長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

信仰への招き  14.神の民

2020-01-11 11:46:47 | 信仰への招き
自分の的外れな生き方を悔い改め、イエス・キリストを救い主、主として信じるとき、救いが与えられることを見てきました。前回は、それが神の子とされることでもあるということを見ました。これらのことは、一見、個人的な問題であるように見えますが、聖書全体を見るとき、決してそれだけのことではないことが分かります。
 
福音書を見ると、主イエスが宣教の働きを進める上で、個人的な関わりを大切にされたと同時に、この地上に新たな共同体を形づくることに意を用いていたことが分かります。その宣教活動の最も初期から、ご自分と行動を共にする弟子達を集めたこともその一つの表れでしょう(マタイ4:18-22等)。彼らの中から十二使徒と呼ばれる人々を選ばれたことは、続くステップと言えます(マタイ10:1-4等)。その後は、彼らを中心に宣教訓練を与えたり(マタイ10:5-42)、群衆への教えとはまた別にみ言葉を教えたりなさいました(マタイ13:10-52等)。ペテロがイエスに対して「あなたこそ、生ける神の子キリスト」と告白したときには、信仰共同体としての教会の設立を宣言されます(マタイ16:18)。
 
使徒行伝を見ると、主イエスの十字架の死と復活の後、五旬節の日に聖霊がくだったところから、教会の宣教の働きが始まった経緯が記されます。ペテロが聖霊に満たされ人々に語ったことは、「この曲った時代から救われよ」という言葉で締めくくられましたが、その結果について、次のように記録されます。「そこで、彼の勧めの言葉を受けいれた者たちは、バプテスマを受けたが、その日、仲間に加わったものが三千人ほどあった」。福音を聞いた一人ひとりが信仰により救われたということは、同時に「仲間に加わった」こととして記されます(使徒2:40、41)。個人の救いと共同体の形成が同時進行で進められることは、使徒行伝の中で繰り返し記録されるところです(使徒2:47、6:7、9:31)。
 
このような過程の中で、この共同体にいわゆる異邦人(ユダヤ人から見て)が加わるようになったことについて、福音書と使徒行伝は注意深い記録を残しています。そして、この過程の中で、旧約の神の民イスラエルは、新約の神の民教会とどのような関係にあるのか、神が旧約の神の民イスラエルに与えられた律法を、新約の神の民である教会がどのように扱ったらよいのか、何度も問われることになります。この問題は始まったばかりの教会の歩みの中で、決して小さな問題ではなく、繰り返し問われ、検討され、解答が示されていきます(使徒15:1-29、ガラテヤ書、ローマ書の全体、エペソ2:11-19、へブル書の全体等)。
 
いずれにしても、ここで確認したいことは、福音を信じて人が救われるということは、個人的な出来事であると同時に、信仰共同体である神の民に加えられることです。
 
使徒パウロは、エペソ2章の前半で、救いの個人的側面を扱います。「さて、あなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、(略)しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし―あなたがたの救われたのは、恵みによるのである」(エペソ2:1-5)これらの言葉は、信じた者に与えられる救いの恵みがどれほど大きなものであるかを、主として個人的な側面から語ったものです。
 
しかし、直後、パウロは、このことを共同体的側面から語り直します。「だから、記憶しておきなさい。あなたがたは、以前には、肉によれば異邦人であって、手で行った肉の割礼ある者と称せられる人々からは、無割礼の者と呼ばれており、またその当時は、キリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約束されたいろいろの契約に縁がなく、この世の中で希望もなく神もない者であった。ところが、あなたがたは、このように以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いものとなったのである。キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄されたのである。(中略)というのは、彼によって、わたしたち両方の者が一つの御霊の中にあって、父のみもとに近づくことができるからである。そこであなたがたは、もはや異邦人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである。」(エペソ2:11-19)
 
ここでは、「肉によれば異邦人」であった者が、いわば「霊においてイスラエル」とされたことが示唆されています。同時に、そこでは肉によるイスラエルと異邦人との間を隔てていた中垣が取り除かれ、霊において一つのものとして父なる神の前に出る者とされていることも明確にされます。このようにしながら、キリストによる救いが個人的なものであると同時に、共同体的な側面を持つことが示唆されます。
 
使徒ペテロの次のような言葉の中にも、同様のことが示唆されています。「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招きいれて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。あなたがたは、以前は神の民でなかったが、いまは神の民であり、以前は、あわれみを受けたことのない者であったが、いまは、あわれみを受けた者となっている。」(第一ペテロ2:9、10)
 
福音を信じ救われた者は、同時に、神の家族に迎えられたことを知る必要があります。「神の子」として新しく生まれた者が、一人で信仰を守り、その歩みを進めていかなければならないとしたら、それはどんなに厳しく大変なことかと思います。神は信仰者のために、神の家族を備えてくださいました。信仰者は神の民の一員として歩み、その中で信仰が養われ、神の民として成長していきます。そうしながら、信仰の仲間たちと共に、受けた恵みを世に証しする使命を担っていきます。
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