信仰者のあり方として、旧新約聖書が一貫して示しているのは、神の約束に立つ生き方です。旧約聖書は、アブラハムに告げられた神の約束がいかに成就していったかを記すと共に、民の背きの罪にもかかわらず、なおも約束の実現に向かって進んでいくべきことを告げています。新約聖書は、旧約聖書で告げられた約束がイエス・キリストを通して果たされたことを告げると共に、終りの時、なお実現していない領域が主イエスの再臨と共に果たされることを告げています。
これらのことを踏まえつつ、福音に生かされた者の生き方は「希望に生きる」ということであることに触れて、このブログ・シリーズを終えていきたいと思います。
「神の国」について取り上げたとき、それは「すでに」と「いまだ」の両面を持っていることをご説明しました。このことは、「永遠のいのち」、「救い」といった表現についても同様です。使徒ヨハネは、御子を信じる者は既に永遠のいのちを持つと書き(ヨハネ3:36)、同時に、将来、善を行った者が生命を受けるためによみがえる時があるとの主イエスの言葉を記録します(ヨハネ5:29)。使徒パウロも、キリスト者は既に「新しいいのちに生きる」者とされていると言いますが(ローマ6:4)、同時に「永遠のいのち」はきよき信仰者の歩みの終極のものとしています(ローマ6:22)。使徒パウロは更に、信仰者は既に「救われた」と言いますが(エペソ2:5、8)、同時に、「救われるであろう」(ローマ5:10)とも言います。すなわち、罪を悔い改め、キリストを信じた者は、「すでに」永遠の命を持ち、神の国に生かされており、救われていますが、同時に、「いまだ」という側面も持っており、永遠の命を受け、神の国に入り、救われることが将来のこととして残されている、ということです。
このようなことを踏まえると、福音は私たちに「希望に生きる」よう招くものでもあることが分かります。「希望」という言葉の意味合いは、受け取り方によって様々であるかもしれません。場合によっては、淡い夢のようなイメージを抱くこともあるかと思います。しかし、福音が示す希望は、「すでに」ということを土台とした希望です。既に神の国に入れられているので、将来神の国に入れられることについて確信を持つことができます。既に永遠の命を持ち、救われているので、将来、永遠の命が与えられ、救われることについて疑う必要がありません。そして、「すでに」ということは、聖霊を受けていることを通して確証されます(エペソ1:14)。
また、キリスト者の希望は揺らぐことのない神の約束に立った希望です。「もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう。」(ローマ5:10)この神の約束に立ち、私たちは希望に生きることができます。その希望は、信仰者が地上にあって経験する様々な苦難を耐え忍ぶ時の土台となります(ローマ5:2-5、8:17-25)。
信仰者の希望の実現は、私たちの主イエスが再びおいでになる時にもたらされます。「そして、(あなたがたがどんなにして)死人の中からよみがえった神の御子、すなわち、わたしたちをきたるべき怒りから救い出して下さるイエスが、天から下ってこられるのを待つようになったかを、彼ら自身が言いひろめているのである。」(第一テサロニケ1:10)
将来与えられる救いの中心にあるのは、永遠に神と共にいます幸いでしょう(黙示録22:3-5)。しかし、その時起こることは、いわゆる霊的な領域にとどまるのではないことに注意する必要があります。「しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう。」(ピリピ3:20、21)ここにはキリストの復活のみわざに基づき、信じる私たちにも栄光の体が備えられることが示唆されています。
更に、将来の救いは、キリストにある者だけにとどまらず、被造物全体にも及ぶことさえ示唆されます(ローマ8:19-21)。天と地さえも新しくされることが告げられています(黙示録21:1)。
神様が天地万物を創造されたとき、「それは、はなはだ良かった」と言われました(創世記1:31)。しかし、人が罪を犯したとき、「地はあなたのためにのろわれ」ることが告げられました(創世記3:17)。楽園は食べるに良い多くの木があったはずですが、「いばらとあざみとを生じ」るものとなりました(創世記3:18)。しかし、世の終わり、新天新地において現れる聖なる都の情景は次のようです。「御使いはまた、水晶のように輝いているいのちの水の川をわたしに見せてくれた。この川は、神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れている。川の両側にはいのちの木があって、十二種の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす。のろわるべきものは、もはや何ひとつない。」(黙示録22:1-3)
もちろん、世の終わり、どのようなことが起こるのか、具体的に、詳細にわたって告げられているわけではありません。むしろ、今はまだ分からないことのほうが多いに違いありません。しかし、古くからの約束(旧約聖書の約束)に従って、御子を送ってくださり、私たちに救いを与えてくださった神様が、やがて世の終わりに、再び御子を通して、最終的な救いに導き入れてくださることを確信することができます。
その希望は、私たちの生き方を揺るがないものとします。神の御心にかなうきよい道へと私たちを励まします。あらゆる苦難に耐えさせます。終りの時を目指しつつ、今を誠実に生きさせます。
「愛する者たちよ。わたしたちは今や神の子である。しかし、わたしたちがどうなるのか、まだ明らかではない。彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている。そのまことの御姿を見るからである。彼についてこの望みをいだいている者は皆、彼がきよくあられるように、自らをきよくする。」(第一ヨハネ3:2、3)
「わたしは思う。今この時の苦しみは、やがてわたしたちに現わされようとする栄光に比べると、言うに足りない。被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。(略)それだけでなく、御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。わたしたちはこの望みによって救われているのである。」(ローマ8:18-24)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます