俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

衣類箱

2012-10-13 13:23:35 | Weblog
 衣料棚の春夏物の衣料品と衣類箱の秋冬物の衣料品の詰め替えをしていて思った、何と無駄な作業か、と。何十年もこんな作業を繰り返していたが、春夏用の衣類棚と秋冬用の衣類棚を別々に揃えておけばこんな詰め替え作業は必要無い。衣類棚から衣類箱に移しても嵩は殆んど変わらないからだ。
 スーツについてはずっと前から春夏物と秋冬物を別のラックに掛けていたのにスーツ以外についてはこんな馬鹿なことをずっと続けていた。習慣だからだ。衣類棚には今使う衣料を入れて、今使わない衣料は衣類箱に片付けて押入れに入れることが長年の日本人の習慣だった。
 日本人は狭い場所に住んで季節に合わせて模様替えをする。徒然草で吉田兼好が「家の作りやうは夏をむねとすべし」と書いたように、使い分けるという発想は日本人には無かった。夏用の部屋と冬用の部屋を作って住み分ければ一年中快適なのに、夏用の部屋しか作らずに冬は寒さに耐えていたのが日本人の浅知恵だ。毎日、布団を出したり入れたりするよりもベッドにしたほうが合理的なのにそんな発想も無かった。狭いスペースを上手に使うことよりも時間や労力を無駄にしないという視点から生活を見直したい。

内的世界

2012-10-13 13:02:22 | Weblog
 外的世界は偶然のものだ。一方、内的世界はその人の人生のエッセンスだ。内的世界においては重要なことのみが血肉化され重要でないものは忘れられる。重要でないことが大半を占める外的世界に振り回される人はそれだけ内的世界が貧弱だということを意味する。
 経験豊富な人は殆んどのことに驚かない。沈着冷静だ。既に知っていることだから経験に基いて周囲の人に知恵を授ける。ITの世界は日進月歩なので古い知識は役に立たないが、日常の生活や人間関係はこの数百年間、そう大きくは変わっていない。
 しかし経験は個人的なものだ。個人にできる経験は限定されている。例えば我々は戦争を知らない。その悲惨さ・非人間性については歴史から学ぶしかない。賢者は歴史から学び愚者は経験から学ぶ、とさえ言われている。
 また内的世界はしばしば偏見に支配される。交通事故の被害者になった経験のある人は合理的なレベルを超えて交通事故を恐れるようになり勝ちだ。
 統計から学ぶということが真剣に考えられるべきだろう。飛行機を怖がって自動車で移動する人は実は何百倍も危険な行為を選択している。ビギナーズラックに出会った人の中にはギャンブルにのめり込む人もいるが、ギャンブルが儲からないことは統計的に明白だ。医療においても経験と習慣に基く治療からエビデンス(証拠)に基く医療へとの見直しが進められている。
 内的世界が重要であることは言うまでもないが、より普遍的なものとしての歴史、そして最も合理的なものとしての統計の重要性を見逃すべきではない。

恥の文化

2012-10-10 13:51:33 | Weblog
 ルース・ベネディクトの古典的名著「菊と刀」によると日本は恥の文化だそうだ。西洋文化が罪という絶対的価値基準に基くのに対して日本文化は恥(=他者の目)という相対的価値評価に基く、とのことだ。
 罪という妄想よりは恥という現実のほうが少しはマシだとは思うが、他者の目を基準にすることは決して好ましいことではない。最も重視すべきなのは自分による自分に対する評価だろう。
 自分にさえ分からない真意を、他者が理解できる筈が無い。他者に分かるのは表面的な言動だけでありその意図は勿論、真意など理解できる訳が無い。こんな他者による評価を行動基準にすれば必ず矛盾に陥る。
 良かれと思ってやったことが酷い結果を招いて酷評されることは多いし、悪意に基く行為が思いがけず評価されることもタマにはある。
 他者の評価とはいい加減なものだ。ではなぜこんな他者の評価が重視されるのだろうか。社会生活のためだ。信頼関係が築かれなければ円滑な社会生活は不可能だ。誰も強盗や殺人犯とは同席したくない。悪党ではない、という評価は社会生活を営むためには欠かせない。しかしそれは消極的な価値だ。他人による評価を、自分による自分に対する評価よりも優先すべきではない。他者の目を最優先せざるを得ないのは芸能人や政治家などの人気商売の人だけだ。それ以外の人は自分による評価を重視すべきだろう。 

主観世界

2012-10-10 13:32:42 | Weblog
 同じ事象であっても人々の知覚は様々であり、それに対する認識は更に千差万別となり、その解釈に至っては無数にあり得る。つまり知覚・認識・解釈の段階を経ることによって、当初の事象とは全く違ったものが主観世界には刷り込まれる。
 織田信長は京料理が嫌いだったそうだ。公家は活動的ではないので余り汗をかかず塩分摂取の必要性が低い。一方、信長は味の濃い尾張料理に幼少から馴染み、活動的で汗を流すから塩味を好む。このように状況の違いが味覚の違いを生む。空腹は最高のスパイスと言われるように、同じ人であろうとも状況の違いによって味覚が異なる。
 味覚以外の知覚も人によって大いに異なる。鬱状態の人には世界は暗く澱んだものであり、躁状態の人には喜びに満ちたものと感じられる。同じことが起こってもその人の心理状態によって全く違ったものとして知覚されるし、それに対する認識や解釈は様々だ。
 周囲の変化を望むよりも自分の精神状態を整えることのほうが遥かに重要だ。快活でしかも落ち着いた精神状態を保っていれば無闇に妬んだり恨んだりすることなく周囲を正当に評価できる。他人にとやかく言うよりも自分を磨くことのほうが大切だ。自分を磨けば知覚される世界も豊かなものとなる。

ダイオキシン禍

2012-10-08 12:57:30 | Weblog
 ダイオキシン禍は存在する。但しダイオキシンによる健康被害は殆んど皆無で、家庭でのゴミ焼却禁止による経済的被害だけが存在する。
 ダイオキシンは簡単に発生する。有機物に不可欠な炭素を塩素と一緒に燃焼させるだけで充分だ。殆んどの動物の体には塩分(塩化ナトリウム)があるし、焼き鳥なら塩や醤油を付けて直火焼きをするから、もしダイオキシンが危険なら焼き鳥屋は命懸けのビジネスということになる。今のところダイオキシンによる健康被害を蒙った焼き鳥屋の話は聞いたことが無い。
 馬鹿馬鹿しいダイオキシン騒動のあとダイオキシン規制法が制定された。そのために家庭用焼却炉は使えなくなり、本来家庭で焼却すべきゴミを各自治体が無駄なエネルギーを使って回収して高温焼却炉へと運んでいる。
 得をしたのは高温焼却炉関連の業者だけで、それ以外の全国民が損をした。これは正に「ダイオキシン禍」と言えよう。似非学者とマスコミと政治家がグルになって誤った科学情報を流してそれによって国家的損失を蒙ったことの責任が問われねばならない。

美術品

2012-10-08 06:41:52 | Weblog
 私は美術品を好まない。権威主義的だからだ。美術品の価値はその作品の芸術性ではなく、それが誰の作品かということだ。無名の作家が大きな賞を受賞すれば無名時代の作品まで値上がりする。無名時代の作品も優れており受賞をきっかけにして再評価されるのならそれでも良い。しかし実際には作品の質は問われず、作家名に基いて一律に「1号当り幾ら」と値付けされる。
 今話題の「アイルワースのモナリザ」にしても事情は同じだ。論点は「レオナルド・ダ・ビンチの作品かどうか」であって作品の芸術性は問われていない。これでは美術品ではない。ただの骨董品だ。
 同じ芸術でも音楽や文学ではこんなことは起こらない。作品ごとに評価が下される。たとえ巨匠の作品であろうと駄作は駄作として低く評価される。「○○氏の作品だから価値が高い」などと寝ぼけたことを言う人は音楽界や文学界にはいない。ビートルズ解散後もジョン・レノンとポール・マッカートニーはヒット作を連発した。これは元ビートルズという権威に基くものではなくそれなりに優れた作品だったからだ。名前だけで売れるほど音楽界は甘い世界ではない。
 作品の価値は作品そのものが評価対象であるべきであって、作家が誰かという権威主義に基くべきではない。

余暇

2012-10-06 19:40:38 | Weblog
 生活に追われると人は生活することで精一杯になる。つまり生活するために生きるということだ。英語で表現すればlive for lifeとなるだろうか。しかしこれは妙な言葉だ。lifeはliveの名詞形だから同語反復に等しい。これではただ単に生きているだけであり植物のような生き方だ。
 考えるためには時間的・精神的余裕が必要だ。その意味で電気洗濯機は偉大な発明だと思う。一年間だけだが手で洗濯をしていた時期がある。洗濯をしている間は何もできない。一方、現在の全自動洗濯機なら開始ボタンさえ押せば後は総て機械がやってくれる。その間の時間は全くの自由時間となる。自由時間とは余暇であり余暇が文化を育む。文明生活はこうして文化を促す筈だが必ずしもそうなってはいない。余暇を精神活動ではなく享楽に使ってしまうせいだろうか。

私の失敗

2012-10-06 19:17:45 | Weblog
 退職後2年間ほど読書三昧の生活を楽しんだ。様々な本を1日1冊ぐらいのペースで読み漁った。すると困ったことになった。本が溢れ始めた。本棚に二重に並べても足りず床に直置きして二重三重に積み重ねた。そのために読み直したい本がどこにあるのか分からず、改めて買ったことさえある。古本屋にも売ったが売るペースよりも買うペースのほうが早いので部屋は本で溢れ返った。今回、転宅を機に本を整理したら重複購入した本が10冊以上見つかった。「鏡の国のアリス」は3冊もあった。やはり本は二重三重には積まずちゃんと整理すべきだった。余生を使い切っても今の蔵書を読み直し切れないことは確実なだけに本棚に見合った量に留めるべきだった。
 スーツの始末にも困っている。春夏物が約20着、秋冬物が約30着あるが、2年以上使わなかったので埃塗れにしてしまった。寄付するためにクリーニングに出すのも馬鹿馬鹿しいのでゴミとして処分するしか無い。ゴミ問題には無関心ではないだけに全く不本意なことだ。退職直後に動いておくべきだった。

可能性

2012-10-06 18:51:42 | Weblog
 中学生には多くの可能性がある。勿論あくまで文字通りの「可能性」に過ぎない。芸能人やスポーツ選手やIT長者になれるかも知れないし犯罪者になるかも知れない。残りの年数が多い人ほど今後の選択肢は多い。
 一方、私のような老人の選択肢は少ない。働こうとしてもロクな仕事は無いし、脳や体を鍛えることも難しい。精一杯努力しても現状を維持できれば上出来で、せいぜい劣化を遅らせることしかできない。
 こういう諦めの気持ちが更に老化を促す。自分の精神と肉体が腐り始めていると感じた時「滅びるべきものは滅びよ」というヤケクソの気持ちになる。
 事実は肯定されねばならない。老化するという事実は否定できない。しかし「老化は良いことだ」と積極的に肯定する必要は無い。物体が落下することが必然でもわざわざ落下を促す義務は無い。落下させないための努力は決してドン・キホーテのような虚しい戦いではない。精神的成長を諦めれば精神と感情の老化に繋がりこれが肉体の老化をも促す。精神と感情の老化こそ注意せねばならない。老いても枯れるべきではない。