荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『SHERLOCK 忌まわしき花嫁』 ダグラス・マッキノン

2016-02-24 01:10:43 | 映画
 キムタク主演のドラマ『HERO』は一度として見たことがないのにもかかわらず、わが盲従的なる映画至上主義によって、昨年スピンオフの映画版を見に行ったのだが、あまりのつまらなさに呆れ、その旨をきのう仕事仲間に話したら「ドラマ版は面白かったんですよ」と言われて「そんなものかな」と、しばし黙考しつつ、性懲りもなくその足で劇場に向かい、NHK海外ドラマ『SHERLOCK』(これも一度として視聴したことがない)のスピンオフ『忌まわしき花嫁』を見に行く。
 英国BBC製作の本作は、本国では正月用の特番だったそうだが、日本では劇場公開作品に格上げとなった。『HERO』に限らず、あらゆるテレビドラマのスピンオフが予想外の大ヒットを飛ばしてしまうこの日本列島でその尻馬に乗ろうという配給会社側の魂胆は見え見えである。
 ところが意外や意外、尺制限のある正月特番ゆえにきっちり90分を守った本作には、プログラムピクチャーが宿す小気味よさがあった。ふつう映画ではもはや誰もやらないディゾルヴでの場面転換やら、いかにもオシャレさを演出するタイポグラフィ(これは私もテレビ仕事では血道をあげてしまうのだが)やら、テンポのいいストーリーテリングやら、いかにもイギリス的なゴシックホラー演出やらである。そこには、現代のアメリカ映画が揃いも揃ってVFXをダラダラと垂れ流しているのとは正反対の心地よさがある。傑作だ必見だと吹聴して回るほどではないけれど、こういうのは嫌いじゃない。
 BBCドラマ『SHERLOCK』はシャーロック・ホームズとワトソン医師の活躍を現代のロンドンに置き換え、MacBookやらiPhoneやらを駆使しつつ事件を解決するシリーズなのだそうだが、『忌まわしき花嫁』では同じキャスト(ベネディクト・カンバーバッチ、マーティン・フリーマンなど)のまま、原作どおりヴィクトリア朝時代に舞台を戻している。コナン・ドイルの原作にとってはまず21世紀という未来のコスチュームプレイがドラマで試行され、この特別編ではその現代版ホームズ&ワトソンが再びヴィクトリア朝時代の衣裳に着替える。つまり、そこでは二重のコスチューム・プレイが可逆的な転倒をへており、リュミエール兄弟が映画を発明した1895年という時空と、いまここの2015年という時空が120年の隔たりを倒錯的に越境しながら、しかしそれでも、「忌まわしき」海溝がガバリと大口を開けているのである。ちなみに、この1895年という年号は映画誕生の年号であると同時に、ヴィルヘルム・レントゲンがX線を発見した年であり、つまり映画と原子力は同じ年齢なのである。
 本作の前後に、脚本家によるプロダクションノート(5分)と主要キャスト・スタッフのインタビュー番組(15分)が併映される。最近TOHOシネマズの限定劇場で断続的に上映されている、ロンドンの演劇をスクリーンで見せるシリーズ企画「National Theatre Live」でも、インターミッションで似たようなオマケ映像が付いてくる。イギリスらしい心遣いで、こういうのは作品理解を助けてくれていい。


TOHOシネマズシャンテ(東京・日比谷)ほか全国で公開中
http://sherlock-sp.jp

『緑はよみがえる』 エルマンノ・オルミ

2016-02-15 23:15:45 | 映画
 ロンバルディア州出身のエルマンノ・オルミ監督は徹頭徹尾、北イタリアのアンチ地中海的な風土と共にある。同州中部の都市ベルガモで生まれ、やがて同州最大都市ミラノで活動することになる彼は、まず北イタリアの電力会社エディソンに就職し、水力発電などについてのドキュメンタリーを40本も撮っている。フランスのヌーヴェルヴァーグと同世代の彼は、やや遅れて1978年の『木靴の樹』で確固たる地位を築いた。
 しかし、私が作って1994年に中野武蔵野ホールで公開してもらった16ミリ短編に出演してくれた某イタリア人女性いわく、「エルマンノ・オルミは真のイタリアを写していない」「『木靴の樹』はイタリア映画ではない」とのことだった。われわれ外国人には見当もつかぬリアリティ論議だが、確実に言えることは、真のイタリアが描かれていようといまいと、『木靴の樹』が規格外の傑作であること、そして多少の好不調はあったにせよ、オルミが近作の『ポー川のひかり』(2006)、『楽園からの旅人』(2011)に至るまで、すばらしい映画をいまなお作り続けている、ということである。
 最新作『緑はよみがえる』は、第一次世界大戦の激戦地として知られるヴェネト州の山深いアジアーゴ高原の塹壕をもっぱら舞台とする。大戦末期の雪深いこの地で、兵士たちの体力、気力は限界に来ている。南イタリアのナポリ出身の陽気な兵士がカンツォーネを朗々と歌いあげ、敵のオーストリア帝国軍の兵士からも喝采の声が飛ぶシーンで、いきなり惹きつける。美に対する感受性が、敵と味方を結びつける。ジャン・ルノワール『大いなる幻影』(1937)のごとき人間性の謳歌であったが、それは長くは続かない。
 あとは、食糧配給、内地からの手紙、本部による理不尽な作戦命令、敵からの一斉砲火、塹壕爆発と、精神的なショックが延々と続く。塹壕の受難についての映画、敗走についての映画。つまり戦争映画によくある、占領地の中心に自国の国旗を打ち立てるとか、そんな痛快なものはいっさい写っていない。逃げ道のない恐怖と悲しみが、登場人物たちをひたすら痛めつける。そして、「戦争映画は活劇だ」みたいなことを得意げに吹聴する輩のクリシェを、本作は静かに撃つだろう。


4/23(土)より岩波ホール(東京・神田神保町)で公開予定(旧作『木靴の樹』も3/26よりリバイバル公開予定)
http://www.moviola.jp/midori/(緑はよみがえる)
http://www.zaziefilms.com/kigutsu/(木靴の樹)

『ブラック・スキャンダル』 スコット・クーパー

2016-02-13 01:37:30 | 映画
 昨年『ラン・オールナイト』で高い筆力を発揮したシナリオライター、ブラッド・イングルスビーの脚本デビュー作『ファーナス 訣別の朝』(2013)は、彼の故郷ペンシルヴァニアの不況に苦しむ鉄鋼の町を舞台とする犯罪映画の佳作だったが、その『ファーナス』で名を上げたのは脚本のイングルスビーばかりでなく、『クレイジー・ハート』(2009)で監督デビューした脇役俳優出身のスコット・クーパーもまた、次代をになう人材として覚えておいていいのかもしれない。
 スコット・クーパーは実録マフィアものとなった今回の監督最新作『ブラック・スキャンダル』で持ち味を発揮しようと試みる。一見して分かるのは、クーパーが自作に安直な映画的美学を持ちこまぬこと、そして非情な画面作りに徹することである。彼はいわゆる日本で言うところの任侠映画を作ろうとは考えていない。起こった事柄を無愛想に並べ立て、彼らの生きざまを冷淡に写し出す。昨年のマフィア映画の佳作2本『ラン・オールナイト』『ジョン・ウィック』が醸す任侠映画的な美学とは、本作は無縁である。あえて言うなら、『プリンス・オブ・シティ』(1981)、『評決』(1982)、『デストラップ 死の罠』(1982)と連作していた時代のシドニー・ルメットに近いように思える。
 イタリア系マフィア組織と抗争を演じるアイルランド系ギャングの親分(ジョニー・デップ)、そして彼の幼なじみのFBI捜査官(ジョエル・エドガートン)、親分の弟の州議会議員(ベネディクト・カンバーバッチ)、この3人の危うい親愛と忠誠心、結託のしくみが最後の最後まで温存される。いろいろな惨劇、悲劇は起こるが、その忠誠心だけは傷つくことを拒絶する。善悪の判定もなく、状況による思い直しもなく、彼らは悲愴な覚悟でおのれの義侠心と心中する。ところが、そこには美はない。見返りとしての多少の富と、量刑の甘受があるのみである。
 大西洋に面するボストン市内南部に巣くうアイルランド系住民それぞれの生の一本道を、突き放した態度で映画にした。『オール・ユー・ニード・イズ・キル』『007スペクター』の共同脚本も手がけたジェズ・バターワースがこの冷酷なシナリオをマーク・マルークと共同で書き上げ、監督の前作『ファーナス 訣別の朝』だけでなく、『THE GREY 凍える太陽』(2011)や、ジェニファー・ローレンスにアカデミー主演女優賞をもたらした『世界にひとつのプレイブック』(2012)の撮影も担当し、評価を高めるマサノブ・タカヤナギ(高柳雅暢)が、今回も1970年代、80年代、そして90年代それぞれのボストンの(大学街の一般的イメージとはおよそ無縁な)禍々しく空々しい表情をハードボイルドに切り取って見せている。


TOHOシネマズ日本橋(東京・三越前)ほか全国劇場で公開中
https://warnerbros.co.jp/c/movies/blackmass/

『ジョギング渡り鳥』 鈴木卓爾

2016-02-10 23:24:22 | 映画
 変幻自在に作風を広げていく鈴木卓爾という映画作家は、現代日本映画にとって驚くべきダークホースなのかもしれない。前作『楽隊のうさぎ』(2013)を見た際には、こんなとりとめもない群像劇もできる作り手なのかと本当に吃驚させられたが、昨年公開された安川有果監督『Dressing UP』では、事なかれ主義の自閉するヒロインの父親役を演じてもいる。鈴木卓爾演じる父親がいたからこそ、少女の奇怪なるメタモルフォーズが劇的なものになったのだ。
 『楽隊のうさぎ』における多視点性、そして『Dressing UP』におけるメタモルフォーズへの不可逆性が、自身の新作『ジョギング渡り鳥』の157分という長い上映時間のなかで何食わぬ顔で融合し、肥大化するにまかせる事態となっている。和製ジャック・リヴェットなどと陳腐な形容を、画面を眺めながらつい考えてしまったのは面目ないが、『ゴダール・ソシアリスム』のごとく多方向に画面と音響が乱反射し、不断に見る者を刺激しつづけるだろう。
 「モコモコ星人」なる未知の言語をあやつる異星人の集団を仮構し、彼らにカメラとマイクを持たせて、地球人の孤独にして滑稽なる生態を記録させる。「モコモコ星人」が持つ数台のハンディ・デジ、そして映画全体を客観的に撮影する本隊(鈴木卓爾組)のカメラ。映画の主体はこれらの複数の記録媒体が混在し、いったいこれが誰によって作られたのか分からなくなっていく。時に、本隊のカメラマンやカメラマンの横で現場を睨みつける鈴木卓爾監督本人さえ写りこむ場合さえある。映画全体が主観の統一性を喪失し、分裂症的にふるまい、私たち観客をあらぬ方向へと連れ去っていく。
 そして、これは逆説的ではなく、映画そのものの限界として、映ったものは映っているというトートロジーに達するが、それでも、ロケ地である埼玉県深谷市の、ありふれた住宅街、鄙びた土手、雑木林、特産であるネギ畑、JRの駅舎などの風景、そして遙か遠景に見える秩父山地の黒い影の連なりが、どうしようもない美しさをまとってしまうのだ。地球人の孤独にして滑稽なる生態、そしてそれを記録する「モコモコ星人」のグループもその中にどうしようもなく折り込まれている。そんなシニシズムと唯美主義の中間地点で、157分間、映画は安定することなく揺れつづけていた。その揺れは、危機にある現代日本を間接的/象徴的に写し出す。スクールあるいはセミナーの履修の延長線上でワーク・イン・プログレスとして作られた点では濱口竜介監督『ハッピーアワー』と共通するが、その制作理念は180°異なる。まさに現代を象徴する、必見の作品が誕生した。


3/19(土)より新宿K’s cinemaにて公開予定
http://joggingwataridori.jimdo.com

『母よ、』 ナンニ・モレッティ

2016-02-06 02:21:25 | 映画
 本作のイタリア語原題は『Mia Madre』つまり「私の母」であるが、今回の『母よ、』という邦題は絶妙だと思う。「母よ、」と句読点を宙ぶらりんに放置することで、これに続く次の単語を子どものように催促してやまない。「お母さん、愛してる」なのか「お母さん、逝かないで」なのか「お母さん、助けて」なのか。いろいろなバリエーションを代入しても、そのすべてを甘受しつつ保留する、そんなタイトルである。
 「母よ、」と呼びかける主体は3人いる。老衰し、死の床に就く母親(ジュリア・ラッツァリーニ)を看病する女性主人公(マルゲリータ・ブイ)とその兄(ナンニ・モレッティ監督自身が演じる)、そしてヒロインの娘の中学生である。母の看病(と見送り)、社会派の映画作家である主人公が撮りすすめる新作のロケ撮影、さらには反抗期の娘に対する心配とラテン語指導といったトリビアルな状況が綿々と続いていく。
 そこで起こるさまざまな事柄に、特別なことはない。主人公が映画を撮るということも特別ではないし、ハリウッドからイタリア系アメリカ人スター(ジョン・タトゥーロ)を招くことも、兄が母の看病のために仕事を辞めてしまうことも、「ラテン語なんて勉強してなんの役に立つの?」と反抗する孫に衰弱した祖母が、死語である言語を学ぶことの大切さをていねいに説く(祖母はかつて高校のラテン語教師だった)ことも、すべて些末な事柄である。
 しかし、その特別でも何でもない些末な事柄が、この映画の中では、ローマという都市への愛と共に、どうしようもなくかけがえのないものと映る。一瞬一瞬が感動的な時間を作り出している。ナンニ・モレッティの演出と撮影はシンプルそのもので、凝ったことなんて何もしていないのに、魔法のように悲しく、美しく、忘れがたいものとなっており、感受性の鋭い観客は、全シーンで泣いてしまうかもしれない。ラテン語の生徒たちが恩師について述べる「先生は私たちにとっても母でした」という言葉があまりにも感動的で、耐えがたいほどである。仏「カイエ・デュ・シネマ」誌の2015年ベストワンに輝いたため、試写ではいささか力んで見始めたが、映画はそんな私たち受け手を鷹揚に武装解除し、裸にむいてしまう。


3/12(土)よりBunkamuraル・シネマ、新宿シネマカリテほかで公開予定
http://www.hahayo-movie.com