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俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

空騒ぎ

2014-07-11 10:08:17 | Weblog
 我々が最も多く騙されるのは多分天気予報だろう。騙されるという表現は適切ではないかも知れない。気象庁には「騙そう」という意図は必ずしも無くただ単に間違えるだけだろう。これは殺人と傷害致死ぐらいの違いがあるだろう。
 しかしこと台風の進路予報に関しては意図的に誤った情報を流しているように思える。それは決して今回の「50年に一度の巨大台風」と騒ぎ立てた8号に限った話ではない。台風の予想進路は常に、考えられる最悪の進路を予報するからだ。上陸しそうな台風であればその予想進路は殆んど毎回のように沖縄を経由して日本列島を縦断するコースになっている。こんないい加減な予想なら私でもできる。台風8号が韓国ではどう報じられたか知らないが、あちらはあちらで韓国を直撃するコースを予報して空騒ぎをしていたのではないだろうか。
 これは読売新聞による調査結果だが、降水確率は7割ほど水増しされているらしい。つまり発表数字を6掛けすれば(1.7×0.6≒1.02)大体正確な予想になるようだ。良いほうに外れたほうが文句を言われずに済むという姑息な考えだろう。
 危険かもしれないことであれば可能性に過ぎない時点でも公表することが予防原則だが、この美名に隠れて酷い無駄遣いが横行している。自治体の回収するゴミを増やしただけのダイオキシン騒動や全く意味の無かった狂牛病の全頭検査とか一度も当たったことの無い地震予知などだ。
 今回の台風で、沖縄県では住民の4割に当たる59万人に避難勧告が出され、実際に避難したのはたった947人だったそうだ(毎日新聞に拠る)。これほど信用されない勧告を続けていれば気象庁はイソップ寓話の「狼少年」になってしまう。「空振りでも良い」という言い訳が定着したのは昨年11月の伊豆大島での土石流災害からだと思うがそんな風潮に甘え過ぎだ。これでは焼け太りだ。責任逃れのための空騒ぎは慎んで貰いたいものだ。

安心と怒り

2014-07-11 09:37:58 | Weblog
 安全か危険かは客観的な事実だ。だから科学的技術によって安全性を高めることができる。しかし安心は主観的な感情であり当事者が勝手に判定することだ。従って安全性を証明できても安心感に繋がるとは限らない。一言で言えば、安全・危険は論理だか、安心・不安は心理だ。
 安心を生むのは安全性の証明ではなく不安の解消だ。しかし殆んどの不安は具体的な事実に基づかずに「ぼんやりとした不安感」だけがある。
 不安は心理的なものだからその解消は論理的・科学的なものではなく心理的なものでなければならない。だからぼんやりとした不安を明確な感情に摩り替えることがしばしば行われる。
 危険の解消であれば論理的・科学的でなければならず事実に基づいた対策が必要だ。しかし不安を解消するために事実は必要無い。感情的に受け入れられる状況証拠でも充分だ。そのために最も有効なのが偏見を利用した怒りなのではないだろうか。
 安全性は科学によって高められるがそれでは安心は得られない。安心を得るのは論理によってではなく不安の解消による。不安を明確な怒りへと捻じ曲げれば不安が解消されたような錯覚が生まれる。ナチスはスケープゴートにするためにユダヤ人に対する偏見を利用した。
 9.11のアメリカ同時多発テロの際、アメリカ人はパニックに陥った。これまで本土を直接攻撃されたことが殆んど無いアメリカ人にとってこれは天と地がひっくり返るような衝撃だった。ブッシュ大統領はこの心理的混乱を怒りに転じさせた。オサマ・ビンラディンとイラクの大量破壊兵器へと関心を捻じ曲げた。それが事実であるかどうかはどうでも良く国民が熱狂できるかどうかだけが重要だった。心理作戦としてこれは有効だった。幾ら事実を並べても国民の不安は解消されないが捌け口さえ作れば国民は安心する。安全よりも安心が優先されたということだ。
 但しこの誤魔化しは国際的には有害であったように思える。世界中に嫌米感情を広げたし、キリスト教的価値観と非キリスト教、特にイスラム教的価値観との対立を拡大した。アメリカ人だけの偽りの安心のために世界中が不安に晒されたということだ。

危険と安心

2014-07-09 10:19:47 | Weblog
 昔、沖縄のビーチでこんな経験をした。比較的深い場所で水遊びをしていた女性の股の間を海蛇が通り抜けるのを見た。私は大慌てで浜に上がり監視員にそのことを告げた。彼は全く意に介せずに放置した。私は怖くてしばらく水に入れなかった。
 ゴーグルを使って泳ぐ私だけがそこに海蛇がいることを知っていた。他の人は知らないから安心し切って水遊びを続けていた。海蛇がいることを知っている私は危険と考え、他の人は綺麗な海に毒獣はいないと思って安心し切っていた。
 南の海にはクラゲが多い。晴れていればその姿を確認できるが曇ると殆んど見えなくなる。だから私は晴れている間しか泳がない。しかしクラゲがいることを知らない人は曇っていても平気で泳ぐ。危険な動物がいることを知らない人は安心している。知っていれば危険と考える。
 安心の多くは無知に基づく。薬は実は危険物だ。医師が処方する薬だけではなく市販薬でも多くの薬害が発生している。殆んどの人はタミフルや子宮頸癌ワクチンなどマスコミが騒いだ特定の薬だけが危険だと思っているが、実は殆んどの薬が危険物だ。副作用の無い薬は無く、薬の本質は人体に異常反応を起こさせる劇物だ。よく効く薬とは同時に副作用の大きい薬でもある。薬効とは危険な綱渡りのようなものだ。
 マスコミが報じない薬害が大量に発生していることを人々は知らない。知人が薬害に会ってもそれはアレルギーのような特殊な例と考える。これは海蛇やクラゲがウヨウヨいる海で平気で泳いでいるようなものだ。その危険性を知っていれば泳がないが知らない人は平気で泳いでいる。たとえ鮫がいても誰かが騒ぐまでは安心し切っている。
 製薬会社による不祥事が相次いでいても、食品メーカーとは違ってボイコットされないのだから薬の市場は摩訶不思議な世界だ。多分CMによる効果が絶大なのだろう。製薬会社はマスコミにとって最大のスポンサーだ。スポーツ選手などを使った派手なCMによってイメージを高めており、同時にマスコミが悪い情報を自粛しているからこそ国民から信頼され間違った安心感が植え付けられているのだろう。
 安心とは論理ではなく感情だからデータよりもイメージのほうが有効だ。安全かどうかは事実に基づくが、安心へと導くのは殆んど偏見にも等しい情動だ。

ありのまま

2014-07-09 09:43:09 | Weblog
 「アナと雪の女王」の主題歌「ありのままで」が大ヒットしたが、人はありのままが大嫌いだし、ありのままを知覚することさえできない。人が知覚するのは主に「あるべきもの」だ。
 知覚できるのは現象に過ぎず物自体を知ることはできないとするのがカントの認識論だが、もっと卑近な例を挙げよう。赤外線や紫外線が見える動物がいるが、我々はそれがどんな色なのか想像することもできない。あるいは赤緑色盲であれば赤と緑が区別できないが、それがどんな世界なのか正常者は想像できない。
 味覚においても味盲があるのだから人それぞれが知覚する味は異なると考えて良かろう。聴覚も歳を取れば高音が聞こえにくくなる。ありのままに知覚することは不可能であり、それぞれが自分に可能なものを知覚するだけだ。
 虹は幾つの色から成るか?日本人は7色と言うがドイツ人は5色と考える。虹のスペクトルは無数の色によって構成されているが名付けられた色だけを認識する。意識して見れば黄緑などの色も見える。
 日本語の古語では色は白・黒・赤・青の4色しか無かったと思われる。この4色だけが「~い」を付けて形容詞として使用できるからだ。黄色い・茶色いも形容詞になるがずっと後に作られた言葉だろう。だから緑色の信号も緑色の葉も「青い」と表現するし、ピンクを「赤い」と言う。その一方で「四十八茶百鼠」と言うように、茶色だけで48種、グレーを100種に分類することも可能だ。
 物事は区別することによって理解される。分かるとは分けるであり分別(ふんべつ)とは分別(ぶんべつ)することだ。区別することによって混沌(カオス)は秩序(ロゴス)に変わる。理性は曖昧さを嫌う。
 日本人はLとRを区別できないと言うが、フランス人はHを発音できないから花が「アナ」になる。彼らはそれを恥じることなく逆にH音の多いドイツ語を「馬の言葉」と馬鹿にする。各文化が必要な音を選ぶから使わない音は分からなくなる。
 人は信念を補強する情報を喜んで受け入れるが信念を揺るがせる情報は毛嫌いしてすぐに忘れてしまう。その傾向が強い人を頑固者と呼ぶ。
 各民族が違った音や色を認識するようにそれぞれが固有の共同幻想に基づいて生きている。それが危険なものでない限りお互いに尊重することが相互理解に繋がる。人は異なった文化の中で育つのだから独自の枠組みを持つ。グローバルスタンダードに無理やり同調する必要は無い。

酒税

2014-07-07 10:04:40 | Weblog
 政府・与党はビール類の酒税の見直しを検討しているそうだ。タテマエ上は「ビール税が高過ぎるから」ということらしい。ビール税はドイツの20倍、アメリカの12倍と言われているだけに、もし本当なら良いことだ。現在のビール税は本物が高く贋物は安く、になっており贋物を優遇するという良からぬ税制になっている。食文化の向上のためには本物優遇が望ましい。
 残念ながらホンネは全然違うようだ。2013年には本物のビールのシェアは50.0%まで下がっており今年は50%を切ると予想されるからだ。税率の高いビールのシェアをこれ以上下げたくないということだろう。
 繁雑になることを避けるために発泡酒は無視してビールと第3のビールを比較するが、酷い税制であることが改めて分かる。350mlの缶ビールをそれぞれ220円と140円として試算する。
 ビールであればその内訳は本体127円、酒税77円、消費税16円(酒税にも消費税が掛かるので二重課税になる)、合計220円となる。税金の占めるシェアは42%だ。本体価格127円に対して73%に当たる93円が課税されている。
 第3のビールの場合、本体102円、酒税28円、消費税10円、合計140円となる。税金のシェアは27%だ。本体価格102円に対して37%に当たる38円が課税されている。節税ビールと言われる第3のビールでさえ驚くほど税率が高い。煙草や輸入豚肉と比べれば低いとは言え酷税と言えよう。
 ビールの税率を下げて発泡酒と第3のビールの税率を上げようと企んでいるようだが、ここでもう1つ問題が生じる。チューハイなどの発泡性酒類の税率との整合性だ。第3のビールの税率を上げてチューハイを据え置くことは酒税法上難しいからチューハイも値上げされることになるだろう。
 本物の奨励と言えば聞こえは良いが、低価格品を値上げして高価格品を値下げするのだから富裕層優遇策になるのではないだろうか。
 なおフィリピンではここ数年で激しく値上がりしたが、それでも1本40円ぐらいで買える。ビール好きには良い国だ。

順応

2014-07-07 09:31:50 | Weblog
 母が最近、高血圧と診断されたため私も減塩食に付き合っている。すると味覚が変わってしまった。これまで普通に食べていた物が塩辛く感じるようになった。味覚は何と容易に感化されるのだろうか。
 味覚だけではなく視覚もすぐに慣れる。明順応・暗順応と言うように明るい場所にいても暗い場所にいてもその照度に慣れてしまう。
 嗅覚や聴覚は勿論のこと触覚でさえ同じ刺激を受け続ければ衣服や腕時計のように知覚できなくなってしまう。
 五感がすぐに順応するように感情も順応する。現状維持であれば余り不満を感じない。給料が上がらないことに不満を持つ人は、周囲の人の給料が上がって自分の相対的な地位が下がるから不満を感じる。周囲の人の給料が上がらなければ不満を持たない。人並みであることを良しとする。
 戦後の日本人のハングリー精神が強かったのはアメリカ人の生活という明確な目標があったからだ。アメリカ製のドラマがテレビで放映されていたからその豊かな暮らしに憧れたものだ。比較する対象があればそれと比較して満足したり不満を持ったりするが、比較する対象が無くなれば現状維持で充分だ。向上や改善をしようとはしない。
 無知を自覚しない人は学ぼうとしない。テレビや新聞が提供する情報を拾い集めていれば常識は満たされると考える。そういう人こそ積極的に学ぶ必要がある。我々は余りにも無知だ、余りにも情報統制されている。これまで、ダイオキシンは史上最悪の危険物だ、環境ホルモンによってオスが滅ぶ、血圧やコレステロールは薬で下げろ、原発は安全だ、憲法解釈を改めれば集団的自衛権は認められる、といった嘘によって国民は騙され続けている。散々嘘を垂れ流しておいて後で嘘と分かっても訂正されることは殆んど無い。悪いのは騙すほうだが、騙されるほうにも責任がある。自らの無知を知るべきだ。これは単に哲学的な課題ではない。自らの安全を守るために必要なことだ。

薬物

2014-07-05 10:18:07 | Weblog
 脱法ハーブや麻薬や覚醒剤の危険性が騒がれているが、一層危険なのは薬(ドラッグ)だ。特に抗精神病薬は危険だ。日本人が薬を怖がらないことは実に奇妙なことであり理解に苦しむ。
 薬はなぜ効くのか、異常を正常に戻すからではない。薬の効能とは人体に異常反応を起こさせることだけだ。薬によって起こる異常反応によって運が良ければ正常に戻る。運が悪ければ一層異常になる。敵の敵は必ずしも味方ではないし、裏の裏が表になるとは限らない。
 軽度の欝状態の人が抗鬱剤を飲めば気分が軽くなる。最もよく使われる抗鬱剤のSSRIは「選択的セロトニン再取り込み阻害剤」という名称のとおり、脳内のセロトニンが吸収されることを妨害する。SSRIの効果は吸収されることの妨害だけでありセロトニンを増やす薬ではない。本来吸収されるべきセロトニンを吸収させないだけだ。セロトニンを吸収させないことによってどんな障害が生じているかはよく分かってはいない。所詮一時凌ぎにすぎず、長期的に服用すれば依存症=薬物中毒になる。呆れた話だが、SSRIの最大の副作用は欝状態の悪化だと言われている。
 三大成人病(生活習慣病)の「治療薬」はどれも脳に悪影響を与える。6月30日に起こった難波での暴走事件は糖尿病薬による低血糖が疑われているが、降圧剤なども思考力を低下させる。
 細い血管で充分な血液を流すためには血圧を高めて血流を早める必要がある。老化などによって血管が狭くなれば血圧を上げなければ充分な血液が脳に届かなくなる。老人の高血圧の多くは、風邪による発熱と同様、人体による適応反応だ。脳に血液を届けるために高められた血圧を薬によって下げればどんな結果になるかは素人でも分かる。
 こんな殺人紛いの行為が罷り通っているのは専門医制度のせいだ。心臓病の医師は心疾患を免れることしか考えず、その薬が原因で認知症を患うことになろうとも関知しない。それは担当外のことだ。医療は部分ではなく全体を診るべきだろう。総合医療という視点が急務だろう。

人治国家

2014-07-05 09:44:43 | Weblog
 中国は憲法35条で「言論・出版・集会・結社・行進・示威の自由」を認めている。誰もが知っているとおりこの憲法は守られていない。憲法よりも共産党の決定が上位にあるからだ。小平氏が権力を握っていた時代には奇妙なスローガンがあった。何と「共産党員も憲法を守ろう」だ。つまり共産党員は憲法を守っていなかったし今も守っていないということだ。
 私はイギリスの大憲章や権利の章典を高く評価する。これらが国王の権力を制限するルールだからだ。たとえ最高権力者であろうとも法に従わねばならない。それが法治国家だ。それ故、安倍政権による憲法曲解と歪曲に基づく憲法の空文化・死文化を糾弾する。権力者が憲法を守らなければ日本は中国と同じ人治国家に堕する。公明党との「新3要件」など絵に描いた餅だ。憲法を踏みにじるのだからこんな約束事などいつでも無視できる。こんなものが全く無意味であることは余りにも明々白々だ。
 集団的自衛権によって国民が危険に晒されるかどうかなど些細な問題だ。最大の問題点は、権力者が法を蹂躙しても構わないかどうかだ。権力者を縛るルールが無くなれば権力に歯止めが利かなくなって暴走を防げない。今回の閣議決定による憲法解釈の見直しは、憲法よりも権力者が上という前例を作る暴挙だ。
 私は決して法律万能主義者ではない。法律とは最低限のルールだ。実際の社会は法律よりも遥かに厳しいマナーやモラルに基づいている。しかし法律さえ守られないのであればマナーやモラルなど論外だ。
 法律や契約は相手を拘束するだけではなく自らをも拘束するという両面性を持つ。権力者が超法規的立場に立てば社会は時の権力者の意のままになる。安倍首相は憲法を超越する「神の地位」を手に入れた。
 最近、東京都議を含めて地方議員や首長の愚行が目立っている。それと比例するかのように国会議員も劣化しているようだ。政治家は聖人ではないのだから法に背くこともあるだろうが、せめて憲法ぐらいは守って貰いたいものだ。平気で憲法を蹂躙する政治家が作る法律に正当性はあるのだろうか。
 憲法を守るよりも国民の安全を守ることのほうが重要だという主張もあるが、憲法すら守れない国に秩序などあり得ない。憲法が守られない国で法律が守られる筈が無い。たとえ誤ったルールであってもそれを改めるためには正規の手続きを踏むべきだろう。
 
 

Death's hands

2014-07-03 11:11:30 | Weblog
God's handsを持つ天才外科医がどれだけいるか知らないが、Death's hands(死神の手)を持つ医師は大勢いるようだ。千葉県がんセンターのある医師は腹腔鏡下手術で次々に患者を死なせているらしい。鏡下手術ではなく鏡下・下手・手術をしているようだ。
 昔からヤブ医者はいたようでイソップ寓話にもこんな話がある。
 医者が死者を減らしていると怒った死神が医者を対象にしてブラックリストを作り始めた。たまたまそこに居合わせた死者が言った。「このA医師は敵ではなく協力者です。」
 現実の世界でも医者は人口減少に貢献していると思える。医者がストライキをすれば死者が減るというデータが何度も提供されている。
 1973年にイスラエルで約1箇月のストが行われたがこの期間の死亡率は半減したそうだ。イスラエルでこれほど死亡率が下がったのはその20年前に医者がストライキをした時以来だと言う。
 1976年のロサンジェルスでのストでは死亡率が18%減った。
 同じ1976年、コロンビアのボゴタで52日間のストがあり、この期間の死亡率は35%減ったそうだ。
 数十年前、私の叔父は手術の前日に病院から逃げ出した。現在80代になっているがその後何の異常も無く元気に暮らしている。
 一方、義理の妹が子宮癌と診断されて子宮摘出手術をし、その後、体調不良に悩んでいる。事前に知っていれば手術を思う留まらせていたと思うだけに残念でならない。
 医者は人を切り刻むだけでは飽き足らず毒まで盛る。手術以上に恐ろしいのが薬だ。鬱病患者が増えていると言われるが、軽度の気分障害の人に抗鬱剤を処方することによって狂わせたり薬物依存症にしている。
 生活習慣病に至っては厳し過ぎる基準値によって健康な患者を大量生産している。日本人の半数が高血圧症とされているがこんなデタラメな話は無かろう。こんなことのために医療費は無駄遣いされ医者と製薬会社だけが儲けている。
 血圧やコレステロール値を下げる薬は脳の機能を低下させることが少なくない。薬が原因で認知症にされた高齢者は一体どれだけいることやら。
 東京女子医大病院では小児への投与が禁じられている鎮静剤プロポフォールにより2歳児が死亡した。この病院ではこれ以前に63人の小児に対してこの薬が投与されその内12人が死亡したとのことだ。

ディベート

2014-07-03 10:32:45 | Weblog
 ディベートもリベートも有害なだけだ。ディベートの技術など身に付ける必要は無い。相手を説得する技術など百害あって一利なしだ。白を黒と言いくるめるための技術ではなく、白と黒を正しく識別して同時にグレーの存在を認めることこそ重要だ。論理は正しく使用すべきであって相手を煙に巻くために使用してはならない。ソクラテスはソフィストの弁論術を誤魔化しの技として否定した。
 美が健康に基づくべきであって化粧や整形で誤魔化すべきではないように、知恵は学習と思索に基づくべきであり詭弁を使って競うべきではない。
 こんな論理ゲームがある。Aはこう言う「私は彼を愛している。しかし彼には家庭がある。従って・・・。」Bはこう言う「彼には家庭がある。しかし私は彼を愛している。従って・・・。」Bの理屈を使えば略奪愛が肯定される。しかしこの両者が依って立つ根拠は全く同じものだ。根拠が同じであれば違う結論に至る筈が無い。だからこれは詭弁に過ぎない。2+3であろうと3+2であろうとどちらも5だ。朝三暮四のような幼稚な詭弁に過ぎない。こんな誤魔化しの技を磨いても少しも利巧にはなれず却って阿呆になるだけだ。
 一方、誤魔化しを見破るテクニックは必要だ。私が詭弁やパラドクスが大好きなのは誤魔化すためではなく誤魔化されないためだ。詐欺師になることを勧めないが詐欺を見破ることは必要だ。
 「アキレウスは亀に追い付けない」という古典的パラドクスがある。アキレウスが亀のいた場所に辿り付いた時、亀は更に先に進んでいる。これを無限に繰り返すのだから追い付けない、という理屈だ。
 数学を使えば簡単に解ける。無限級数は収束するからだ。無限回の繰り返しを無限時間と混同するから誤魔化されるだけだ。有限の線分上に無限の点があっても線分の長さは無限にはならない。誤魔化すテクニックなど要らない。議論を通じてお互いの理解を深めて共に高まる正しい論理力こそ必要だ。これはディベート力とは対極のものだ。