さじかげんだと思うわけッ!

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美濃探訪記(2)

2008-08-20 23:07:02 | 旅行記

昼飯を食べていい感じになったわたしたちは、今度こそ、一路岐阜県へと向かいます。
車中では、発売されたばかりのDS版『ドラゴンクエストV』の話題で持ちきりです。
Oは某会員制ネット日記を書いておるのですが、彼は非常に文章がうまいらしい。わたしは直接見たことがないんですけど、Kが絶賛するのですからかなりのものです。
そこで「結婚の話」を書いていて、それの話でした。
まぁその、金髪と青髪と黒髪で、どれを選んだかというのを、おもしろおかしく書いているわけです。軽い短編を読んでいるようでしたね。

まぁそんなこんなで、岐阜に着きました。小牧から30~40分ぐらいですか。だから、あっという間です。
実は、事前に決まっていたのは郡上八幡にいくことと宿、それから大垣のSに会うぐらいで、そのほかはほぼ白紙状態だったのです。
そこで、旅行中お世話になる旅館があった美濃市に近い長良川SAに立ち寄り、今後の計画を練ります。
ここらなら見るものはたくさんあります。
関市にもほど近い。関は古来から刃物の町ですから、国内有数の安全剃刀製造のフェザーが運営する「フェザーミュージアム」があったり、美濃は仏師・円空(1632~1695)ゆかりの地でもありますから、円空関係の施設を巡ってもいい。当然、長良川で鵜飼いを楽しんでみるのも一興。
高山はどうかなんて話もあったんですけど、さすがに150㎞先では及び腰になるのも無理はありません。
いろいろと議論をした挙げ句、では岐阜城へいってみようということになりました。
岐阜といえば、その名の由来にもなった岐阜城は第一の観光地です。
岐阜城のある岐阜公園は、1992年には「都市景観100選」、2006年には「日本の歴史公園100選」にも選ばれているほどの、名所でもあります。
場所も驚くほどは離れていません。頭中のヘタレ計算では、45分もかからない予想です。
どうせ明日、郡上八幡城を見るのだから、岐阜城と見比べてみようではないかと。そういうことになったのです。

というわけで一路、岐阜市へ。
東海北陸自動車道を美濃ICで降り、大垣のSの根拠地である武芸川町を通り抜け、傾いた変わった橋のあたりで右往左往しながら、どうにかこうにか1時間程度で稲葉山こと金華山にたどり着くことができました。
調べてわかったんですが、美濃ICから岐阜城まではほぼ一本道。別段、迷う必要もなかったのですが、ナビゲーターがヘタレなわたしだったために不要な有料道路などを通るなどしてしまったようです。

さて、岐阜城は、その前身を稲葉山城といいます。代々の美濃守護・斎藤家の居城であり、難攻不落の堅城としても有名でした。
金華山麓から見上げる岐阜城は、はるか山上にあり、そりゃ確かに難攻不落だわと納得せざるをえません。
岐阜城がそびえる金華山は、簡単に言えば一つの巨大な岩であり、そこに木々が生え、山のようになったのです。ですから、全体的に丸みを帯び、いうなれば日本昔話のようなおむすび型の山なのです。つまり、攻めにくく守りにくいわけです。
もし、わたしがその時代に生まれ、稲葉山城攻めに随行し、突撃せえと言われたら、さぞかし途方に暮れてしまうだろうと思います。
岐阜城のある金華山麓に広がる岐阜公園の駐車場は、さすがに盆中ということもあり、大変混雑しておりました。しかも、入り方が少し変わっており、周辺道路も狭いこともあり、えらい込みようです。
中京圏を中心にして、いろんな地方のナンバーが止まっております。
公園内はしっかり整備され、7月19日~8月31日まで夜景企画が行われており、その一環としてか電飾などもあり、賑やかそうです。
金華山は岩の固まりとはいえ山ですから、登山も可能です。しかし、恐ろしく険しいようで、観光レベルの覚悟で登れるようなものではないようです。
というわけで、そんな観光客のためにちゃんとロープウェーが用意されておるのです。
わたしたちも、当然登るなどとは考えておらず、ロープウェーに乗る気満々です。

まぁその前に、公園内を散策しようということで、まず最初に織田信長像を見ます。
織田信長(1534~1582)が稲葉山城を手に入れたのは、1567(永禄10)年のことです。美濃は交通の要衝であり、もし本気で上洛を望むのであれば、避けては通れぬ難所でもありました。遠交近攻策を取り、権謀術数を駆使して、ようやく美濃の地を手に入れたのでした。
たぶん、この頃からだと思うんですよね。信長が本気で天下を狙いはじめたのは。
「天下布武」という、まあ言うなれば「天下取ったる!」という決意表明みたいなもんだと思うんですが、その朱印を使い始めたのも美濃を攻めた直後。城の名を稲葉山城から縁起の良い岐阜城に改めたのちのことです。
以後、岐阜城は長らく信長の本拠地となります。ゆえに、この地には信長居館があったのではないかと推測され、岐阜公園では絶賛発掘中。
一般の方が見学できるようになっておりますので、興味ある人はのぞいてみても面白いかも知れません。
それから岐阜公園には、信長だけでなく自由民権運動の父である板垣退助(1837~1919)の立派な立像もあります。というのも、1882(明治15)年、岐阜を遊説していた板垣退助は、相原尚褧に襲われます。俗にいう「岐阜事件」ですね。そのときに叫んだとされる
「板垣死すとも自由は死せず」
は、反テロリズム・政治的信念を如実に表わす言葉として、現在でも使われますね。
実はその襲われた場所というのが、岐阜公園内の中教院という建物だったということで、この銅像が建てられたそうです。
へぇーという感じですねぇ。
このあと、川合玉堂(1873~1957)の発案による三重塔などを眺めつつ、いよいよロープウェーへと向かいます。

今日の一枚は、「道三・信長ゆかりの岐阜城」です。
全く持って、わたしは見たことがないくらいの堅牢な山城です。