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俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

東電の責任

2011-05-06 15:29:24 | Weblog
 東京電力は賠償金を支払うために電気料金を値上げするそうだ。もしこれが実施されれば賠償金は関東に住む人が負担するということになる。こんな大災害を起こしても懐が痛まないとは真に奇妙なことだ。
 但し私は道義的にはともかく法的には東電に無限賠償責任は無いと思っている。原子力損害賠償法(以下「原賠法」)では事故を起こした原子力事業者に無限賠償責任を負わせているが、その一方で「異常に巨大な天災地変または社会的動乱」による損害は免責されると明記されているからだ。もしこの1,000年に1度と言われる大震災が異常に巨大な天変地異に当たらないという首相見解を認めるなら、この免責事項はどんな天変地異にも適用されない空文になってしまう。それでは法律と言えない。従って東電は原賠法上では免責であり一般の法律に基づいて責任を問われるべきであることは明らかだ。
 菅内閣のポピュリズム体質がモロに現れている。東電批判の世論に迎合するためなら法律さえ歪めようとしている。たとえ大衆が東電を咎めようとも法律を遵守すべきだ。それが法治国家だ。
 仮に東電が原賠法上での無限賠償責任を免れたとしても有限賠償責任や刑事責任・民事責任が免除される訳ではない。原賠法以外の法律に則って適切に処罰されるべきだろう。
 東電を免責にすることには意外なメリットもある。東電だけではなく国の負担にもなることによって関東住民の過大な負担が軽減される。こんな大災害の負担は関東に押し付けずに国民全体で公平に負担すべきだろう。

放射線

2011-05-06 15:10:02 | Weblog
 大量の放射線を浴びれば死ぬことは間違いない。しかし微量の放射線はどの程度有害なのだろうか。先日、年間20ミリシーベルトの是非を巡って内閣官房参与が辞任したが一向に科学的な解明が進められていない。日本人は年間2.4ミリシーベルトの自然放射線を浴びているのだから2.4ミリシーベルトが危険値でないことは確かだろう。
 こんな時は千の議論よりも実例、つまりエビデンスに基づくべきだ。広島・長崎・チェルノブイリという被曝例があるのだから被曝者の健康被害を調べれば安全基準も明らかになる筈だ。
 そう思っていたらぴったりの本が見つかった。ブルーバックスの「人は放射線になぜ弱いか」だ。この本は初版が1985年で私が読んだのは第3版第8刷だ。25年以上読み継がれているロングセラーだから充分に検証され修正も加えられた確かな本だ。
 意外な結論だった。低レベルの放射線には人を健康にするホルミシス効果があるというものだった。広島・長崎・チェルノブイリでの少量被曝者はかえって長寿だとのことだ。年間100ミリシーベルト程度なら有害どころか有益らしい。
 例えば塩1kgを1度に食べたら死んでしまうが365日に分けて食べたら有益だろう。1,000度の熱に直接触れたら火傷をするが離れて使えば暖房になる。放射線もそういうものなのかも知れない。そう言えばラジウム温泉という健康施設もあるし放射線による治療もある。
 放射線の安全基準が一向に決まらないのは実はそれほど有害ではないからだという可能性は決して低くない。本当に有害なものなら簡単に安全基準を定められるからだ。
 なおこの本のタイトルは文字通りの意味以外に「日本人はアジア史になぜ弱いのか」という言葉のように、放射線に対する無知を指摘しているとも解釈できる。

見えない恐怖

2011-05-03 15:13:59 | Weblog
 放射能が風評被害を生み易いのは知覚できないからだろう。放射能は見えない・聞こえない・熱くも痛くもない・臭わない・味も無いから5感のどれによっても知覚できない。こんな有毒物は病原菌と無色・無臭の有毒ガス以外には殆んど無かろう。そのためにインフルエンザの感染パニックと似た反応を起こす。
 一説によると人間の情報依存度は視覚87%、聴覚7%、触覚3%、嗅覚2%、味覚1%とのことだが、これはあくまで情報としての話であり、実在性を測る要因としては触覚と視覚のウェイトが高い。触れるものと見えるものは実在すると考えられ勝ちだ。そして最優先順位は触覚だ。
 触れるけれども見えないもの、例えば透明な物体に対しては「見えないけれど在る」と評価する。逆に、見えるけれども触れないもの、例えば映像や蜃気楼に対しては「見えるけれども無い」と評価する。存在の有無の最終基準は触覚だ。
 触覚あるいは物理的な力がありながら見えない有害物を人は極度に恐れる。放射能やウィルスなどは見えないだけに過剰反応を生み易い。
 知覚の偽りについては錯視が最も広く研究されている。中でも立命館大学の北岡教授がホームページで公開している動く静止画には驚嘆させられる。一方、触覚が誤ることは少ない。珍しい実例として幻影肢が挙げられる。これは手足を失った人が指などの痛みを訴える症状だ。指に繋がっていた神経が何かの刺激に反応しているのだろうが、存在しない指を治療することは不可能だ。

ペンと剣

2011-05-03 14:59:33 | Weblog
 ある文筆家が新聞社に勤めていた時の話だ。
 彼は入社試験の小論文の採点を担当した。テーマは「ペンは剣よりも強し」だった。採点を始めてしばらくすると苛立ちを禁じられなくなった。どの論文も「ペンは剣よりも強い」と熱弁を振るう全くのワンパターンで、彼は「ペンは剣よりも弱い」というテーマで書いていれば満点を与えたいと思ったそうだ。
 新聞社を受験する人はペンの力に期待している。ペンは剣よりも強くあって欲しいと願っている。そのためにペンが剣よりも強いことが自明の理になってしまって実はペンが弱いということに気付かない。
 願望が事実を歪めるということは原発にも当て嵌まる。誰だって大きなエネルギー源である原発が安全であって欲しいと願う。しかし願望は事実ではない。願望を事実だと思い込んでいたからこそ原子力安全・保安院は形式的な審査だけで安全を保証してしまった。もし危険物という認識があったなら福島第一原発の継続使用は認められていなかっただろうし、当然今回の事故も起こらなかっただろう。
 厚生労働省は薬を危険物と認識している。従って新薬は慎重に審査される。危険と認識していれば最大限の注意を払わざるを得ない。これが原子力安全・保安院との大きな違いだ。
 願望と事実を峻別して事実に基づいて考えることの重要性を今回の原発事故から学ぶべきだろう。

事実命題

2011-05-03 14:45:47 | Weblog
 原発事故が起こる前なら私が「原発は危険だ」と言っても「電気が必要だから原発は必要だ」と反論されていただろう。この会話は議論としては成立していない。私は「原発は危険である」という事実を指摘しただけであって「原発が必要かどうか」という価値命題には論及していない。
 仮に原発が必要であっても危険であるということは事実として認められねばならない。必要かどうかは価値判断であり様々な考え方があり得る。しかし危険であるということは事実命題であって否定することは不可能だ。
 従って彼の主張は論理的には次のとおり修正されるべきだ。「電気が必要だからたとえ危険であっても原発は必要だ」と。
 もし日本人がこのことを明確に認識していれば今回の事故は起こらなかっただろう。しかし実際には「安全神話」が支配していた。それは「必要だから安全」という無茶苦茶な理屈だ。
 危険なものは必要であろうとなかろうと危険であることに変わりはない。勿論私は危険・安全という2分法は採らない。危険度が高いということだ。
 この際、つまり原発が危険なものという共通認識が生まれたからこそ、原発推進論者に鞍替えしようかと大真面目に考えている。危険性が正しく認識されればその危険性は大きく軽減されるからだ。危険なものを危険と認めない状況が最も危険だ。