布屋忠次郎日記

布屋忠次郎こと坂井信生の日記

歌うことの強制

2005-06-04 09:54:43 | 日本
布忠が卒業した大学は仏教系だった。
一年生は座禅の単位が必須だった。確か年に5回の座禅の日のうち、3回以上参禅しないと、単位が取得できなかったと思う。
やってみると座禅というのは案外おもしろかったので、私にとってはこの緩やかな「座禅の強制」はよいものだったけれど。

世には「ミッション系」とよばれる学校がある。聞くところによると、生徒は礼拝に出席しなければならないのだそうだ。神を信じていなくても礼拝をささげさせられるのだろうか。
まだ信じていない者が強制されて賛美を歌う姿を、神は喜ぶだろうか。クリスチャン教員たちはうれしいのだろうか。

賛美は強制ではないというかもしれない。だったら「歌いたくない者は歌わなくていい」とアナウンスしているのだろうか。

君が代を強制されたと訴えるクリスチャンがいる一方で、神をたたえる気持ちがなくても賛美歌を歌うことを強制するクリスチャンがいる。
日の丸に頭をさげることを強制されたというクリスチャンがいる一方で、祈りに対して「アーメン」と肯定することを強制するクリスチャンがいる。

もしミッション系の生徒が「内心の自由のため、賛美歌を拒否する」と言い出したら、クリスチャンたちはどうするのだろう。
国旗国歌は「制度」とはいえるかもしれないが、現代日本において「宗教」ではない(宗教にならないよう監視する必要はある)。客観的に見るなら、明らかに宗教である賛美歌やアーメンを強制するほうが、内心の自由とかいうものにとって悪質なんじゃないだろうか。

私は心から神をたたえる思いで神に向かって賛美の声をあげたい。だからか、神を賛美するということを知らない人が賛美歌を歌っているのを見ると、違和感を感じる。たとえばTMRが聖夜を歌ったり、スターダスト・レビューがアメージング・グレースを歌うのをTVで見たとき。あるいはファッションのようにゴスペルを歌う人たちを見たとき。カラオケで「もろびとこぞりて」を歌う人を見たとき。

そこから信仰につながることもありえるから文句はいわないが、神を賛美する心のある人にだけ、賛美歌を歌ってほしい。同じように、国を愛する心のある人にだけ、国歌を歌ってほしい。
どんなかたちでもどんな歌でも、強制があってはならないと思う。まして「強制するな」といいながら自分たちは強制する、などということは理解に苦しむ。

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