長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

信仰への招き  19.人と共に生きる

2020-04-04 10:42:17 | 信仰への招き

前回、福音が回復を与える人の生き方の中心にあるのは、人が神と共にあるということだということを見ました。しかし、福音が回復を与えるもう一つの側面があります。愛の内に人が人と共にあるということです。

人が罪を犯したとき、神のかたちに造られた人間が損なってしまったものの一つは、人との間に築かれるはずの愛の関わりでした。アダムはエバが与えられたときの喜びも吹き飛び、いつのまにか罪の責任をエバに転嫁していました。罪がもたらした人と人との関係破壊は、世代が下ると共に広がり、深まります。アダムの次の世代には、人殺しも起きました。ノアの時代になると、「暴虐が地に満ち」ました(創世記6:11)。

このような中、神様はアブラハムとの間に契約を結ばれます。それは、「あなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう」という約束でした(創世記12:2)。これは、神様の祝福をアブラハムの子孫にだけ限定するという約束ではなく、「地のすべてのやからは、あなたによって祝福される」というように(創世記12:3)、アブラハムの子孫を通して神様の祝福が地のすべての者たちに広がる計画を含んでいました。

やがて、アブラハムの子孫の中からイスラエル民族が生まれます。この民を神様は「わたしの民」と呼ばれます(出エジプト3:7)。シナイ山で神様は彼らに律法を与え、民との間にいわゆるシナイ契約が結ばれます。十戒が示すように、律法は神を敬い大切にすると共に、人を大切にすることを教えるものでした。彼らは神に選ばれた宝の民でしたが(申命記7:6)、神の民としてのあらゆる祝福は、律法を守ることが条件とされました(申命記28章)。

しかし、その後のイスラエル民族の歴史は、律法を守らず、祝福でなくのろいを受ける歴史を繰り返すものでした。その中で、既に繰り返し見てきたように、預言者エレミヤを通して「新しい契約」を立てる日が来ることが告げられます。その内容は、「わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす」というものでした(エレミヤ31:33)。

やがて、イスラエルの民の中に現れた主イエスは、弟子たちの前に律法の成就者としてご自分を示されます(マタイ5:17)。その教えは、人との関わりにおいて心の内面のあり方を示唆するものでした(マタイ5:21-28)。また、隣人愛の戒めが歪められ、「隣り人を愛し、敵を憎め」と言い慣わされていたことに対し、「敵を愛する」という衝撃的な教えを語られました(マタイ5:43-48)。

ルカによる福音書には、主イエスがなさった一人の律法学者との対話が記されています。「何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」、「律法にはなんと書いてあるか。」「『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。また、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』とあります」、「あなたの答は正しい。そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる。」対話がここまで進んだとき、律法学者はどういう訳か「自分の立場を弁護しようと思って」主イエスに質問しました。「では、わたしの隣り人とはだれのことですか」。

ここには、当時のユダヤ人たちの「隣り人」に対する考え方が伺えます。すなわち、彼らの中では「隣り人」と「敵」を区別し、「隣り人」だけを愛すればよいという考え方です。おそらくは、そこには「隣り人」=ユダヤ人、「敵」=異邦人という考え方も色濃くあったでしょう。しかし、そこでイエスがなさったたとえ話は、彼(ら)のそのような概念を打ち破るものでした。あるユダや人が旅の途中、強盗に襲われ、半殺しの目に遭います。そこに一人の祭司、次には一人のレビ人が通りかかります。しかし、彼らはこの人を見かけつつも、道の向こう側を通って過ぎていきます。最後にサマリヤ人が通ります。当時、サマリヤ人とユダヤ人は仲の悪い状況がありましたが、どういうわけかこのサマリヤ人はこの人に近寄り、手当てをし、宿屋まで連れて行って介抱します。宿賃さえ払ってその場を立ち去ります。このような話をされて、最後に主イエスは律法学者に問います。「この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか。」律法学者は話の上でのことであったとしても「サマリヤ人が」とは言いたくなかったのでしょうか。「その人に慈悲深い行いをした人です」と答えます。すると、主イエスは言われます。「あなたも行って同じようにしなさい」(ルカ10:25-37)。ここには、「隣り人」と「敵」を分けようとする考え方でなく、あらゆる枠を越えて「隣り人となる」生き方が示されています。

更に、マタイによる福音書を見ると、主イエスは終末について弟子たちを教えた最後に、次のように言われます。「人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼たちが羊とやぎを分けるように、彼らをより分け、羊を右に、やぎを左におくであろう。」(マタイ25:31-33)この時、羊とは「最も小さい者のひとり」に対して「空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ね」た者たちであり、キリストはそのような者たちの働きをご自分にしてくれたとみなされ、彼らは御国を受けつぐと言われます。逆にやぎとは「最も小さい者のひとり」に対してそのようにしなかった者たちであり、彼らはキリストに対してそうしなかったとみなされ、永遠の刑罰を受けると言われます。ここには、社会の困窮者たちに対する愛のわざの有無が終末における審判の基準となることが教えられています。

なお、福音書、使徒行伝、およびパウロの手紙を綜合的に見ると、神がアブラハムと結ばれた契約が、血縁的な子孫(すなわちイスラエル民族)を中心としたものから霊的な子孫(すなわちキリストを信じる者たち=教会)を中心にしたものへと重心を移したと考えることができます。特に、パウロの手紙では、血縁的なアブラハムの子孫に与えられた律法が、霊的なアブラハムの子孫において初めて真の成就がもたらされるという神の計画が明らかにされます。「律法からの解放と律法の成就」の回で書いたように、「彼はユダヤ人律法が一時的役割を終えたことを示唆し、そこからの解放を明確に打ち出すと同時に、その本質的役割は愛の律法において継続され、信仰と聖霊によって成就されていくことを明示」しています。こうして、キリストへの信仰によって結び合わされた信仰共同体(教会)は、「愛をもって互に仕えなさい」(ガラテヤ5:13)、「神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、あなたがたも互にゆるし合いなさい」(エペソ4:32)と、愛とゆるしの共同体であるべきことが教えられます。

他方、ヨハネによる福音書は、主イエスが弟子たちに「新しい命令」を与えられたことを記録します。「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える。互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう」(ヨハネ13:34-35)。主イエスの愛を信じる信仰者共同体が特色とすべきなのは「互に愛し合う」ということであるべきだと言われます。「新しい戒め」については、ヨハネの手紙でも言及され(第一ヨハネ2:8)、「神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互に愛し合うべきである。」と、主イエスの言葉とも重なる示唆を与えます(第一ヨハネ4:11)。

また、ヤコブの手紙では特に社会的に弱い立場にある人々への無関心を打ち破るべきことが示唆されます。「父なる神のみまえに清く汚れのない信心とは、困っている孤児や、やもめを見舞い、自らは世の汚れに染まずに、身を清く保つことにほかならない。」(ヤコブ1:27)これは、主イエスが弟子たちに語られた終末の審判についての教えと重なります。

以上のことを総合的に考えると、楽園において破壊された人と人との関係が回復されるための神の計画の焦点は、主イエスを通して神の愛のもとに集められた信仰共同体に置かれていることが分かります。そこには聖霊の働きがあり、内的な変革が与えられ、互いに愛し合いゆるし合う生き方が励まされていきます。それは、単に共同体内部で互いに愛し合うことで終わるものではなく、そのことによって、互いに愛し合う生き方を世に示します(ヨハネ13:35)。世界に向けての宣教は、神と共に生きる生き方への招きであると同時に、互いに愛し合う生き方への招きでもあります。更に、彼らの信仰はより具体的に社会において困窮した人々への愛のわざとなって結実すべきことが教えられています。

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