長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

クリスチャンであるとは(N・T・ライト)

2015-06-20 14:53:51 | 

N・T・ライトは、世界の聖書神学者の中でも、現在、相当大きな影響力を持って活躍している方だと思いますが、その著作は、これまで、ティンデール注解シリーズのコロサイ・ピレモン書の注解書を除いて、日本では翻訳されていませんでした。私自身、大きな関心を持ちつつも、英語の本をさっさと読み進めるというわけにはいかない英語力ですので、この本の翻訳には大きな感謝を覚えます。一般向けと言われる三部作の第一作として書かれたということですが、N・T・ライトの神学思想に断片的にしか触れることができなかった私としては、かなり分かりやすくまとまった形でその神学思想に触れることが出来たのは、大変ありがたいことでした。

「一般向け」とは言え、その内容はかなり高度なものを含んでいるように思います。歴史や世界情勢、宗教や哲学など、幅広い問題意識を持っている方向け、という感じもします。そうでない方にとっては、クエスチョンマークばかりついて、読み進めるのに困難を覚える場合もあるかもしれませんが、逆に、そういう問題意識を持っている方であれば、クリスチャンでない方であってもかなり強く訴えるものを持つのではないかと想像します。

この本を読んで残った印象の一つは、「複雑さを引き受けつつ、その中から語りかけている」というものでした。たとえば、信仰を勧める本としては異例と思えるほど、世界や歴史の複雑な様相、キリスト教会の負の歴史にさえも正直に向き合い、それらを踏まえつつも、その中から語りかける聖書のメッセージがあることを著者は提示しています。あるいはまた、「一般向け」とは思えない程、聖書の成立やその解釈についても複雑な議論があることを示しつつ、また、聖書のメッセージの語られ方自体、重層的であり、複雑な要素を持っていることを踏まえつつ、けれども創世記から黙示録まで聖書全巻を貫く統一的テーマがあることを示しています。

以下、この書の内容を要約的にご紹介します。想像力をかきたてる色々なイメージに彩られた本書ですので、分析したり、要約したりすることは、本書の性格にそぐわないような気もしますが、この書の中の様々な主張、視点、概念を私自身の中で整理させたいという意図からのことですので、私個人のための「覚え書き」と受け止めて頂ければ幸いです。


本書全体は、三部に分かれています。


第一部「ある声の響き」は、「今日の世界において関心が高まっている四つの領域」を示します。ライトは、これらの領域に目を向けながら、「それぞれのテーマについて、ある声の響きが聴こえてくるまで耳を澄ませてみること」を提案します。四つの領域とは、具体的には、「義への希求であり、霊的なことへの渇望であり、人間関係への飢えであり、美における歓び」と言われます(2頁)。義への希求では、世界中に見られる不正の問題が扱われ、信仰入門書でありながらそんなところから議論が始まっているのも興味深いところだと思いますし、霊的なことへの渇望についての第2章冒頭、国中の水源をコントロールしようとする独裁者の描写は、生涯忘れないと思われるほどの強い印象を私の中に残しました。

この部分の背後にある神学的な課題は、おそらく、「神のかたち」だろうと思いました。この点については、56頁で触れられていますが、この言葉自体を前面に大きく出すことは控えられています。あくまでも一般の人々の理解や意識に沿う形で、現代人の心の中にある求め、渇きを示唆しています。そうしながら、読者の目を少しずつ創造者なるお方に向けさ、「始めたことを完成し、また、いまの世界で失われ、奴隷状態にある人々を救い出すために来られる神の物語」に目を向けさせます(69頁)。


第一部が序論だとすれば、第二部「太陽を見つめる」は、本書の本論と言えます。第5章の「神」では、「神」なるお方についての存在についてのしばらくの議論の後、本書全体のもう一つの重要テーマが示されます。「神は天におられる」ということの意味、そして「天」と「地」との関わりについての議論です。ライトは、両者の関わり方について、三つの理解があることを指摘します。選択肢<一>、選択肢<二>、選択肢<三>の内容については、実際に本書をお読み頂きたいと思いますが、これら三つの理解については、第二部全体を越えて、第三部においても繰り返し指摘されます。私としては、本書を理解する上での最重要概念なのではないかと受け止めました。

続く第6章「イスラエル」は、神の救済の物語においてイスラエルの物語を不可欠のものとするライトの見方をよく表わしています。ライトはアブラハムから始まるイスラエルの物語の中に、「新しい世界、回復された世界、創造者によってもう一度祝福される世界を示すヴィジョン」を見ます(107頁)。それは、アブラハムと結んだ契約の故に確固としたものでありつつ、彼自身、またその子孫の人間性の故に繰り返し頓挫するようにも見えます。それゆえ旧約聖書全体は、「奴隷状態と救出の物語であり、捕囚と回復の物語である」と言われます(108頁)。そのような中で、「人の子のような方」による「『神の国(王国)』到来」へと焦点が合わされていきます(114頁)。

なお、イスラエルの物語を巡る四つのテーマとして、王、神殿、トーラー、新しい創造が取り上げられます。一つひとつ興味深いテーマですが、よく読んでいくと、これらのテーマが、第一部で取り上げた四つの飢え渇きに対応していることが分かります。たとえば、「神殿」のテーマについては、このように記されます。「いつの日か真の王が立てられるとき、(中略)天と地が出会うのにふさわしい場が再建されることになる。人々が深く渇望していた霊的なこと、つまり神に近づくことが、ついにかなえられる。」(118頁)。霊的な渇望を満たすものとして、神殿再建のテーマが捉えられています。(なお、ここで「天と地との関わり」のテーマとも深く結びつけられていることにも注目)。そして、これら四つのテーマの成就をもたらすお方として、一人のお方に焦点を合わせていくことになります。

第7章、第8章は、イエス様に焦点を当てた章です。特に第7章「イエス―神の王国の到来」は、第6章からの流れを受けて記されています。ライトは、キリスト教の本質がどこにあるかについて、次のように書きます。「キリスト教は、いまも生きている神が、ご自身の約束の成就として、またイスラエルの物語のクライマックスとして―見つけだし、救いだし、新しいいのちを与える―というすべてが、イエスにあって成し遂げられたと信じることにほかならない。」(133頁)。イエスについての歴史的把握の可能性の問題、福音書の信頼性の問題を取り上げた後、イエスの宣教の中心にあった「神の王国」を取り上げます。その働きと教えがこのテーマとの関わりのもとに位置づけられることを指摘します。

「神の王国」をイエスの宣教の中心テーマとしてとらえることは、聖書神学の世界では当たり前のことでしょうが、ライトの特徴として印象に残ったことが二点あります。第一は、このテーマをイスラエルの物語とのつながりの中に位置づけていることです。「神の国は近くなった」という宣言について、「異教徒の圧政から人々を救出し、世界が正されることを切望していたユダヤの民の住む世界に向かって、言い換えれば、完全な究極の王となることをついに宣言した」と指摘します(143頁)。ここでは、約束の成就としてイエスご自身が位置づけられ、その宣言はユダヤ人のメシヤ待望の背景の中で語られたことが指摘されています。同時に、続く議論の中では、イエスが王であるということのあり方とユダヤ人のメシヤ待望との間にずれがあることも指摘されていきます。第二には、「天と地」のテーマとの関わりです。「神の王国がいま到来したと語ることは、すべてのナラティブが集約されることであり、そのクライマックスに至ったことの宣言である。まさに神の未来が、現在に突入しようとしている。天が地に到来しようとしている。」(144頁)「神の未来が、現在に突入しようとしている」という指摘は、「開始された終末論」として多くの聖書学者が指摘してきた点かと思いますが、同時に、「天が地に到来しようとしている」との指摘がなされています。

第8章「イエス―救出と刷新」は、イエス様の十字架の死と復活に焦点を当てた章です。第7章で指摘したユダヤ人のメシヤ待望とのずれが次第に明らかになっていく中、受難予告は、弟子たちの間でも誤解されざるを得なかったことが示唆されます。敵への勝利、神殿の再建などを通して王国をもたらすメシヤが期待される中、そのメシヤが死んでいくということは理解しがたいことでした。しかし、イエスご自身の理解は、ご自分を「苦難のしもべ」として見るものであったと指摘します。「このしもべは王であると同時に、苦難に遭う」(154頁)。神殿への攻撃、過ぎ越しの晩餐に続いて、イエスは十字架の死に向かわれます。「神が自分の民と全世界を単に政治的な敵から救い出すのではなく、悪そのものから、人々を捕らえていた罪から救い出す時がきた。」(157頁)「天と地の狭間で木に吊るされながら、イエス自身が天と地の出会う場となる。」(158頁)「天の悲しみと地の苦しみとが結びついた。未来のために蓄えられてきた神の赦しの愛が、現在にどっと注ぎ出された。多くの人々の心に響いている声、すなわち義を求める叫び、霊的なものへの渇き、関わりへの飢え、美への憧れ、それらすべてが、悲惨な断末魔の叫びに合わさった。」(159頁)ライト独特の新鮮な角度から十字架の死の出来事が表現されています。

イエスの復活については、それが蘇生や「認知的不協和」では理解できないことを指摘した後、そのからだが「どこか異なっていた」と指摘します(161頁)。ここで著者は、「このような結論は、科学的視点から見るとまったく物足りないように思われる」という課題を取り上げます。これに対する著者の回答は、次のようなものです。「イエスが死者の中からよみがえったと信じることは、通常は変えようがないと思われることに対して、少なくとも判断を控えることである。もっと肯定的に言うなら、そんなことは起こらないという世界観を入れ替え、創造者である神がイスラエルの伝統を通して知らせようとしたことが、いまやイエスにあって、ついに完全なかたちで実現したという考え方を受け入れ、その視点からすれば、イエスのよみがえりはまったく理にかなっている、と認めることである。」(163頁)同時に、多くのクリスチャンの誤解に対して、復活が「死後のいのち」ではなく、「『死後のいのち』の後の『いのち』」であるとも指摘します(164頁)。更に、「天と地」についての選択肢<1>や<2>ではなく、選択肢<3>によって復活を見ることが妥当であることを指摘し(165頁)、次のように記します。「イエスがよみがえられたとき、神のすべての新しい創造が墓の中から現れ出て、この世界に新しい潜在力と可能性に満ちた世界を導き入れたのである。」「イエスが墓の中から立ち上がり、出てきたとき、義と、霊性と、関わりと、美が、イエスと共に立ち上がったのである。イエスの内に、またイエスを通し、何かが起こり、その結果、世界は異なった場に、すなわち天と地が永遠に結びつく場となった。」(166頁)

章の終りに、イエス様の神性の問題が議論されます。読み進めていた手を止め、「ライトはイエス様の神性を否定しているのか」と考えましたが、落ち着いて読めばそうではないと分かりました。ただ、イエス様ご自身の自覚において、受肉の理解を深めたものと言えるかと思います。「この点でも多くのクリスチャンは間違った方向に進んだ。イエスがその生涯の間、自分が『神である』ことに『気づいていた』というのである。」(169頁)まさにそのように読んできた私にとって、クエスチョンマークがついたわけですが、ライトは次のように説明します。「寒いか温かいか、うれしいか悲しいか、男か女かを私たちが知るのと同じように知っていたとは思えない。むしろ私たちが、自分の使命と結びつけて考える『知識』のようなものだったろう。それは、自分の存在の深みで、ある人が芸術家、技術者、哲学者に召されているのを知っているのというような意味である。」(170、171頁)このような理解は、私にとってはなじみのないものであっただけに、今後、吟味していきたいと思います。

第9章、第10章は、聖霊に焦点を当てた章です。第9章「神のいのちの息」は、ペンテコステの日の出来事についての「使徒の働き」の描写から、風と火、及び新しい命をもたらす鳥のイメージがあることを指摘する所から始まります。そして、使徒1:7-8を引用しながら、聖霊と教会の務めが切っても切れない関係にあることを指摘します。ここでライトは、聖霊が与えられることには、個人に多くのものをもたらすことを否定しませんが、主たる目的が福音の宣教にあることを示唆します。

続く「神の霊なしに教会は教会でありえない」(175頁)との一文をきっかけとして、ライトは、「教会」という存在について言及します。現在、この言葉に否定的イメージがつきまとっていることを率直に認めつつも、次のように書きます。「聖霊が与えられていることで、普通のはかない存在である私たちが、イエス自身がそうであったものに幾分かでも近づくことができるのである。すなわち、神の未来が現在に到来している部分に、天と地が合わさっている場に、神の王国が前進していくための手段に、近づくことができる。」(177頁)

続いて、ライトは、「聖霊が与えられたのは、神の未来を現在に現実化する働きを始めるためである」(177頁)と言い、神の未来の保証としての聖霊に言及します。アラボーンの意味合い、聖霊が「受け継ぐこと」の保証と呼ばれていることが言及され、出エジプトから約束の地に向かうテーマが描かれていることを指摘します。ここでライトは、「受け継ぐもの」、すなわち「約束の地」とは、肉体から離脱した天国ではなく、世界の再生であることを指摘します。「いつの日かやがて、造られたものすべてが奴隷状態から救い出される。また、美を損なう堕落と腐敗と死から、関係の破壊から、神の臨在の喪失から、さらには、世界を不正と暴力と残虐の場とすることから、救い出される。これこそが、救出、『救い』のメッセージであり、パウロが書いた中で最も偉大な章の一つである『ローマ人への手紙』第八章の核となるものである。」(180頁)未来が現在に到来し始めているとは、「イエスに従う人々、つまり、イエスはこの世界の真の主であり、死者の中からよみがえった方であると信じ、認める人々には、新しい世界がどのようなものかを前もって味わうために聖霊が与えられた、ということである」と説明します。(180頁)このような論述を振り返りつつ、クリスチャンが「生ける神の宮、神殿」とされているとのパウロの言葉を指摘します。(181頁)

更に、ライトは、「神の未来を現在にもたらすお方」としての聖霊と共に、「天と地を結びつける方」としての聖霊を説明します。ここで、再び「天と地」についての理解の三つの選択肢について言及し、「新約聖書が聖霊について語っていることを理解する枠組み」として適切なのは、選択肢<三>であると指摘します。(184頁)「聖霊がみずからの内に宿っている人はすべて、神の新しい宮、神殿である」ということは、言い換えれば、次のように表現できると言います。「その人たちは、個人としても共同体としても、天と地が出合っているところなのである。」(184頁)現代の教会が、「一致」と「きよさ」の点で大きな問題に直面していることを著者は指摘しつつ、「このことのゆえに、聖霊についてパウロが伝えようとした教えを、もう一度とらえ直す必要がある」と指摘します。(185頁)

第9章が、聖霊がクリスチャンたちを生ける神の宮としていること、すなわち聖霊が神殿を成就するお方である点に焦点を当てたとすれば、第10章「御霊によって生きる」は、聖霊が旧約聖書の他の三つのテーマを成就するお方であると指摘します。すなわち、律法、ことば、知恵です。特に律法の成就は、「神の神殿として聖さが求められるという驚くべき召命」とも関わっており(186頁)、「律法は神殿のように、天と地が出合う場の一つ」であると指摘されます。(187頁)もちろん、律法の成就は「恐ろしく難しいように聞こえる」課題ですが、「聖霊によってトーラー(律法)が成就されることは、『使徒の働き』第二章のけるペンテコステ(五旬節。五十日目という意味)の驚くべき記述の底流にある主要テーマの一つである」と言います。(188頁)イスラエルの出エジプトの出来事において、過ぎ越しから50日後にシナイ山に到着し、律法を授けられたからです。従って、「復活してから五十日後、イエスは神が臨在する『天』に上げられたが、モーセのように、ふたたび天から降りてきて、新しい契約が与えられたことを確証し、石にではなく人の心の板に生きる道を記された」と言います。(188-189頁)すなわち、聖霊は律法の成就者です。この後、神の言葉についての約束を成就し、神の知恵をもたらすお方としての聖霊についても短く説明しています。

聖霊が本書の初めで取り上げられた四つの問い、「義、霊的なこと、関わり、美に対する答えを提供する」と指摘します(193頁)。それと共に、クリスチャンの霊性については、「神への畏敬と尊厳という感覚と、神の親しい臨在という感覚が結びついている」こと(194頁)、「ある程度の苦しみが伴っている」こと(195頁)が指摘されます。最後に、三位一体の教理を単に「賢い知的な言語ゲームとか、心理ゲーム」のように受け取るのでなく、「愛のゲーム」として受け取るべきこと、すなわち、「父と子と聖霊との間で絶えず行き来している愛」に聖霊によって招かれ(198頁)、「私たち自身も、私たちの内にある神の愛に満ちた生活にあずかる」よう勧められます。


第三部「イメージを反映する」の内、最後の章を除く四章は、クリスチャン生活の具体的なあり様について、深い理解を与えようとするものです。第11章「礼拝」は、『ヨハネの黙示録』4、5章に描かれた天上での礼拝の情景描写から始まります。真の礼拝とは、このような「天において、神のおられるところで、つねになされている礼拝」に加わることであると指摘されます。(208頁)「あなたが礼拝するもののようにあなたはなる」という指摘も示唆に富んでいます。(210頁)礼拝プログラムの一部とされている「聖書朗読」について、「二、三箇所の聖書の短い朗読は、部屋の反対側から見る窓のようなもの」との説明は印象的です。(214頁)「パンを裂くこと」については、「十字架にかかり、墓からよみがえったイエスと一つになる。」すなわち、「過去と現在が結びつく」こととして、更に、「神の未来が現在に入り込む重要な契機の一つとして」説明します。(219頁)ライトは、礼拝や聖礼典についての果てしない議論の数々があることに言及しながら、「天と地、神の未来と現在という組み合わせの二つが、イエスと聖霊にあって一つとなるという、大きな絵図から礼拝を考えることで乗り越えられる」との信念を表明します。(222頁)

第12章「祈り」は、「主の祈り」についての説明から始まります。「神の王国が天にあるように、地にも実現するようにと祈る」という、主の祈りの核心を指摘します。(226頁)主の祈りとイエス様がなさったこととの深い関わりを指摘し、「この祈りを唱えると、天と地を生きるイエスの生き方に私が引き込まれていくのが分かる」と言います。(227頁)「私たちは、天と地、未来と現在が衝突し、地殻変動で地鳴りのするプレート上の小島に幽閉されているようなものだ」と言いつつ、天と地の狭間で祈ることが容易ならざることであることを示唆します。(229頁)しかし、それゆにこそ、クリスチャンの祈りは、「聖霊によって、神みずからが、世界の真ん中からうめいていること」と示唆します。この困難な働きの助けとなるものとして、「祈祷書」の有効性を指摘するのは、英国国教会の主教を務めた人として自然なことなのでしょう。それと共に、「大切なことは始めることである」と言い(242頁)、祈りの課題をリストにしたり、聖書の約束を思い起こしながら祈ったりすること、人によっては異言の祈りや沈黙の祈りさえ有意義であると言い、幅広い祈りのあり方を示唆します。

第13章「神の霊感による書」は、聖書がそもそもどんな書であるのかを取り扱います。旧約聖書や新約聖書の「構成、集大成、普及の歴史」(254頁)を簡潔に紹介した後、「決定的に重要なこと」として、「神の霊感とは?」という問題を取り扱います。(255頁)様々に議論が重ねられてきたこの問いに対しても、著者は「選択肢<三>が解決を与えてくれる」と主張します。(256頁)すなわち、聖書を「天と地が重なり合い、かみ合っている接点の一つ」と見る見方を提案します。(257頁)「聖書の著者、編纂者、編集者、収集家も、それぞれ異なった人格、スタイル、方法、志向性を持ちながらも、契約の神の特別な目的のために用いられた」とします。(257頁)ここでライトは、ひと世代前によく言われたような見方を否定し、「聖書は、単なる啓示を証言しているのでも、それを反映しているだけのものでもなく、むしろ啓示そのものであり、神の啓示の本質的な部分として広く教会で扱われてきた」と指摘します。(258頁)但し、聖書は単に正しい情報の伝達を目的とするのではなく、「この地で神のわざを果たすために神の民を形造る」という目的を持つことを指摘します。(第2テモテ3:16-17、258頁)「無謬」「無誤」の用語を用いることにより、聖書そのものから人が引き離されることについては警戒の姿勢を示します。ライトはこの章を、次のような言葉で締めくくっています。「聖書は、神の民を整え、神の王国で神のわざを果たすためにある。自分は神のすべての真理を把握しているとふんぞり返り、自己満足に浸らせるためではない。」(260頁)

第13章が聖書がどんな書であるのかを扱うとしたら、第14章「物語と務め」は聖書をどう読むかを取り扱います。まず、「聖書には権威がある」ということの意味合いが論じられます。「救いの計画の権威ある記述というような単純なものではない。聖書自体が、救いの計画そのものの一部なのである。」(262頁)と言い、「聖書の権威は、そこに加わるように招かれている愛の物語という権威である。」(262頁)と言います。ここでの「物語」は、単に筋道のあるお話というものではなく、語られることにより聞く者の生き方をその物語の中に招くような種類のものとして考えられています。従って、「『聖書の権威』に生きるとは、その物語の語っている世界に生きることを意味する。」と言います。(264頁)

ここで再び、聖書を読むということについて、「天のいのちと地のいのちが結ばれる手段の一つである」と言われます。(265頁)すなわち、「私たちが聖書を読むのは、神が私たちに、私個人に、いまここで、今日、語っていることに耳を傾けるためである。」と言います。(265頁)それは神秘的なことではあるけれども、「それが起こることは、歴史をとおして何百万人ものクリスチャンが証ししてきた。」と言います。(265頁)そのための具体的助けとして、祈り深く聖書を読むこと、過去や現在のクリスチャン仲間の意見を参照することなどが示唆されます。聖書のことばから神の声を聞くということには誤りの混じるリスクが伴うことを示しつつも、それこそが「天と地の交差した場で生きるということである」と言います。(267頁)

この章の終りでは、聖書解釈のかなりやっかいな問題を扱っています。ここで著者は、「字義的」と「比喩的」とを単純に二元論的に対比して考えることにかなり強く反対しています。

第15章「信じること、属すること」は、言わば信仰への招きが語られている章です。「キリスト教入門」としては最重要の章とも言えます。ただ、ここでの招きは、個人的なものというより、「属すること」に焦点が置かれています。ですから、章の前半は再度「教会」について語られます。あらゆる民族から集まる川のような教会、同時に、一粒の種から四方に伸びる木のような教会、神の民という家族としての教会、宣教(ミッション)を存在理由とする教会に属するとは、どういうことなのかと問います。

まず、ライトはそれを「目覚め」として描きます。急激であったとしても、ゆっくりであったとしても、目覚めることだと言います。(エペソ5:14)「福音、すなわち創造者である神がイエスにおいて実現したことの『よき知らせ』」に対する「最初にして最も適切な反応は、信じることである」と言います(291頁)。「信じる」とは、「神が確かにそのことを行ったと信じること、それをなし遂げた神を信じることとの両面」があると指摘します(292頁)。また、信仰への招きには、「赦しへの招き」の要素があり(292頁)、同時に、「服従への招きでもある」と言います(293頁)。それはまた悔い改めを伴うものでもあることを指摘します(294頁)。このような信仰こそが、「クリスチャンのしるしであり、唯一身に着けるバッジである」と言い(294頁)、「そしてこれこそが、聖パウロが『信仰義認』について語るときに意味していることである」と言います(295頁)。「クリスチャンとしての信仰を持つ人たちは、その先駆けとして『義とされる(正される)』が、それは彼らを、創造のすべてに対して神がなそうとしていることの一手段とするためでもある」と言います(295頁)。この信仰を持つに至ったとき、「あなたの存在の深いところのどこかで、いままでになかったいのちが動き出す」と言います(296頁)。

ここでライトは再び、「母」と呼ばれる「教会」について語ります。まず教会は「コミュニティ、共同体」です。(297頁)教会の主要な目的は、「礼拝、交わり、そしてこの世界に神の王国を反映させていく働き」です。(298頁)教会の正しい機能のためには、小グループの役割が重要であることも指摘します。最後に、ライトは、水のバプテスマについて語ります。ライトは、バプテスマが「水を通して神の新しい世界へ」(301頁)「水を通してイエスに属する新しいいのちへ」(302頁)という物語を持つことを指摘します。この物語は神ご自身の物語であり、「バプテスマを受けることであなたは、その物語の中に、つまり神が脚色し、演出する劇の役者として導き入れられている」と言います。(303頁)役者として失敗があったとしても、「そのドラマに加わるほうがはるかによい」と言います。(303頁)

第16章「新しい創造、新しい出発」は、本書全体の主張をもとに「救い」をとらえ直すところから始まります。まず、「死んだ後天国に行く」ということについて、「まったく中心的なことではない」と言います。(304頁)「聖書の壮大なドラマは、『救われた魂』が天に引き上げられ、悪に満ちた地と、罪に引き込む死ぬからだから引き離されて終わりを迎えるというのではなく、新しいエルサレムが天から地に下り、『神の幕屋が人とともにある』(黙示録21・3)ところで終わるのである」と指摘します。(304頁)ここには、「天と地が重なり合うこと、神の未来が私たちの現在と重なり合うこと」(305頁)、「現在における新しい創造の開始」(306頁)というテーマが示唆されています。新約聖書が「復活への信仰」を強調していることも指摘され、それは、「死後のいのち」を越える「死後のいのちの後のいのち」であると指摘します。(306頁)「この世界を見捨てることは神の計画ではない」とも指摘し、「神の新しい世界」が備えられ、神は「神の民のすべてを新しいからだでよみがえらせ、そこに住むようにされる」と言います。(307頁)イエスの「再出現」は、「ヴェールが引き上げられ、地と天は一つとなる」ことだと言われます。(307頁)「これこそがまさに、クリスチャンの描く『救いのヴィジョン』である」と言います。(308頁)

次にライトは、このようなビジョンを抱きつつ、どのように現在を生きていけばよいのかを扱います。それは、「天と地の狭間で生きる」ことであり(308頁)、「人間としての新しい生き方であり、イエスによって形づくられる人間としての生き方、十字架と復活の生き方、霊に導かれた道である。それは、やがて神がすべてを新しくして私たちのものとする、はるかに豊かな、喜びに満ち溢れた人間のあり方を、いまここで先取りする生き方である」と言います。(311頁)この旅には、特に二つの点が含まれることを指摘します。「それは放棄であり、他方では再発見である。」(312頁)著者は、このことが容易なことではないことを認め、「一方で二元論を避け、他方で異教を退ける」という課題があることを指摘します。(314頁)この課題に取り組むために、「不屈の精神力と注意深い知恵の探求」「聖霊の導き」「聖書に見いだす知恵」「バプテスマの事実とそれが意味するすべて」「祈り」「他のクリスチャンとの交わり」が助けとなることを示唆します。(314頁)

最後に、著者は、「クリスチャンの福音が生みだし、それを支える霊的なこと(スピリチュアリティ)については、それなりの長さを費やして語ってきた」として、「他の三つの『響き』、すなわち義と関わりと美」について取り上げます。(316頁)第一に、義との関わりでは、「和解と修正的正義のために労すること」(319頁)といった具体的取り組みを含め、「クリスチャンは、全人類が望んでいるこの義、イエスを通して新鮮で意外な仕方でこの世に勢いよく注がれた義を精力的に推進し、追求していくべきである」と言います。(320頁)第二に、「関わり」については、これが人間生活の中心であり続けるであろうことを指摘した上で、「積極的な親切」、「怒りにどう対処したらよいか」(321頁)、「私たちの心の底にある欲望」が「洗いきよめられ、癒される必要」(327頁)、「謙遜」(329頁)について触れます。第三に、美との関連では、「創造の中にかいま見える美は、より大きな全体の一部として見るときに最もよく理解できる」と指摘すると共に(330頁)、教会が芸術や演劇などを新しい視点で作り上げることが提案されます。

本書の最後は「いますでに始まっている新しい時代の仲介者、先駆者、世話人としての私たちにふさわしい、最も人間らしい役割を、聖霊の力によって引き受けようではないか」との勧めで締めくくられます。(334頁)

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1 コメント

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Unknown (小嶋崇)
2015-07-12 08:22:58
丁寧で力の入った書評ですね。ありがとうございます。
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