週末に頭を冷やして甘利大臣辞任を考える

 のっけから誤解を恐れず言わせて貰えば、「国会戦術上」の甘利問題は、あの潔く辞任表明した会見でほぼ勝負がついてしまったと思う。これ以上、国会の場で甘利問題を深追いしても逆効果になってしまう(つまり、スキャンダル追及で政権に打撃を与えるという思惑が国民の支持を広げる可能性は高くないどころか、逆に反発すら招く恐れがある)のではないか。小渕元大臣も仕留められなかった国会が、甘利前大臣にとどめを刺すのは難しいだろう。これが国会の限界なのだと思う。

 ここから先は、斡旋利得があったかどうか等、秘書の件も含め司直の手に委ねるべきものだ。もちろん、甘利前大臣自身が認めているように、政治家及び政治事務所による役所(今回は国交省およびUR)への口利きや金銭授受行為は、違法か否かに拘らず、政治的、道義的責任を免れず、厳しく正されるべきことは言うまでもない。ましてや、国家の最高権力者たる現職大臣である。再発防止のため新たな法整備の必要もあるかもしれない。また、そういった点をめぐり、国民の疑問にきちんと答える(野党としてしっかり正す)べきとの議論は残るだろう。しかし、党を挙げて、しかも予算審議を人質に取ってまで取り組むべき問題なのかどうか、真剣に考え直すべきだろう。政治倫理を扱う別の委員会も存在する。

 言うまでもなく、予算委員会で議論すべき問題はいくらでもある。甘利大臣が担当していたTPPから始まって、政府の異常な金融緩和、消費税の引き上げ、それに伴う軽減税率の是非や総合合算制度を諦めてしまったことの是非、原発再稼働、北朝鮮のミサイル実験、中国の軍事的拡張と経済崩壊の可能性等々、枚挙に暇がない。

 その上で、改めて国政(政府)を正す責務を有する野党の立場で考えてみると、甘利大臣辞任がもたらす問題の核心は、甘利大臣の罪状というより、甘利大臣が第二次安倍政権の中で果たしてきた役割が突然取り除かれてしまったことにあると思っている。

 つまり、これまで3年間にわたり安倍政権の安定性を担保してきたのは、閣内における鉄の結束だろう。それは屢々「トリプルA」と呼ばれてきた安倍・麻生・甘利の三枚看板だ。そこに菅官房長官の調整力が加わり盤石の体制を誇ってきたものだ。アベノミクスの進め方をめぐり、消費税や金融緩和、財政政策など閣内でも意見が相克するような場面はこれまでいくらでもあった。しかし、その局面のたびに、総理の信頼厚い盟友・甘利大臣が果たしてきた役割はきわめて大きかった。ここ数日、甘利大臣の力量をめぐってメディアでも激論が交わされたが、私の見るところ、安倍政権における甘利大臣の価値は、政策力でも交渉力でもなく、総理の信頼を背景にした政権内のバランサー的な役割だったと思っている。

 したがって、甘利大臣の後継に石原伸晃氏が起用されることが決まった直後の大臣会見で、事もあろうに政権の要である麻生副総理が石原氏の手腕にビッグ・クエッション・マークを付けてみせた時には、思わずのけぞってしまった。これが政権の綻びになる可能性を秘めているからだ。その意味で、巷間囁かれているように今回の甘利大臣辞任が安倍政権の「終わりの始まり」だとすれば、それは甘利前大臣の罪状の故にではなく、甘利大臣が閣外に去ることによる政権内の不協和音の顕在化にあるのではないかと推察する。

 であるからこそ、野党は、すでに大臣自ら職を辞し幕引きを図った事案の罪状暴きに奔走するのではなく、真正面から堂々と安倍政権に政策論争を挑み、建設提案を突きつけ、閣内不一致を暴き出すことに全力を傾けるべきなのだ。野党として、スキャンダル攻撃に血道をあげるより、政策論争で政権を追い詰める方がよほど憲政の常道に叶うし、国民の利益になるはずだ。この週末は、野党にとっても頭を冷やすにはちょうどいい。
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教育、教育、そして教育! ―すべては、将来世代のために

 新年、明けましておめでとうございます。
  旧年中は、私長島昭久の政治活動に温かいご理解ご支援を賜り心より感謝申し上げます。今年は正月4日から国会が始まり、私は、衆議院文部科学委員会の筆頭理事に就任することが決まり、子供たちの教育、子育てファミリーの支援、我が国の将来を切り開く人材づくりと世界の課題を解決する革新的技術の振興に全力を挙げて取り組む一年として参ります。

福澤諭吉が『学問のすゝめ』で伝えたかったこと

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり・・・」

 明治の啓蒙家・福澤諭吉の名著『学問のすゝめ』の冒頭の一節は、つい数年前まで士農工商の封建体制にあった日本において、「人間平等の思想」を高らかに宣言したものとして、明治初頭の人々に大きな影響を与えました。なにしろ、この本は、明治5年2月に初編が出版されてから瞬く間に22万部を売り尽くし、最後の第17編まで含めるとじつに340万部を売り上げたというのです。当時の人口が3400万人ですから、老いも若きも含めて10人に一人の日本人がこの本に触れたことになります。

 ところが、福澤が本当に世に問いたかったことは、この後に続く次の一節でした。
「されども今広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥との相違あるに似たるは何ぞや」と。つまり、本来は平等であるはずの人間なのに現実には不平等が生じている、その理由は何か、と問うのです。そして・・・
「その次第甚だ明なり。実語教に、人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なりとあり。されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとに由って出来るものなり」と断じたのです。つまり、不平等な現実を変えられるのは「学ぶこと」なのですよ、と説いたのです。

混沌の時代に明治人の魂を揺さぶった『学問のすゝめ』

 この福澤が放った言葉がどれほど衝撃的だったかを理解するには、当時の時代背景を思い起こす必要があります。『学問のすゝめ』が出版された前年、明治4年に断行された廃藩置県は、維新革命の頂点をなす驚天動地の改革でした。なにしろ数百年来の権力者たちが根こそぎその地位を追われることになったからです。なんと薩長政府が、自らの基盤である薩摩藩も長州藩も廃止してしまったのです。その結果、世の中の価値観が大混乱に陥ったことは想像に難くありません。地位を追われた士族たちの多くが絶望の淵に立たされ、彼らだけでなく戊辰戦争直後の騒然とした世相の中で多くの人々が計り知れない将来不安に苛まれていたことでしょう。

 そういう時代背景にあって、福澤が放った「学ぶことこそが、あなたの境涯や将来の運命を変えることができるのです!」という一言が、どれほど明治の人々の魂を揺さぶり、生きる勇気を与えたことでしょう。

今日の日本でも、人々の運命を切り開くのは「学び」だ!

 今、多くの人々が将来不安に襲われているこの時代にあって、福澤の『学問のすゝめ』に込められたメッセージがますます重要になって来たと思うのです。なぜなら、子供の貧困も、貧困の連鎖も、ワーキングプアの問題も、そこから脱出するカギを握るのは、「学ぶ」こと。そして「学び直す」ことだからです。グローバル化の荒波を撥ね返す力をもたらすのも、ノーベル賞を受賞するような革新的な研究開発で世界の課題を解決する力を発揮するのも、すべては「学び」次第だといっても過言ではないのです。

人の成長なくして、経済成長なし

 そして、その「学ぶ場」は、学校教育や研究機関だけであってはならない。意欲さえあれば、いつでも、どこでも、誰でも、何度でも「学び直す」機会を保障することこそが、21世紀の教育システムの在るべき姿ではないかと考えます。それは、重厚長大産業が牽引した20世紀型の社会構造から、ソフトやデザインなどサービス産業を中心とする知識社会へと変貌を遂げる21世紀には、その担い手としての人間の能力が経済成長のカギを握ることになるからです。にもかかわらず、我が国の教育への投資(GDP比)は主要国の中で最下位(32位)という体たらく。学ぶ機会への投資こそが潜在成長力を押し上げる決定打であることを自覚し、今こそ政治の焦点をコンクリート中心の公共事業から「人への投資」へと大きく転換すべきです。

 2016年、長島昭久は、「未来に誇れる日本」実現に向けて「人への投資」に徹底的に取り組んで参ります。もちろん、外交・安全保障政策についても引き続き積極的に発信して参ります。どうぞ倍旧のご支援を宜しくお願いします。

平成28年 丙申 元旦
衆議院議員 長島昭久

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