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nishimino

にしみの鉄道情報局付属ブログ

消防団の小説

2023-03-05 | 書評

 

ドラマ化された半沢直樹シリーズや下町ロケットシリーズ、ルーズベルトゲーム、陸王などで知られる池井戸潤の作品のハヤブサ消防団。作者の地元の岐阜県八百津町(作中ではにU県S郡八百万町)が舞台となっています。ただ、名古屋市はU県S郡のような書き方ではなく名古屋市とはっきり書かれています。

主人公はデビュー作でそれなりの賞を受賞したものの、それ以来ぱっとしないミステリー作家で、冒頭で東京から八百万へ移住しています。八百万は空き家になっている父親の生家があり、家族はいないものの孫ターンになります。八百万へ移住し、消防団員になり、その八百万で連続放火事件が発生して、その背後にあるものを調べる話になります。

この連続放火事件は、当初は失火と思われていたのが、背景には太陽光発電を行う会社に偽装した新興宗教が関わっていました。

 

消防団員の実態を書いたもので、山間部の地域だと本職の公務員による常備消防が貧弱で、消防団が事実上消防業務を行っているケースがあり、この八百万でもそれに近い形態で書かれています。


限界ニュータウン荒廃する超郊外の分譲地

2023-01-18 | 書評

大阪の北摂の山間部には、その筋ではよく知られた最寄り駅からバスで一時間という大規模なニュータウンがありますが、千葉県北東部の成田市やその周辺の自治体には、それがまともに思えるニュータウンが多数あります。この本の筆者の吉川 祐介氏はブログYou Tubeで、千葉県のニュータウンについて、実際に在住して情報発信しています。ブログについては、個人的に少し前から注目していました。

1960年代70年代の国土開発期に多数造成された千葉県北東部のニュータウンは、その多くが開発許可がいらないごく小規模な分譲住宅地で、中小の開発業者によって造成されています。それらは、原野商法とはことなり、一応造成が行われ、住宅が建てられる所まで開発されましたが、購入者の多くは投資目的で、実際に住宅が建てられることはありませんでした。それらの一部は、1980年代末から90年代初頭のバブル期に実際に住宅が建てられましたが、半分以上が空き地という所がが多いと筆者は述べています。資産価値が低い所(筆者のYou Tubeチャンネルのタイトルは更に極端で、資産価値ZERO -限界ニュータウン探訪記-)が多いのですが、安価なため空き家の流動性は高いようです。

 

この本では、それらを限界ニュータウンと呼び、そのニュータウンの実態や、土地の取引状況、限界ニュータウンの社会問題について、空き家問題について述べています。また限界ニュータウンの有効活用の実態についても紹介しています。ただしこの本でも述べられていますが、限界ニュータウンといっても、山間部の限界集落のように、買い物などの生活困難地域ということではなく、限界ニュータウンの周辺は、都市近郊農業地帯なので、車で容易に移動できる圏内にコンビニやドラックストアー、スーパーマーケットなどもあり、生活困難区域ではありません。

 

地元も、名古屋の都心からこの限界ニュータウンよりも近い距離なのですが、平野部で丘陵地帯が無く、市街化調整区域が多いので、このような乱開発は行わていません。

 

この本、昨年9月に出版され、版を重ねて、自分が先日名古屋の書店で購入した本は3版で、アマゾンでもカテゴリーの中では売上上位になっています。


ブルーバックス・日本史サイエンス弐

2022-09-21 | 書評

 

以前紹介した日本史サイエンスの第二弾になります。今回は邪馬台国と朝鮮出兵と日露戦争の日本海海戦を取り上げています。

 

邪馬台国がどこにあったのかは、悪魔の証明に近いですが、概ね近畿か北九州かに絞られていて、初め九州にあって後に大和に移り大和王権の基になった邪馬台国東遷説も有力な候補です。神話もある程度史実を反映している事は、糸魚川での翡翠の再発見など考古学的に証明されています。日本書紀古事記の神武東征に基づいて、邪馬台国は北九州にあったものが、大和盆地に移ったというのが邪馬台国東遷説で、特に近年発掘された纒向遺跡からは、それ以前に大和盆地に権力者の痕跡がなく、突如として巨大な都市が大和盆地に出現した事がわかり始めています。

また古くから卑弥呼は天照大神ではないかとの説が唱えられています。それで、西暦247年と248年に日本列島で皆既日食があったことは天文学的に立証されており、これが天の岩戸伝説ではないかと推定されています。この日食、どうやら北九州では日中に見られましたが、大和盆地では日没後で皆既日食は見られず、卑弥呼が天照大御神であれば、邪馬台国北九州説は有力になります。つまり卑弥呼の時代の邪馬台国は北九州にあったことになります。

そして魏志倭人伝の書かれた頃には大和盆地に移っていたのではないかと推定されています。

 

魏志倭人伝では松浦半島に上陸してから、方向と距離日数で次の国、そこから次の国とへ至るとされていて、最後に邪馬台国に到達します。末盧國(松浦半島と推定される)から、伊都国(糸島周辺と推定される)、奴国(博多付近と推定される)、不弥国(福岡県北部と推定される)までは、里数で距離が書かれていますが、ここから距離が日数に変わってしまいます。不弥国から投馬国へは水行20日、投馬国から邪馬台国までは、有名な水行10日陸行1月ということになります。

 

ここからは、筆者のオリジナルの推論になりますが、瀬戸内海は潮位の変化や潮の流れが激しく、水先案内人の案内なしには、航行は困難で、平安時代までは、中国からの貿易船は博多止まりで、瀬戸内海には入ってきていませんでした。それで、魏からの使者は気候が穏やかな時は瀬戸内海よりも潮位の変化や潮の流れが少ない、日本海、山陰を経由しているのではないかと。使者は日本海側の城崎豊岡舞鶴あたりに上陸して大和盆地に達していたのではないかと推定しています。

豊岡から大和盆地までは陸行1月はかなり妥当な所なので、方角を無視すれば、距離的には最もあったルートになります。

 

筆者は船の専門家の視点で、瀬戸内海は地元の水先案内無しには航行困難という、歴史学的にあまり触れられてこなかった事を指摘しています。


ブルーバックス・日本史サイエンス

2022-08-17 | 書評

ブルーバックスの日本史サイエンス、科学的に日本史の事例を紹介しています。この本では、元寇の文永の役(1回目)、豊臣秀吉の備中大返し、戦艦大和を取り上げています。筆者の播田安弘氏は船の専門家で、主に船や海洋学の観点から歴史を検証しています。

 

まず秀吉の備中大返しですが、備中高松から山崎までの約220kmを8日で走破した事になっていますが、流石にこれだけの距離を2万の大軍が移動するのは無理があり、秀吉は事前に本能寺の変を知っていて黒幕ではないかとの説まで出ています。流石に本能寺の変の黒幕説は無理がありますが、明智光秀の怪しい動きを事前に察知していて、念のために姫路などの街道沿いに予め移動の準備をしていたとの説も有力になっています。

本能寺の変が6月2日の早朝で、備中高松の秀吉の陣に第一報が届いたのが、一説では6月3日の夕方、毛利方と急いで講和し、備中高松を出発したのが6月5日と言われています。山崎の合戦が行われた6月13日なので、8日間の間に山崎まで移動しなければ辻褄が合いません。たとえ、秀吉の軍勢、およそ2万と言われていますが、この軍勢が山崎まで8日で移動できたとしても、疲労困憊していて、戦力にならなかったのではないかと述べています。

山崎の合戦の主力部隊は、備中高松城を水攻めで包囲していた秀吉の手勢ではなく、四国へ渡る直前で大阪にいた丹羽勢や織田信孝勢、畿内やその周辺の諸将の軍ではないかとの説が近年有力になっています。秀吉は側近や直属の供回りの僅かな兵だけで、馬で姫路から大阪まで駆け抜け、合戦に参加したことになります。

岡山と姫路の間には船坂峠があり、当時は街道も整備されておらず難所でした。ここを迂回するために備前片上から赤穂まで船を使ったというのが筆者の推理になります。

 

元寇のうち、弘安の役は、鎌倉幕府側の徹底抗戦と台風の襲来であることは、よく知られていますが、文永の役については、いろいろな説が出ています。最近、偵察攻撃説が出ていて、一定の支持を集めています。筆者はそうではなく、蒙古と高麗が諸般の事情で、出征が遅れ10月になったのが致命的になったとされています。

博多湾での戦いについては、筆者は博多湾の水深等を考慮して、上陸地点と戦いが行わた場所も推定しています。当時の博多湾は当然桟橋などはないので、大船団からの揚陸戦は小舟に乗り移ることになります。蒙古と高麗の兵力は2万から3万でこれだけの兵力を小舟で揚陸させるのには、数時間の時間がかかります。そこで、少数づつ揚陸を繰り返して、鎌倉幕府の御家人の抵抗を受けて、かなりの損害を出したのではないかと推定しています。

それで、玄界灘、対馬海峡は11月までは穏やかですが、12月に入ると荒れて、渡るのが困難になります。そのため、長期間の戦いが不可能で、11月末には引き上げる必要がありました。その帰路の途中に、暴風雨にあって、壊滅的な被害を受けたようです。

 

筆者は、船舶の専門家で、その視点からの検証が多いのですが、兵站や当時の兵器の威力なども考慮して、日本史を見ているのが斬新なところではないかと思います。


松川事件

2021-11-10 | 書評


国鉄を舞台にした終戦後の占領下におけるの3大事件の一つ、松川事件。未だにその犯人は謎とされていますが、松川事件については免罪の再審に関わった人とは別に、その真相に迫った人が多くいます。
松川事件の確信に最初に迫ったと言われるのが、推理小説作家の松本清張氏で、日本の黒い霧で松川事件を取り上げ、それが米軍の謀略と指摘しました。歴史学者の家永三郎氏は「現代史家の歴史認識能力が、推理小説作家に及ばないとは情けない」と同氏を称賛しています。

その松本清張氏の日本の黒い霧に次ぐのが、吉原公一郎氏の労作「松川事件の真犯人」です。同著では、松川事件に至る庭坂事件と予讃線事件の取材から始まり、松川事件に至る経緯が述べられています。それでかなりのところまで踏み込んだ内容で、進駐軍内部の派閥抗争も事件の一因ではないかと推理しています。

松川事件については、経緯はある程度知られていますが、松川事件と同様の予讃線事件については、あまり取り上げられる機会はなく、まとまった書籍ではこの本だけかもしれません。予讃線事件は松川事件と同様の列車妨害事件で、進駐軍の共産党や日本の労働運動に対する謀略なのですが、ある事情で愛媛県の警察当局が米軍の謀略らしいと感づいて、迷宮入りしています。
ところが、松川事件は福島の警察当局が、米軍の思惑通りに共産党と国鉄及び東芝松川工場の労働組合を犯人と見立てて逮捕したのではないかと、この本では推理しています。