さじかげんだと思うわけッ!

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ツァナーク・アミノールのテクスト論

2009-04-01 22:05:45 | 
先日、ロラン・バルトという批評家の話をしました。
バルトの仕事は多岐に渡るわけですが、わたしが文学系の学科だったこともあり、その中でも特にテクスト論に関わりがあったと。
そんな話でした。
わたしはウンコタレで不真面目な学生でしたので、テクスト論については理解がいまひとつだったのですが、この間テクスト論についてゼミ一の理解を示したブラザーKと顔を合わせる機会がありましたので、テクスト論についてその意味を聞いてきました。

例えば、今ここに
「井伏氏は、濃い霧の底、岩に腰をおろし、ゆつくり煙草を吸ひながら、放屁なされた。」
と、太宰治(1909~1948)の『富嶽百景』(1925)の一文があります。
これを読んだわたしとあなたが思い浮かべた情景というものは、これはまったく別のものになる可能性があるわけです。
井伏氏・岩・放屁などという要素は、あるいは被るものがあるかも知れませんが、100%おんなじものを思い浮かべることは、まず無理といえるでしょう。
この時、わたしが思い浮かべた情景がテクストAであり、あなたが思い浮かべた情景はテクストBであるわけです。
この一文を目にした瞬間、その一文は何の意味も持たない紙上ではただの「インクのしみ」に成りはて、ネットワークでは「ドットの集合体」になってしまうのです。
それぞれが描いたテクストは、これをリセットすることはできません。これを「還元不可能な複数性」といいます。
そして、わたしとあなたが共通のテクストを持とうとして、協議して新しいテクストを読み出したとします。これは、わたしとあなたのテクストCということになります。
当然、作者には作者のテクストDがあり、その作者のテクストDを正確に読み取ることが文学の意義であるとすれば、バルトのテクスト論によるとそれはまったくの不可能であるということになります。
まぁこれから学校教育の話になるのですが、わたしにはとんと関知しません。

テクスト論を教えてくだすった先生は、ツァナーク・アミノール(仮名)という方だったんですけどねー。
まぁこの要約だって、本当に合ってるかどうか。書いてるのがウンコタレなわたしですから、もし間違っていたら申し訳ありませんでした。ということで。