俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

証明責任(2)

2014-02-27 09:26:36 | Weblog
 証明責任は訴える側にある。例えば私が誰かを泥棒と咎めたければ私にはそれを証明する義務が生じる。その一方、訴えられた人には証明責任は無いし多分それは不可能だろう。そもそも誰が、自分が泥棒でないことを証明できるだろうか。世界中の誰一人としてそんなことはできない。容疑者にされた人は必ずこう言うだろう「泥棒呼ばわりするのなら根拠を示せ」と。
 このように犯罪は訴える側に証明責任がある。こんな常識を無視して容疑者に証明責任を課しているのが偽りの戦中史だ。従軍慰安婦の強制連行や百人斬りや南京30万人虐殺などの証拠は無い。それにも拘わらず無罪を証明できないことを理由にして有罪としたのが欺瞞だらけの東京裁判だ。朝日新聞の論法はもっと凄い。たとえ証拠が無くても事実は揺るがないとまで強弁する。こんな論法が通るのなら我々全員が凶悪犯罪者にでっち上げられてしまう。恐ろしい話だ。これでは冤罪だらけになる。
 余りにも馬鹿馬鹿しい話なのでこれまで採り上げなかったが、百人斬りなど物理的に不可能だ。血糊と刃毀れがあるのでせいぜい2・3人が限度だろう。もし本当に百人も斬れる名刀があれば国宝級の逸品だろうしギネスブックにも申請できるだろう。
 非戦闘員に対する無差別大量殺戮である原爆投下や東京大空襲などの証拠は無数にあるしアメリカもそれを認めている。こんな明白な蛮行を咎めずに証拠の乏しい日本軍の犯罪を騒ぎ立てている人の心理が理解できない。これはアメリカによる歴史の捏造に加担しているだけだ。自国を断罪することが利他的行為であると勘違いをしているのではないだろうか。他者を利するために事実を歪めても構わないと信じるのは奇妙なマゾヒズムだ。精神を病んでいるのではないかとさえ疑う。

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