもしろうてやがて悲しき鵜舟哉」(松尾芭蕉)


『フェードル』は東京芸術劇場シアターウエスト(東京・西池袋)にて12/13(日)まで
http://www.majorleague.co.jp/

地点×空間現代『ミステリヤ・ブッフ』 @フェスティバル/トーキョー

2015-11-28 06:08:39 | 演劇
 にしすがも創造舎(東京・豊島区)にしつらえられた円形舞台。そしてこれをとりまく360°の観客席。もうなくなってしまった青山円形劇場を思い出す。この円形の三等分したところに空間現代メンバー3人(ギター、ベース、ドラムス)がポジショニングをとる。
 ロシア革命期の詩人ウラジーミル・マヤコフスキーの戯曲『ミステリヤ・ブッフ』(1918年作)を、地点×空間現代がフェスティバル/トーキョーで上演中である。作品が書かれた前年の1917年にロシア革命が起きている。そもそもマヤコフスキーが上演されること自体が珍しい。そして珍しついでに、三浦基率いる地点はやりたい放題である。居心地の悪い分節で切断された言葉が散りぢりとなり、蒸し返され、言ったそばから忘却され無化される。聖書の一節が現れては沈潜する。空間現代の完成度高い音の塊が芝居全体をコンダクトし、ナンセンス・コメディとして異化する。マヤコフスキーのブレヒト化とも言うべき様相を呈する。
 演者たちの肉体の躍動についても触れなければならない。彼らの肉体はスタミナの続く限りに消尽される。走りまわり、上下動をくり返し、空中に釣り下げられる。これらの無償の運動は、演者たちの肉体から人間性を奪い、フライパンの上でぱちぱちとはねる油のようなものへとメタモルフォーズさせる。彼らの吐く台詞は分節化され、断片化され、抽象化する。またその肉体もボロ布のように扱われるうちに純化され、抽象化される。劇の終幕近く、彼らが円形舞台の周りをグルグルと高速で走りまわるとき、原子における電子の周回を模写しはじめる。演劇において彼らは、原子力の臨界事故を体現しようとしたように、私には思えた。


フェスティバル/トーキョーが、東京都豊島区と埼玉県で開催中
http://www.festival-tokyo.jp

『オセロ』 ナショナル・シアター・ライヴ2015

2015-10-24 02:34:49 | 演劇
 イギリスの舞台演出家サー・ニコラス・ハイトナーは、2010年9月の『ハムレット』に続いて、2013年4月に同じくシェイクスピアの『オセロ』を上演し、2003年から10年間つとめたロイヤル・ナショナル・シアター(英ロンドン・サウスバンク)のアーティスティック・ディレクターを退任する発表をしている。この重要な時期に演出された『オセロ』は、ハイトナーにとって集大成と言える上演となった。TOHOシネマズ日本橋など全国各地で断続的に開催される、イギリス演劇の上演収録を上映するイベント〈ナショナル・シアター・ライブ2015〉において再公開された。
 オセロは元来、シェイクスピアと同時代である16世紀ヴェネツィア共和国軍の将軍であり、北アフリカ出身のムーア人である。オセロ率いる軍は、オスマン・トルコ帝国によるキプロス島侵略を迎撃するために出動する。しかし本公演におけるオセロは、イスラム圏の某国に駐留する現代イギリス軍のアレゴリーとなっている。駐留軍が灼熱の中東で舐める辛酸を、オセロ、デズデモーナ、イアーゴーらの悲劇によって置換する。それは、駐留という行為そのものの無益さを炙り出させる。
 興味深いのは、演出のニコラス・ハイトナーがユダヤ系であり、なおかつ同性愛者であるにかかわらず、人種差別への言及は、オセロの黒い肌に対する侮蔑と自嘲をあらわすシェイクスピアのテクストに留まっていること、そして、将軍オセロに妻のデズデモーナが不倫していると讒言するイアーゴーという登場人物が、オセロに対してホモセクシャル的な愛憎を潜在意識の中に持っているという学術上の説をほとんど無視していることである。
 つまりハイトナーはおのれのポジションを、作品解釈から意図的に除外しているのである。軍隊内における昇進差の嫉妬、男女間における肉体関係の嫉妬といったじつにナイーヴな現象によって、作品を再構築しようとしている。風格と質実を旨とする軍人オセロが、妻への愛のために骨抜きとなり、嫉妬に狂って破滅する。オセロはデズデモーナの忠実さを信じることができず、自分勝手な妄想のなかで彼女をファム・ファタールに仕立て上げてしまう。オールド・スタイルのCrazy Little Thing Called Loveへの還元。それはあたかもシェイクスピアよりももっと古い、『覇王別姫』や『楊貴妃』といった古代中国の傾城美人の物語へと、悲劇というジャンルの源流へと、遡行するかのごとき試みにも思える。


〈ナショナル・シアター・ライブ2015〉@TOHOシネマズ日本橋など
http://www.ntlive.jp

『欲望という名の電車』 ナショナル・シアター・ライヴ2015 @TOHOシネマズ日本橋

2015-03-14 08:36:00 | 演劇
 昨年に引き続き、イギリス演劇の上演舞台を撮影した《ナショナル・シアター・ライヴ2015》が、日本橋、梅田、京都・二条、川崎などいくつかのTOHOシネマズで断続的に上映されている。大阪の会場がなんばから梅田に替わり、次回からは新たにオープンする新宿が加わるらしい。
 今回の上映作品は、テネシー・ウィリアムズ作、ベネディクト・アンドリュース演出による『欲望という名の電車』。いつもと2点異なる点がある。ひとつは上演会場がロイヤル・ナショナル・シアターではなく、ロンドン・サウスバンクの独立系劇場ヤング・ヴィックであること。もうひとつはイギリス演劇ではなく、アメリカの戯曲であること。ロンドンで上演されたアメリカ演劇をわざわざ見るというのも、一風変わった体験でおもしろい。
 ヒロインのブランチを演じたのはドラマ『Xファイル』のジリアン・アンダーソンだが、両親の出自によるイギリス訛りが少女時代に地元の米中西部でいじめの原因となったそうで、米中西部方言とイギリス英語を使い分けるようになったとのことだ。今回はニューオーリンズが舞台となる『欲望という名の電車』だから、南部訛りを駆使することになった。3月9日のニュースによれば、彼女は本作によって、イギリス演劇界最高峰の賞、ローレンス・オリヴィエ賞の主演女優賞にノミネートされている。
 今回の上演でもっともおもしろいのはセットだ。ちょうど東京の青山円形劇場に2階席も設けて少し大型にしたような円形の客席があり、客席にとり囲まれるように真ん中にステージがある。プロセニアムで恭しく上演されるのと違い、役者は360度から見つめられ、逃げ場が失われている。柱と階段と半透明の玄関があるのみで、壁はいっさいなく、完全なるシースルーセットである。さらに、ステージ全体が旋盤上でゆっくりと回転している。これは、先年若くして亡くなった深津篤史が、新国立劇場(東京・初台)でハロルド・ピンターの『温室』を演出した際にも試みられたやり方である。視点はこれによって不断に更新されていく。
 途中、インターミッションで上映される企画VTRで、ヤング・ヴィック劇場の紹介がされていた。劇場側は上演作品が決まると、まずその作品の演出家に常識を覆すようなセットデザイン案を要求する。劇場構造からいって、実験は必定なのだ。そうすることによってレパートリーに亀裂を入れ、新たな生命を吹き込む。これは日本で演劇が上演される際も同様だろうが、古典戯曲が上演される際も、それは常に新作として上演され、新作として鑑賞されるべきである。更新されていく新たな視点、演出がなければ、演劇は死ぬだろう。そのことを、今回の『欲望という名の電車』を見ながら改めて思った。


TOHOシネマズ日本橋(東京・三越前)ほかで上映終了 次回『二十日鼠と人間』は5/15より
http://www.ntlive.jp