布屋忠次郎日記

布屋忠次郎こと坂井信生の日記

「建国記念の日」を祝ったこと

2009-02-15 07:48:19 | 日本
2月11日、千葉駅から近い京葉銀行文化プラザホール(「ぱ・る・るホール」)で行われた「建国記念の日を祝う千葉県民の集い」に行ってみました。
たまたまネットでフライヤーを見つけて、地元で有志がこういうイベントを続けているというのを知り、しかも今年は今上陛下の在位20年もあわせて記念するとのこと。
第一部式典
第ニ部天皇陛下御即位ニ十年奉祝映画
第三部記念講演

人からはよく「右寄り」と言われる私ですが、ちゃんとした右翼に比べたら、自分が生まれた国を愛する気持ちがあるというだけですからいわば「気分だけ右翼」というところですが、そんな私にとってはこのプログラムは「建国記念の日に奉祝イベントがあるなら、行ってぜひお祝いしよう」という気にさせるものでした。
(「天皇誕生日に一般参賀に行ってる時点で右翼だ」と言われたことが何度かありますが、「天皇誕生日に一般参賀に行くのは右翼、行かないのは左翼」という二元論なんでしょうかね。)

ところが始まってみると、集いの冒頭、来賓挨拶で壇上に上がった人の多くが、日本の国柄を思うことをしない人々に対して物申すという調子のことを言うんですね。
まあ、言っていることはみな同意できることばかりだし、訴えたいのもわかるのだけど、聴衆は、というか少なくとも私は、祖国の建国をしのび、わたしたち国民の統合の象徴である天皇を奉祝したいと思って来ているので、決起集会のつもりじゃなかったのだけど。
前に書きましたが、天皇誕生日の一般参賀の時に、退出門ヘの道すがら、大声で「誰それはけしからん」と訴えていた老翁がいました。言ってることが正しいとしても、奉祝気分に水を差すなあと思ったものですが、あの時と同じような気分で挨拶を眺めていました。

まあ、それも始めだけ。                        ‐
式典の部では、国歌や、紀元節の歌を歌いました。特に紀元節の歌は、私は初めてだったのだけど、これ、いい歌ですね。

「日本の心を歌う」として、ピアノ伴奏によるバリトンとテノールのプログラムがあったのですが、その一曲目が「海ゆかば」。
この曲が戦時中に、特に玉砕を伝えるラジオ放送の冒頭で使われ「天皇のために死ぬことの美化」に資した、という評価は私も聞いています。ただ、社会も教育も「大事なのは自分」「(自分の)命以上に大事なものはない」と言う現代の空気の中で、キリスト者の端くれとして「自分が信念を置くもののためなら命も顧みない」という価値観を知ってはいる(自分ができるかはわかりませんが)者としては、こういう歌には心を打たれる、というか、心を撃たれました。

第二部では、DVD「平成のご巡幸第2巻『鎮魂と平和ヘの祈り』」が上映されました。人によっては、これをしも「美化」の一言で片付けるかもしれませんが、むしろこれは反戦意識にこそ資するものだと思います。「英霊の言の葉」を読んだときもそうでしたが、このDVDも「戦争と言い、特に原爆といい、二度と誰もこんな思いをしてはいけない」と感じさせるものでした。

第三部の記念公演は、あの新田均教授による「日本の建国の理想と現代的意養」と題した公演。多岐にわたる内容でしたが特に印象に残ったのは、当たり前すぎて感謝しようとも思わないことだけど「国がある」というのはありがたいことなのだということを、ハワイ王国の滅亡や、チベット人やウイグル人の悲哀という実例を引いて説明されたこと。
これは、ユダヤ人の歴史を思う私にはリアルにわかる話でした。ヤハウェとの契約を破ったためとはいえ国を失った彼らが、どれだけの苦しみを味わってきたか。ユダヤ教の超正統派には「神が為すはずだったイスラエル再建を人が為すべきではなかった」という考えから独立を祝わない人もいますが、そういう人でも「ホロコーストから守れられるようになった」という意義を再建国に見出していると聞きます。核を持ち空母の開発にも手をつける中国、日本人の漁船を拿捕し船長を殺した韓国、日本人を拉致し落命させた北朝鮮(死亡というのは、何一つ信用ならない北朝鮮が発表しただけのことですが)。。。戦後日本の環境はそのまま「平和を愛する諸国民」というのがどれほどフィクションかという話ですが、国があってさえこうだと思うと、(キリストの再臨によって平和が成るまでは)「国があること」を感謝し祝い奉らないではいられないなと思わされます。

こうした感慨と同時に、「単なる日本人」でも「単なるキリスト者」でもない「日本人キリスト者」であり続けることの難しさも考えさせられた日でもあったのですが、長くなったので今日はこの辺りで。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿