俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

痛感

2016-08-12 09:55:50 | Weblog
 感じるべき痛みと感じる必要の無い痛みがある。手足の痛みを感じることは重要だ。怪我を認知せずに使い続ければ悪化させてしまう。痛覚の本来の役割は損傷についての警鐘であり損傷した箇所を保護することが主たる目的だ。
 痛覚が警鐘だからこそ痛感に対する恐怖や不安が本能的に備わっている。中高齢者が関節などの軽微な痛みを気にするのはそれが本能の指示だからであり、その痛みを鎮痛剤などによって抑え込もうとする藪医者は詐欺師か邪教の狂信者のような悪の権化だ。痛みは誤魔化すべき対象ではなく原因にまで遡って治療すべきものだ。
 その一方で原因が分かっている痛みであれば誤魔化しても構わない。痛みに対する恐怖や不安が本能的なものだけに精神力まで奪いかねないから、生理痛のように原因が分かっている無害な痛みであれば抑え込んでも支障は生じない。
 私は鎮痛剤を毛嫌いしている。理念としてはこれが究極の対症療法薬であり、実際には存在している傷み(痛み)を、痛覚を麻痺させることによってあたかも存在していないかのように偽装するからだ。医学的・薬学的にも3つの弊害を伴う。鎮痛剤の常習化とそれに対する依存、副作用、他の痛みの看過の3つだ。
 私はこれまで食道癌の痛みには耐え、鎮痛剤は殆んど使わなかった。それは少しの異変も見逃すまいとしたからだ。病状に変異があればそれは痛みや不快感として知覚される。鎮痛剤はそんな病変を敏感に察知することを妨害する。一時的な安楽よりも長期的に健康の改善を図るべきだと考えた。
 しかし治療を諦めてステントを装着することによって事情は大きく変わった。ステント装着による人工的な痛みに自然治癒力は働かない。こんな痛みは生理痛などと同様に揉み消してしまっても構わない。そう開き直ると鎮痛剤が必需品になった。
 痛みに耐えている間は思考力が激減するから読書さえままならない。苦しみに悶々とするばかりでまとまりの無い考えが渦巻くばかりだからブログの記事を書くことさえできなくなる。私は元々スラスラと書けるタイプではない。アイデアを思い付いてもそれを文章にするために悪戦苦闘をする。ところが鎮痛剤で痛みを抑えるだけで執筆能力は高まる。思考が整理され易くなるからだ。
 たかが腹痛のせいで文章を書けなくなるのは思考力が低下するからだ。抗癌剤治療の後も腹痛のために長期間ブログを休んだが、肉体的な痛みがあるだけで人は思考力を失う。秩序立った思考が困難になり刹那的・衝動的な思考しかできなくなる。
 私に残された時間は余り多くない。納得して、夕べの死を受け入れるためには朝(あした)に道を聞いておく必要がある。そのためにはたとえ鎮痛剤のような悪魔の薬に頼ってでも脳の働きを活性化すべきだろう。精神錯乱を招きかねない危険な薬物でさえなければ、鎮痛剤という毒物でさえ薬として役立ち得る。

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