入笠牧場その日その時

入笠牧場の花.星.動物

     ’20年「冬」(11)

2020年11月16日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


 朝焼けの「権兵衛山」。この山のことは四季を通じて取り上げ、その際は山名を権兵衛山で通しているが、正式な名前ではないということはすでに述べてある。伊那からも、ここからも、入笠山よりか権兵衛山の方が余程馴染みが深いが、にもかかわらずこの山ばかりか東に続く峰々、六兵衛、七兵衛、八兵衛にも山名はない。どれも仮称に過ぎない。山名などというものは必要なければ軽々に付けるようなものではなく、一部の人の間では呼ばれた名前が仮にあったとしても、これまで広く伝わることがなかったのだろう。
 入笠山は恐らく諏訪側の人たちが付けた名前で、明治のころまではこの山を伊那側の人たちの一部は「雨乞い岳」と呼んでいたという資料はあるが、それもどこまで一般の人たちの口に膾炙されていたかは不明でしかない。事実、芝平出身の北原のお師匠はそのことを知らなかった。ただ、「雷電様」と呼ばれている牧場の高台であるころまで雨乞いが行われていたこと、また江戸の時代を刻した縁の古い祠が存在することについては師から教えられたから、雨乞いの伝統については少なくも芝平の人たちには伝えられていただろう。
 最近入手した「三義村誌」の復刻版にも、雨乞い岳や雷電様、雨乞いに関する記述は何もなさそうだ(三義村とは、明治22年に山室、荊口、芝平が一緒になってできた新しい村の名であるが、今でもこの村名よりか古い時代の名前の方を多くの場合は耳にする)。「芝平誌」にも、このことに関しての記述を読んだ記憶はない。
 そればかりか、テイ沢についても、ヒルデエラ(大阿原)に関しても、その名の由来など詳しいことは伝わっていない。「夫婦岩」と言う名は三義村史の名勝古跡にはあるが、テイ沢のそれとは違う場所であった。
 にもかかわらず、あのテイ沢に残る多くの石塔や、「石堂越え」、「御所平」、「法華道」といった古くから残る名前は、それぞれが単なる沢や草原や、古道ではなかったのだと考えたくなるし、興味が湧く。恐らく古い物語が、眠ったままであるだろう。

 通行止めを無視する車輛のため、牧場の東ゲートは先週より施錠され、徒歩以外では小黒川林道を一般車が通行することはできなくなった。
 本日はこの辺で。
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