俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

アニメの名曲

2011-03-08 15:42:33 | Weblog
 古典アニメの主題歌で現在でも親しまれている歌が3曲ある。
 まずは、昨年の紅白歌合戦にまで登場した「ゲゲゲの鬼太郎」が挙げられる。次に「天才バカボン」だ。作者の赤塚不二夫氏が出演するCMで流される「♪これでいいのだ~」がその歌だ。そして「狼少年ケン」だ。
 「え?」という声が聞こえそうだ。「そんな歌は知らない」と言われそうだ。
 「狼少年ケン」の主題歌はロッテのフィッツのCMに使われた。佐々木希さんのフニャフニャダンスが話題になったCMだ。あの「フニャンニャニャンニャン~」は元々は男声低音による「ボバンババンボン~」で原住民による太鼓をイメージさせるフレーズだった。 
 残念ながらこのアニメが再放映される可能性は皆無だ。狼に育てられた日本人ケン少年が野蛮な土人と戦うという、ターザンと同質の人種的偏見に満ちた作品だからだ。
 この歌には明らかにモデルがある。メロディが全然違うので盗作ではないがアイデアをパクっている。ジョニー・シンバルというアメリカ人歌手による「ミスター・ベースマン」という歌だ。世界的にヒットした歌なので高齢者なら知っている人も少なくなかろう。高音のジョニー・シンバルが低音の男性とデュエットをして低音の魅力を世に知らしめた名曲だ。
 古い歌が再評価されることは嬉しいが、それが新しい歌のレベルが低いからだったら寂しいことだ。サザン・オールスターズがいつまで経ってもトップアーティストであることは必ずしも好ましいことではない。

差別の容認

2011-03-08 15:27:39 | Weblog
 アメリカでは能力による差別だけが認められておりそれ以外の差別は一切禁じられている。人種差別や女性差別は勿論のこと年齢による差別も許されない。従ってアメリカには定年制が無い。
 日本では3つの差別が認められている。年齢と努力と喫煙だ。
 年齢による差別は不思議なほどに受け入れられている。定年を迎えればどれほど元気で能力もやる気もあってもクビになる。そのため定年退職した技術者が中国などの企業に雇われて最新技術の流出を招いている。
 努力は本来、成果のための手段に過ぎないが、日本においては結果以上に高く評価されている。努力することはぞの内容や質を問わずそれ自体が価値ある行為と見なされる。その一方で努力不足の人や努力しているように見えない人は冷遇される。それを避けるために皆が忙しそうな振りをする。上司が帰るまでは誰も帰らないという変な我慢比べをするのは日本人だけだろう。
 最近の喫煙者差別は度を越している。厚生労働省の調査によるとほぼ半数の企業が採用において喫煙者を差別しているそうだ。確かに喫煙者は喫煙のために離席せざるを得ない。しかしこれを根拠にして差別することが許されるのならトイレの使用頻度が高く時間も長い女性が差別されることも認められるだろう。
 日本では容認されているこの3つの差別はどれも不当なものだ。なぜ問題にさえされないのだろうか。

奴隷と労働者

2011-03-08 15:12:15 | Weblog
 資本家にとって奴隷は財産だが労働者は労働力を得るための手段でしかない。この事実が困った事態を招く。
 奴隷は財産だから大切にされる。奴隷が病気や怪我をすれば財産が損なわれることになる。従ってそうならないように細心の注意が払われる。栄養や住環境にも配慮して健康を保たせようとする。奴隷は決して悲惨な境遇ではない。自由が無いだけで快適で健康な生活が保証されている。
 一方、労働者はどうか。資本家にとって必要なのは労働力であって労働者などはどうでも良い。労働力は代替が可能だから自由市場で労働力が買えるならできるだけ安く扱き使おうとするのは当然のことだ。扱き使ったために労働者が病気になろうと死のうと資本家の懐は痛まない。雇っていた労働者が使い物にならなくなったら労働市場から新しい労働者を雇えば済むことだ。
 その結果として労働者は奴隷以上に過酷な労働を強いられる。社内生存競争に晒されて過労死するまで働くことになってもそれは自由人としての本人が選んだ道だ。
 イソップが奴隷だったことは良く知られている。しかし古代ギリシャの奴隷は我々がイメージする奴隷とは全然違う。肉体労働者だけではなく教師や公務員や管理職までもが奴隷の仕事だった。
 資本主義社会では労働者であるよりも奴隷であるほうが幸せなのではないだろうか。人を労働の手段として雇用する自由労働よりも人そのものに投資する奴隷制のほうが人道的なシステムだとさえ思える。