白洲 正子文学逍遥記

故・白洲正子様の執筆された作品を読み、その読後感と併せて能楽と能面、仏像と仏像彫刻、日本人形、日本伝統美術についてご紹介

白洲正子文学逍遥記ー「十一面観音巡礼」編-017

2014-06-13 | 日本の伝統芸術

 

 

白洲正子文学逍遥記

十一面観音巡礼」編

竜田の川上 

 

松尾寺

 

 

 

 

 大和郡山市の矢田丘陵沿いの南に位置する、真言宗醍醐寺派の別格本山・松尾寺は、矢田寺と法輪寺のほぼ中間点にある。山号は松尾山(補陀落山)。本尊は千手観世音菩薩である。松尾寺は天武天皇の皇子・舎人親王養老2年(718)に42歳の厄除けと「日本書紀」編纂の完成を祈願して建立したとされる。

 

 

一般的には<まつのおてら>と呼称され、日本最古の厄除け寺と称されている。長い石段の右の奇岩・神霊岩に祀られている石仏群。 中央に「不動明王」

 

松尾寺は法隆寺の北方に位置し、法隆寺西院伽藍の背後から松尾山へ至る参詣道があることから、もとは法隆寺の別院であったようである。松尾山の山頂近くに位置する鎮守社の松尾山神社境内からは奈良時代にさかのぼる古瓦や建物跡が検出されており、この寺が奈良時代の創建と見ることが出来る。

 

本尊・千手観音菩薩

 

鎌倉時代の作とされる観音像で、秘仏とされており、毎年11月3日が御開扉である。しかし、ご本尊が国宝でもなく、奈良県指定文化財であるのには理由がある。先年本堂の修理をした際に、本堂の屋根裏から焼損仏がコモにまかれて出現した。「十一面観音巡礼」にも書かれていることであるが、この仏像こそが、舎人親王が創建した当時の本尊であろうとされている。

 

焼損佛

 

  

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松尾寺の焼損佛が「千手観音像」である理由

松尾寺の焼損佛の不思議なトルソーの存在は、筆者が高校生のころ(昭和35~36年)社会科の美術の教科書の中に掲載されていたのを、今でもはっきり記憶している。その当時はこれが松尾寺の焼損佛という認識はなく、妙に現代彫刻ポイものだという感想であった。何故にこの彫刻が教科書に掲載されているのかという疑問も沸かなかった。そして、このブログを書きながら、「十一面観音巡礼」の記述の中から、半世紀経ってようやくその理由が分かった次第である。

この残欠が千手観音であるのは下記の理由によるものである。

 

              葛川明王院・千手観音            

          

 

千手観音像は四十二の佛手を持たれる形式が普通である。松尾寺のご本尊も創建当初はこの形式であった。トルソーの胸の部分の左右が大きく抉れているのは、40本の脇手(佛手)を取り付けるための工作上の特徴である。恐らく火災のときこの脇手は焼失したか、散逸してしまったに相違ない。

十一面観音

 

現在は奈良国立博物館・寄託になっている、松尾寺の十一面観音が存在する。又、この観音像の体内佛も存在する。(資料がないので未掲載

 

 

大黒天立像 ・ 99cm

 

「七福神堂」に祀られている<大黒天>は、鎌倉時代の作である。

 

 

花飾りの付いた頭巾を被り、眉間に皺を寄せ、眉を吊り上げ、眼を怒らせ子鼻を張った精悍な過去立ちをなしている容貌には、古代インドの武人の面影が残る。全体から受ける感じは、通常の大黒天に見られるような穏やかな感じからは、離れている感じを受ける。

後に七福神の「大国主命(おおくにのぬしのみこと)となる原型であろう。

 

 

 

 

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