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教育、教育、そして教育! ―すべては、将来世代のために

 新年、明けましておめでとうございます。
  旧年中は、私長島昭久の政治活動に温かいご理解ご支援を賜り心より感謝申し上げます。今年は正月4日から国会が始まり、私は、衆議院文部科学委員会の筆頭理事に就任することが決まり、子供たちの教育、子育てファミリーの支援、我が国の将来を切り開く人材づくりと世界の課題を解決する革新的技術の振興に全力を挙げて取り組む一年として参ります。

福澤諭吉が『学問のすゝめ』で伝えたかったこと

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり・・・」

 明治の啓蒙家・福澤諭吉の名著『学問のすゝめ』の冒頭の一節は、つい数年前まで士農工商の封建体制にあった日本において、「人間平等の思想」を高らかに宣言したものとして、明治初頭の人々に大きな影響を与えました。なにしろ、この本は、明治5年2月に初編が出版されてから瞬く間に22万部を売り尽くし、最後の第17編まで含めるとじつに340万部を売り上げたというのです。当時の人口が3400万人ですから、老いも若きも含めて10人に一人の日本人がこの本に触れたことになります。

 ところが、福澤が本当に世に問いたかったことは、この後に続く次の一節でした。
「されども今広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥との相違あるに似たるは何ぞや」と。つまり、本来は平等であるはずの人間なのに現実には不平等が生じている、その理由は何か、と問うのです。そして・・・
「その次第甚だ明なり。実語教に、人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なりとあり。されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとに由って出来るものなり」と断じたのです。つまり、不平等な現実を変えられるのは「学ぶこと」なのですよ、と説いたのです。

混沌の時代に明治人の魂を揺さぶった『学問のすゝめ』

 この福澤が放った言葉がどれほど衝撃的だったかを理解するには、当時の時代背景を思い起こす必要があります。『学問のすゝめ』が出版された前年、明治4年に断行された廃藩置県は、維新革命の頂点をなす驚天動地の改革でした。なにしろ数百年来の権力者たちが根こそぎその地位を追われることになったからです。なんと薩長政府が、自らの基盤である薩摩藩も長州藩も廃止してしまったのです。その結果、世の中の価値観が大混乱に陥ったことは想像に難くありません。地位を追われた士族たちの多くが絶望の淵に立たされ、彼らだけでなく戊辰戦争直後の騒然とした世相の中で多くの人々が計り知れない将来不安に苛まれていたことでしょう。

 そういう時代背景にあって、福澤が放った「学ぶことこそが、あなたの境涯や将来の運命を変えることができるのです!」という一言が、どれほど明治の人々の魂を揺さぶり、生きる勇気を与えたことでしょう。

今日の日本でも、人々の運命を切り開くのは「学び」だ!

 今、多くの人々が将来不安に襲われているこの時代にあって、福澤の『学問のすゝめ』に込められたメッセージがますます重要になって来たと思うのです。なぜなら、子供の貧困も、貧困の連鎖も、ワーキングプアの問題も、そこから脱出するカギを握るのは、「学ぶ」こと。そして「学び直す」ことだからです。グローバル化の荒波を撥ね返す力をもたらすのも、ノーベル賞を受賞するような革新的な研究開発で世界の課題を解決する力を発揮するのも、すべては「学び」次第だといっても過言ではないのです。

人の成長なくして、経済成長なし

 そして、その「学ぶ場」は、学校教育や研究機関だけであってはならない。意欲さえあれば、いつでも、どこでも、誰でも、何度でも「学び直す」機会を保障することこそが、21世紀の教育システムの在るべき姿ではないかと考えます。それは、重厚長大産業が牽引した20世紀型の社会構造から、ソフトやデザインなどサービス産業を中心とする知識社会へと変貌を遂げる21世紀には、その担い手としての人間の能力が経済成長のカギを握ることになるからです。にもかかわらず、我が国の教育への投資(GDP比)は主要国の中で最下位(32位)という体たらく。学ぶ機会への投資こそが潜在成長力を押し上げる決定打であることを自覚し、今こそ政治の焦点をコンクリート中心の公共事業から「人への投資」へと大きく転換すべきです。

 2016年、長島昭久は、「未来に誇れる日本」実現に向けて「人への投資」に徹底的に取り組んで参ります。もちろん、外交・安全保障政策についても引き続き積極的に発信して参ります。どうぞ倍旧のご支援を宜しくお願いします。

平成28年 丙申 元旦
衆議院議員 長島昭久

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いよいよ野党再編に向けて勇気ある一歩を踏み出す!

第189回通常国会を振り返って

 9月末に閉会した通常国会は、安保法制をめぐる乱闘国会という後味の悪いものとなってしまいました。国会を取り囲むデモ隊の先頭に立ち共産党委員長と手を取り合って万歳する民主党代表の姿を見た多くの方々から「民主党はいつから共産党と同じになってしまったの?」と懸念をぶつけられました。野党に転落してからも熱心に民主党にアドヴァイスしてくださったある有識者からも「今の民主党は、この国のサイレント・マジョリティ(物言わぬ多数派)を余りにも馬鹿にしているのではないか?」と失望されてしまいました。

民主党は、現実を見据え、つねに「対案」を示して来た

 私は、2000年に補欠選挙に初挑戦して以来、民主党として政治活動を行って参りましたが、こんな民主党に成り下がってしまったことが残念でなりません。2009年に悲願の政権交代を実現するまでの民主党は、自民党に代わる現実的な政権の受け皿をつくり上げるべく、日々政策論争を行い、官僚機構の力を借りずとも幾多の法案を国会に提出し、つねに国会論戦の先頭に立って政府与党の誤りを正し、国民に堂々と政策選択肢を示したのです。それは外交や安全保障も例外ではなく、国際情勢の現実を見据えて、つねに「対案」を掲げ続け政府の暴走を諌めました。

今こそ、民主党は原点に立ち返れ!

 戦後最長の国会会期を終え、私たちはもう一度原点に立ち返る必要があると考えます。なぜなら、今の「一強多弱」国会のままでいいと考えている国民はほとんどいないからです。「民主党に頑張ってもらいたい!」という方々の大半は、民主党そのものというより、バラバラになって力を失った野党を再建して欲しいという切実な願いを表明しているのだと受け止めています。民主党を応援しているというより、民主党が掲げてきた政権交代可能な二大政治勢力の競争による緊張感溢れる政治の再現を切望しているのです。

政策の旗印は、現実的な外交・安保政策と、将来の安心と生きがいを実感できる経済社会

 私は、旗印になる基本政策を次の3つに絞っています。第一に、先の通常国会の反省に立って「現実的な外交・安全保障政策」です。国際関係は独りよがりでは乗り切れず、つねに現実的な対応が求められます。第二は、「行き過ぎた新自由主義を修正する経済政策」です。新自由主義が前提にする「工業化社会」はもはや時代遅れです。にもかかわらず、生産性や効率を求める新自由主義経済では、賃金や雇用は容赦なく切り捨てられ多くのブラック企業を生み出し、生活者は凄まじいストレスと将来不安に苛まれ、格差や貧困は悪化します。これに対し、すでに北欧を中心とするヨーロッパでは30年前から脱・工業化の「知価(知識)社会」(サービスやデザインなど知識集約型の産業構造)に対応する社会インフラと国民生活のセーフティネットの張り替えが精力的に行われ、日本より国民負担が重くても多くの人々が将来の安心と生きがいを実感できる社会をつくり上げています。

そして、徹底した分権と、人と未来への投資

 第三は、「思い切った分権で社会保障と教育の現場を再生する政策」です。教育、医療、福祉(子育て・介護)などは利用者のニーズに近い各地域が財源も権限も人材も主導権を握って推進すべきです。そしてその中核は、中央政府が全国一律でばらまく現金給付型から、地域の実情に合致した人的サービスを住民参加の下に提供する現物給付型に転換して行くのです。そのためには、憲法第8章(地方自治)を改正してでも実質的な地方分権を確立せねばなりません。

すべては、「未来に誇れる日本」のために!

 今こそ民主党は自分たちの殻を破って、改革の志と政策を共有する野党勢力の再結集を図らなければなりません。衆議院にも参議院にも、民主党が分裂し下野して以来、15年前の民主党結党時と同様の改革の情熱に溢れ、分権と共生の精神を持して新党を立ち上げた潜在的な同志が数多くいます。いや、全国に津々浦々で再び政権交代を夢見て草の根の運動を展開している同志たちがいるはずです。その人々の力を糾合するのです。私もその大きなうねりの中で、「未来に誇れる日本」をめざし、身を捨ててでも中核的な役割を果たす覚悟です。どうぞ、倍旧のご支援をよろしくお願いします。

衆議院議員 長島昭久

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戦後70年の総理大臣談話は歴史的な文書

 戦後70年の総理大臣談話は、歴史的な文書となるであろう。これまでのいかなる歴史談話よりも具体的かつ詳細に反省すべき内容、感謝すべき対象(国および国民)を明記した。そして、その反省に基づいて未来志向の決意を内外に鮮明にした。その上で、歴代政権の歴史認識が今後も揺るぎないことを再確認した。


 特徴的なのは、次の三点であろう。


 第一に、「国際秩序の挑戦者」という耳慣れないが国際関係論では重要な文言を使って、過去の反省とともに暗に中国に対する牽制を行っている点。第二に、謝罪外交に終止符を打った点。第三に、全体として英文調だということ。特に、後半部分の4段落連続で「この胸に刻み続けます」(We will engrave in our heart the past)に始まるくだりは、英文が先にあったような感覚に陥る。いずれにせよ、世界に向けて発信することを念頭に置いて作成されたということであろう。


 それでもなお少々不満が残ったのは、大正から昭和にかけての我が国が国際秩序の挑戦者になってしまった原因を世界恐慌後のブロック経済化に求めている書きぶり。まるで外的要因にその非を転嫁しているように読めてしまい、二大政党の在り方、世論の激情、軍部の下克上など、内在的要因への省察が足りないように感じられた。


 最後に一点、今回の談話に「台湾」が独立の政治主体として明記されたことにも私は感慨を禁じ得ない。
 かくなる上で大事なことは、今後何世代にもわたってこの談話に込められた反省と感謝を受け継ぎ、言葉ではなく行動で我が国の誠意と精誠を尽くして行くことだと思う。私も日本国民の一人として、国政を預かる政治家として、歴史に対する責任を果たして行きたい。

内閣総理大臣談話 全文(首相官邸HPより)
http://www.kantei.go.jp/jp/97_abe/discource/20150814danwa.html

衆議院議員 長島昭久
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衆院での安全保障法制論議の総括

【結論】
 またしても安全保障関連法案の国会審議が情緒論に埋め尽くされてしまった。参院での審議では、ぜひこの点を克服してもらいたい。以下、若干長くなりますが、衆院での審議を終えた現時点での私の所感を皆さんと共有させていただきたい。

【主要論点】
(1)法案の土台となった昨年7月の閣議決定は憲法違反か?
(2)閣議決定で行われた政府解釈の変更は立憲主義を否定するものか?
 この二つの問いを巡って議論の7-8割が費やされてしまった。私は、いずれの問いに対しても懐疑的だ。つまり、昨年の閣議決定が一見明白に違憲とも言えないし、政府解釈を変更することが立憲主義に反するとも思えない。理由は後述する。
(3)現実の安全保障環境に照らして、法案は妥当なものか?
 本来はこの点を徹底的に精査するのが国会審議の要諦である。しかし、この議論は110時間に及ぶ特別委員会での議論の2-3割に過ぎなかった。民主党が対案を出せなかったことや、維新の党の対案が出て来るのが1ヶ月遅かったことが、この最も肝心な議論を深めることができなかった最大の問題だ。
 なお、私は、この点で、政府提出法案は、曖昧な点も多く、領域警備など肝心な法制が欠落しており、答弁も甚だ不安定で説得力に欠け、遂に国民の理解を得ることができなかったと考えている。ここは、参議院審議の段階で、野党がしっかりした対案を最初から提出し政府案との並行審議に持ち込んで、委員会での議論を深めるとともに、政府案の修正や補充や一部撤回を迫り、現実の安保環境に相応しいより良い法制を整備するべく真剣に取り組む必要がある。

【対案】
民主党は、「近くは現実的に、遠くは抑制的に、人道支援は積極的に」という理念の下、以下のような対案を準備している。

●領域警備法案

●現行の周辺事態法における「周辺」概念を残し、周辺有事に際し「非戦闘地域」での活動を前提に我が国領海や公海上での後方支援活動を拡大し、当該活動の支援対象は、米軍および米軍と共に活動している他国軍隊とする改正案

●予め条約および協定を締結している外国軍隊(当面は、安保条約の米国およびACSA協定を結んでいる豪州)と共同行動している場合に互いに装備を防護するため、「武器等防護」を規定する自衛隊法95条の改正案

●PKO協力法に基づく活動の拡大と駆けつけ警護を可能にする改正案

●他国の海外での戦闘への後方支援は恒久法ではなく、そのつど情勢や必要性、自衛隊の能力や装備などを勘案して特別措置法で対応すべき…以上。



憲法9条2項と自衛権、自衛手段、自衛の方法
 さて、冒頭の憲法に関わる根本問題に答えるためには、憲法9条の規範内容を理解しなければならない。憲法9条には「自衛権」という文言はない。しかし、砂川事件最高裁判決が示したように「我が国が、自国の平和と安全とを維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置を執り得ることは、国家固有の権能の行使であって、憲法は何らこれを禁止するものではない」。ゆえに、自衛のための手段としての自衛隊は合憲とされてきた。
 しかし、憲法9条2項の「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない」という規定から、(警察予備隊や保安隊当時ならいざ知らず)なぜ5兆円規模の予算を費やし営々と築かれてきた世界屈指の兵力を誇る自衛隊が「合憲」なのか説明するのは、至難の技だろう。したがって、自衛隊創設時から憲法学者の大半は自衛隊違憲論を唱えたのだ。(奇妙なことに、その憲法学者の大半が現在では、当時よりさらに強大化した自衛隊の存在を合憲としている。)

自衛隊は合憲で、限定的な集団的自衛権は違憲は、ご都合主義ではないか?
 これに対して、内閣法制局は、現実の国際情勢に鑑み、我が国を防衛する必要最小限度の実力を有するに止まる自衛隊は(どんなに巨大化しても、周辺の安保環境に釣り合う限り)憲法9条2項にいう「戦力」には当たらないから合憲だと解釈してきたのだ。このアクロバティックな解釈を維持することが、いま盛んに持て囃される「立憲主義」だというのである。なんともご都合主義ではないか。いや、ご都合主義が悪いと言っているのではない。現実の要請に応えて規範の範囲内で解釈を施していくのが憲法というものなのだ。法的安定性とともに現実的妥当性が重視されるのは、憲法条文と現実の乖離から憲法を空洞化させないためのギリギリの努力とも言える。
 そして、今回の解釈変更である。「国の存立が脅かされ、国民の生命、自由、幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合に」限り、個別的自衛権に加えて限定的な集団的自衛権を行使しようとするものだ。そうしなければ、安全保障環境の悪化や軍事技術の急速な進歩に対応できず、我が国の平和と安全が守れないというのがその理由だ。
 この解釈変更と、憲法9条2項の下で世界有数の精強性を誇る自衛隊が容認されることと、どちらが論理的に無理がない(あるいは無理が大きい)だろうか?いずれも現実の外部環境に釣り合うように憲法を解釈した結果なのだが、私には後者の方が論理的飛躍の度合いは大きいと感じられる。後者は自衛の「手段」に関わる問題、前者はその手段を用いてどのように国家国民を守るかという「方法」に関わる問題だ。我が国の平和と安全を守ろうという観点から個別的自衛権と限定的な集団的自衛権との間の差異はそれほど大きいとも思えない私には、後者は認めておいて、前者を憲法違反と断ずる「立憲主義」はいかにもご都合主義に感じられてならないのだ。もちろん、双方の問題をスッキリさせるため、憲法改正するのが王道だ。

それでも武力行使には明確な「歯止め」が必要
 現実的に考えて残された問題は、自衛権行使をめぐる「歯止め」だろう。国力を顧みることなく無謀に戦線を拡大し、70年前に悲惨な敗戦を経験した我が国であればこそ、この歯止めの議論はきわめて重要だ。
 ところで、皮肉なことに、後者の自衛手段については法的歯止めはない。防衛費をGDP比1%未満に抑えることも、大陸間弾道弾や原子力空母を保有しないことも、すべて政策的な制約に過ぎない。だとすれば、個別的自衛権に加えて限定的に行使する集団的自衛権の範囲も政策的に決めればいいような気もするが、ここは政府として40年来「行使できず」と繰り返し言明してきた手前、これを緩和するにあたって何らかの法的歯止めがある方がベターだろう。それが、新三要件というわけだが、「新三要件に合致すれば、ホルムズ海峡まで出張って行って武力行使も出来る(戦時の機雷掃海は国際法上は武力行使)」と言われると、「歯止めにも何もなっていない!」と批判せざるを得ない。

政府案に有効な歯止めをかける維新の党「独自案」
 その意味で、維新の党が提出した独自案は検討に値する。それによると、我が国に対する直接の武力攻撃が発生するに至らない場合であっても、「条約に基づき我が国周辺の地域において我が国の防衛のために活動している外国の軍隊に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国に対する外部からの武力攻撃が発生する明白な危険があると認められるに至った事態」においてのみ自衛権が行使され得るというもの。自衛権行使の契機を「条約」「周辺」「我が国防衛のために活動している外国の軍隊」と二重三重に歯止めをかけている点は評価できる。
 ただし、未だ我が国に直接の武力攻撃が発生していない段階で我が国が武力行使するわけで、これを集団的自衛権でないと強弁するからおかしなことになるのであって、「集団的自衛権の行使を限定的に容認するが、政府案より明確な歯止めが効いており、これならホルムズ海峡での武力行使など我が国に直接の戦火が及ばないような場合には容認されない」と説明すれば、国民の多くが納得してくれるのではないかと思う。その点で、政府案は、集団的自衛権を行使する地理的範囲も無限定で地球の裏側でも武力行使を許し、支援相手国も条約上の同盟国のみならず世界中の国々がその対象となる(法理上は北朝鮮もパートナーたり得る!)など、全く歯止めが効いていない。これでは、国民も容易には納得しまい。

審議を通じて余りにもお粗末だった政府答弁
 その他、活動が拡大するのに派遣される自衛官のリスクは増大しないと強弁したり、存立危機事態を認定する契機が他国に対する武力攻撃の発生か発生する明白な危険があればいいのかをめぐって不安定な答弁が繰り返されたり、後方支援恒久法やPKO法改正を議論する前提となるイラク人道復興支援活動の防衛省の報告書が黒塗りで国会に提出されるなど、政府の説明や姿勢に不誠実、不明確な点が随所に見られたことも審議の混乱に拍車をかけてしまった。
 以上、衆院での審議を総括させてもらった。いずれにせよ、少なくとも上記の論点を克服できるような実りある審議を参議院では期待したい。与党も野党も「60日ルール」に胡座をかいて参議院の自殺につながるような審議拒否は断じて許されない。参院の同僚議員の皆さんの「良識の府」としての矜持に期待したい。


衆議院議員 長島昭久
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迷走する安保法制論議に、「喝っ!」

 6月4日の衆院憲法審査会において、3人の憲法学者による参考人質疑が行われ、自民党・公明党・次世代の党推薦の参考人である長谷部恭男早稲田大学教授を含む全員が、いま審議されている安全保障関連法案は憲法違反だと断じたことから、国会審議が大混乱に陥ってしまいました。

 安保法制をめぐる議論は、我が国を取り巻く安全保障環境の変化にどう対応すべきか、そのための法整備はどのように進めるべきか、といった我が国の安全保障の根幹にかかわる重大論点から、そもそも法案の基礎となっている昨年7月の閣議決定が合憲なのか違憲なのか、という一年前の論争に巻き戻されてしまったのです。(なお、安保法制の在り方については、すでに「近くは現実的に、遠くは抑制的に」という基本理念の下、私の考え方を
ブログ「いま本当に必要な安保法制とは何か」論壇 nippon.com)で明らかにしておりますので、ご参照ください。)

最高裁砂川判決を集団的自衛権容認の根拠とするのは誤り

 しかも、自民党の高村副総裁がまたぞろ最高裁砂川事件判決を持ち出して、閣議決定の正当性を主張したことから、議論はますます混乱してしまいました。最初に確認しなければならないのは、昭和34年の砂川判決は集団的自衛権を容認した判例でも、自衛権の内容を争う判決でもなかったという事実です。砂川事件は、日米安全保障条約に基づく駐留米軍が憲法違反かどうかを争った裁判です。したがって、砂川判決を根拠に「集団的自衛権の行使を最高裁が認めた」との高村氏らの認識は、明らかな誤りと断ぜざるを得ません。


最高裁で認められたはずの集団的自衛権行使をなぜ歴代政権は否定し続けたのか?

 かりに、高村氏らが主張するように昭和34年に集団的自衛権行使容認の最高裁判例が確定していたとすれば、政府はその後半世紀にわたって最高裁の有権解釈に反して、我が国の自衛権の行使を個別的自衛権に限定してきたことになります。奇妙なことですね。しかも、外相や防衛相を歴任した高村氏が現職の時に、個別的自衛権に厳しく限定されてきた内閣法制局を中心とする政府の憲法解釈を、最高裁判決に基づいて修正し集団的自衛権を行使できるように努力された形跡も全くありません。これも不思議なことです。


安保環境は、今日より冷戦時代の方がはるかに厳しかった

 これに対しては、これまでの経緯はともかく、今日の安全保障環境の変化はきわめて深刻であって、もはや個別的自衛権のみで我が国の平和と安全、国民の幸せな暮らしを守ることはできない。したがって、今回こそは限定的な集団的自衛権を認めざるを得ないのだ、という反論があり得ましょう。しかし、「新冷戦」と呼ばれた1980年代の軍事情勢の方があらゆる観点に照らして今日の安保環境よりはるかに厳しいものがありました。米ソの戦略核は地球を7回も破壊できるほど積み上がっており、実際に極東ソ連軍による我が国および米太平洋軍に対する軍事的脅威は強大で、今日の北朝鮮や中国の比ではありませんでした。

 にもかかわらず、我が国の安全保障と日米同盟の強化のため、岸信介首相以来、中曽根首相はじめ集団的自衛権の行使容認に踏み切ろうとして努力した政治指導者は少なからずいましたが、そのたびに、昭和47年以来確立された政府解釈―現行憲法下で許されるのは個別的自衛権のみであり、集団的自衛権の行使は憲法上許されず―の岩盤のような壁に阻まれ断念せざるを得なかったのです。


安保法制は、国民の理解を得ながら慎重かつ着実に整備すべき

 もちろん、半世紀遅れとはいえ、今日の厳しい安全保障環境に対応するために、法制を整えて行く必要性は十分認識しています。しかし、その際にも、緊急性の高い分野―たとえば、領域警備や動的防衛力の拡充、周辺事態への対応など―から、国民の理解を得ながら着実に取り組んでいくべきです。いきなり蓋然性の低いホルムズ海峡での機雷掃海の事例や、地球の裏側まで出かけて行って他国の戦闘への後方支援を恒久的に可能にするような法制の必要性を説かれても、多くの国民は戸惑うばかりではないでしょうか。

 私は、外交や安全保障に与党も野党もない、あるのは国益のみ、との信念に基づき、在るべき安全保障法制を早急に整備するため、引き続き特別委員会の一員として建設的な国会論議の先頭に立って頑張る所存です。


衆議院議員 長島昭久
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