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長内那由多のMovie Note

映画や海外ドラマのレビューを中心としたブログ

『ゴースト・イン・ザ・シェル』

2017-04-30 | 映画レビュー(こ)

 製作陣は肝心の“企業のネットが星を被い、電子や光が駆け巡っても、国家や民族が消えてなくなるほど情報化されていない近未来”という設定をすっかり忘れていたようだ。グーグルが世界を被い、個人の携帯端末が世界と繋がるようになった今、『ブレードランナー』よろしくなオリエンタリズムの大都市ランドスケープはあまりに古臭く、そのくせ主人公を東洋人から白人へと“ホワイトウォッシュ”したキャスティングは時代錯誤もいい所だ。

ファンとしては、製作陣の原作の読み違えに文句をつけたくなってしまう。主人公“少佐”のキャラクターを細かに描写した事だ。
少佐こと草薙素子はわずかに残った脳以外は全身機械のサイボーグであり、それまでの経歴や記憶に謎が多く、そもそも性別すら定かではない。その匿名性、アイデンティティの曖昧さが多くの観客に「自分とは何者なのか」と訴え、支持を得てきたのである。また本実写版は基本的に押井守監督による劇場版第1作をベースとしているが、そもそも歪なまでに個性の強い呪術的な押井演出こそが魅力であったと再認識できる。

本実写版は劇場版のみならず、TVシリーズ『S.A.C』の2ndシーズンから傑作『草迷宮』のエピソードも取り入れられている。
少佐の過去を描くといういわば型破りなこのエピソードは、素晴らしい脚本と菅野よう子によるスコア(『I do』!)が神山健二のほとんど神業レベルの演出によって共存しており、本実写版が易々と手を出すべき要素ではなかった。そもそも素子とクゼ(もしくは人形遣い)によるこの一種のラブストーリーには涅槃や極楽浄土といった仏教的イメージが重ねられており、それがエロチックでもあり、神秘的でもある事で多くのファンを魅了してきたのではないだろうか。この東洋的ニュアンスはハリウッド版では望むべくもなかった。

とは言え、ハリウッドのこうした単純化は今に始まった事ではなく、文句をつけるのは野暮だろう。
むしろいかにマイナーチェンジし、最大公約数を拡げたのか、その企画開発ぶりに目を向けた方が『攻殻』ファンも報われる。
人外を演じるとピタリとハマる美しいスカーレット・ヨハンソンはキャスティング段階から批判に曝されてきたが、決して見劣りするようなパフォーマンスではない。キャスト陣の似せ方、アクションシーンの完全再現、さらにはバセット・ハウンドにまで目配せされており、作り手達が現場を楽しんだのは伝わってくる。ビートたけしの荒巻は原作ファンとしてはどうかと思うが、たけし自身へのオマージュは効いていた(一方、あのタイミングで登場してなんら違和感のない桃井かおりは凄い)。

全米では興行的に大惨敗を喫し、続編が作られるような事もないだろう。
 近年でいえばニール・ブロムカンプの
『チャッピー』、ジョナサン・ノーランの『ウエストワールド』の方がゴーストの在処を追い求めており、よっぽど攻殻ぽかった。そして間もなく、『ブレードランナー』の続編が公開となる。


『ゴースト・イン・ザ・シェル』17・米
監督 ルパート・サンダース
出演 スカーレット・ヨハンソン、ビートたけし、マイケル・ピット
 
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『コクソン』

2017-04-30 | 映画レビュー(こ)

 『チェイサー』『哀しき獣』に続くナ・ホンジン監督の第3作『コクソン』はコメディ、ミステリー、ゾンビ、オカルトにまで変容するジャンル不定、身の毛もよだつ大怪作だ。
韓国の寒村で多発する一家惨殺事件。犯人はいずれも家族の一員で、事件後はまるでゾンビのような挙動で心神喪失に陥っている。噂によると、いずれの事件にも山奥に住む謎の日本人(國村隼)か関係しているらしい…。
上映時間156分、観る者を振り回し、決して後味がいい映画でもないのに韓国では700万人以上を動員する大ヒット作になったというのだから、韓国映画ファンの胆力たるや!

ホンジン監督の演出力、構成力も前2作を遥かに超え、成熟している。トレードマークとも言えたほとんど勢い勝負のような、粗削りでパワフルなアクションを封印。笑いと恐怖が紙一重で背中を合わせる異常なテンションは後半に向かうにつれ高まり、どこで映画が終ってもおかしくないほどに振り切れていく。國村隼VSエクソシストの呪術合戦はほとんどギャグすれすれのボルテージだ。

しかしながら、映画は終盤に差し掛かるとオカルト色を高め、背筋の凍るようなムードを帯びてくる。そこで我々はようやく冒頭に記された聖書の引用を思い出し、この映画の正体が見えてくるのだ。
思えば第1作『チェイサー』にも宗教的な背景があった。連続殺人鬼の部屋から見える教会の十字と、路地裏にポッカリと口を開けた底なしのような暗黒。この世の中には何か得体の知れない、人間の知る由もない絶対的な悪が存在し、常に人間を捕えようとエサを付けた釣糸を投げ入れ、僕らを試しているのではないか。

 その試練に選ばれた者を悪魔はカメラに収め、コレクションしているのである。神と悪魔の遊戯に晒される終幕の緊迫は、近年なかった身の毛もよだつ戦慄だ。


『コクソン』16・韓国
監督 ナ・ホンジン
出演 クァク・ドウォン、ファン・ジョンミン、國村隼
 
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『恋するリベラーチェ』

2017-04-12 | 映画レビュー(こ)

 2013年はレーガノミクス以後のアメリカの狂騒と影を描いた映画(『ウルフ・オブ・ウォールストリート』『アメリカン・ハッスル』『ダラス・バイヤーズクラブ』『あなたを抱きしめる日まで』)が相次ぎ、それまでの共和党的文化を破壊するトランプ旋風の夜明け前だったように思う。
スティーブン・ソダーバーグもその気配を見逃さず、彼らしいアプローチでアメリカの美醜を描き出している。1950年代から80年代にかけて活躍したピアニスト、リベラーチェの後半生を描く本作は、ゴシップ的興味本位で近付く観客に吐き気を催させるグロテスクさが満載だ。

全面ラインストーンを施したグランドピアノに豪奢な燭台を置き、スパンコールだらけの衣装で演奏と軽快なトークを繰り広げる芸風で知られたリベラーチェは、息子ほど年の離れた青年スコットと恋に落ちる。美術品を所狭しと並べ、自分好みの男の子を召使として雇い、贅の限りを尽くそうとする彼は永遠の若さに固執ししており、顔面の大幅な美容整形に手を染め、さらにはスコットをまるで自分の息子のような生き写しに整形させる。

10年代前半にソダーバーグ映画のトレードマークとなったシャンパンゴールドのようなライティングは、本作のための技術開発だったのかと思えるほどドはまりする。資金難で製作が難航する中も企画から降りなかったリベラーチェ役マイケル・ダグラスとスコット役マット・デイモンは共にキャリアに残る名演技だ。特にエンターテイナーとしての怪物的な天性に、下卑た虚飾をまとわせたダグラスは名優の名優たるパフォーマンスであり、エミー賞では主演男優賞に輝いた。

やがて自らのエゴと性欲のためにスコットを捨てたリベラーチェも多分に漏れず、エイズ禍に呑まれ、孤独な死を迎える事となる。膨張せんばかりの欲望のままに生きた男はゲイである事を公式に認める事もなく、狂騒の中で忘れ去られていった。ハリウッドで一時代を築いた男の影に光が射すのは、それから長い年月を必要としたのである。原題は“Behind the Candelabra”だ。


『恋するリベラーチェ』13・米
監督 スティーブン・ソダーバーグ
出演 マイケル・ダグラス、マット・デイモン、ロブ・ロウ
 
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『ゴースト・エージェント/R.I.P.D』

2017-04-04 | 映画レビュー(こ)

 なんでも“『ジョナ・ヘックス』以来、最低のコミック原作映画”と酷評されているらしい。
見てないが、まぁ、あっちも相当に酷いのだろう。
でも本作、そんなに言うほど悪くなかったよ??

 イケメン押しされるが、実はお笑い系だった事が
『デッドプール』で判明するまでライアン・レイノルズは長い助走を強いられるワケで、本当に正統派ヒーローが向かない人である。ビデオスルーの安い二枚目。要はスターオーラ不足である。

 方や還暦を過ぎてますます盛んなジェフ・ブリッジスは十八番のカウボーイ役で豪放な魅力を発揮。そして悪役ケビン・ベーコンは嬉しそうに頭が割れるゾンビ役を演じてくれちゃって、僕はニヤニヤ笑いが止まらなかったのですよ。スターには理屈じゃない、こういうデタラメさが必要だと思うのです。それが堪能できたのだから、僕はゴミ映画とは思いませんです、ハイ。


『ゴースト・エージェント/R.I.P.D』13・米
監督 ロベルト・シュヴェンケ
出演 ライアン・レイノルズ、ジェフ・ブリッジス、ケビン・ベーコン
 
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『この世界の片隅に』

2017-01-06 | 映画レビュー(こ)

2016年は“ジブリ後”の元年として邦画史に記録される重要な1年だったのかもしれない。
オタク向けのカルトヒットではなく、大衆映画として『君の名は。』が記録的な大ヒットを飛ばし、そしてSNS時代を象徴するかのような拡散力でヒットを続ける本作である。両者に共通するのが偏執的なまでの描写の細やかさだ(そして両者とも宮崎御大のようなアニメならではの飛躍性には乏しい)。この繊細さ、視座の身近さが本作の大きな魅力である。

物語は昭和8年(1933年)の広島から始まる。当時の資料から徹底再現された街並みはきらびやかで、方や漁村の暮らしは慎ましくも美しい。ディテールの細かい生活描写には今よりも豊かな時代だったのではと思わせてくれるものがある(ミリタリー描写も徹底している。焼夷弾の着弾を再現したアニメなんて初めて見た)。片渕監督の演出はとてもスピーディーでリズミカルだが、原作のエピソードを巧みにカットしながら省略の妙味を利かせているのが特徴だ

ヒロインのすずは天井の木目を見ながらそこに座敷童を夢想するような女の子で、そんなイマジネーションを絵にする事が大好きだ。彼女の世界にふれた人々が皆、すずを愛してしまうのも無理はない。演じる能年玲奈はとても公開4か月前にキャスティングされたとは思えない素晴らしいボイスアクトを披露し、『あまちゃん』に続いてカリスマ的なハマり役を得ている。映画の半分は彼女の魅力でもっていると言っていいだろう。

見も知らぬ男に見初められ、呉に嫁いだすずだったがやがて近付きつつある軍靴の音はあまり耳には入っていない。いや、彼女に限らず当時の人々にとってそれが軍靴とは知る由もなかったのだろう。省略され、描かれる事のないディテールの数々が生々しい匂いを放つ。大和の僚艦青葉に乗り込んだ旧友、水原の帰還は強烈だ。嫁がされたすずを想う彼の豪放さには死線をくぐり抜け、今また死地に向かわざるを得ない者につきまとう“死の予感”が匂い立つ。そんな彼にすずを供与しようとする夫の屈折。描かれない、説明されないが故に観客の想像力を喚起する忘れがたい名場面だ。

戦時下の極貧を知恵と笑顔で乗り切ってきたすず達だったが戦争は姪を、右手を奪い、そして原爆が落とされ、8月15日がやって来る。膝を揃えて玉音放送に耳を傾けた者たちが人知れず流す慟哭に作り手たちの確かな怒りがある。
 僕たちは皆、この世界に片隅に生きる小さな一個人であり、戦争は等しく全てを奪い去る。そして本作を見終えた時、僕らは漫画にも映画にもならず、語られる事のないまま死んでいった多くの人々を想わずにはいられないのである。

『この世界の片隅に』16・日
監督 片渕須直
出演 能年玲奈
 
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