那田尚史の部屋ver.3(集団ストーカーを解決します)

「ロータス人づくり企画」コーディネーター。元早大講師、微笑禅の会代表、探偵業のいと可笑しきオールジャンルのコラム。
 

浪人時代、学生時代

2016年11月10日 | 思い出の記

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一般に浪人時代というのは暗い、辛い記憶に満ちたものだが、私の場合は実に充実した楽しい思い出の時期でもあった。もちろん、浪人という宙ぶらりんの社会的地位は常に心痛と隣り合わせである。しかし、それだけではなかった。

私は、浪人時代ほとんど受験勉強をしなかった。
もともと国語に関しては学年トップを続けていたので問題なかったし、英語も文法が大好きだったから、単語力の強化と発音の確認程度で充分だった。唯一のネックは世界史で、第一志望の早稲田大学第一文学部の世界史の問題は教科書を丸暗記しても絶対に合格できないようになっており、例えば「フェリペ2世の在位年代」が正確に頭に入っていないと解けない、といった、実にトリビアルな問題が出るのだった。

私は、中学高校の頃から、将来は詩人か小説家になるのが夢で、太宰治や中原中也、ボードレールなどの作品は全部読破していたし、浪人時代は稲垣足穂にのめりこみ、難解な哲学書なども片っ端から手を出していた。
だから、受験勉強はさっぱりやらなかったが、自分の中ではいっぱしの文学者気取りだった。端的に言えば、「なぜこの俺が、どうでもいい歴史の年代暗記のためにこの明晰な頭脳を使うなどという愚劣な真似をしなければならないのか」という傲慢な精神を抱いていた。

一浪目の下宿は、隣がパチンコ屋とビリヤード場、雀荘と、三拍子揃った立地条件だったせいもあって、下宿の浪人仲間と毎日、それら三道楽に熱中した。マージャンを本格的に覚えたのも浪人時代で、夢の中でもマージャンをやっているぐらいのめり込んだし、ビリヤードも腕を上げて、引き玉、押し玉、自由自在に出来た(当時はポケットではなく4つ玉が主流だった)。パチンコにいたっては毎月15万はつぎ込んでいた。
こうして昼は三つの道楽に打ち込み、夜は酒を飲み、気が向けば詩を書く、実に充実した時間が、私の浪人時代だった。

その浪人下宿には福岡や宮崎など、九州出身の男たちが多くいた。私から見れば、彼らは相当に野蛮な風習に染まっていて、何かあるとすぐ殴り合いの喧嘩になったものだが、その一面、非常に純情なところがあって、腹をさらけ出してものをいうので好感が持てた。

そもそも浪人には2つのタイプがある。私のように、受験勉強に反抗して無頼派的に遊びまくっているタイプと、素直に勉強をするタイプである。前者は後者に比べると相当に早熟なグループだった。某友人は、浪人時代に役者になることを夢見て、人脈を求めて歩き回っていたし、私は文学者きどりで飲んでは芸術論を戦わせていた。

そういえば、私に女遊びを教えたのも役者志願の浪人生だった。千葉の栄町に私を連れて行き、初めてのときはアッという間に終わるからといって、ソープランド(当時はトルコ風呂、といった)に入る前に、二人で日本酒を二合ずつ飲んで、ことに挑んだものだった。

私は、「自分の文学的才能を開花させるには早稲田大学第一文学部に入るほか無い」という確信と同時に、「受験勉強などという愚劣なものに手を染めることの不快さ」という二律背反に陥っていた。
そんな私が真剣に受験勉強に取り組み始めたのは「怒りのエネルギー」だった。

二浪の後、親の勧めで受験した甲南大学文学部に合格し入学した。その大学は西の学習院といわれるような非常に優雅な、ある意味理想的な大学だったが、私は体育と音楽以外の授業には出席せず、昼間から酒を飲んで詩作に打ち込む生活をしていた。ウィスキーの中に市販の睡眠薬ブロバリンを混ぜて飲んで詩歌を読んでいたため、トイレの便器はオレンジ色に染まっていた。そして夏休みに郷里に帰ったときのことである。
人望に欠けた、カンナ屑のように薄っぺらなある同級生と出合った。キツネのような目をして、何かにつけて私に因縁をつけるストーカーのような人間だった。彼は一浪して明治大学に入ったことを大いに鼻にかけていた。そして、「昔から俺のほうがお前より成績がよかったからな」と口走ったのである。これには私は怒りよりも驚きが先に来た。私の眼中に彼などなかったし、あらゆる学科、あらゆる成績の面で、彼は私より格段に劣っていたのである。
なるほど、人間は「結果」で自己と他者を判断するのだ、と私は初めて了解した。彼が明治大学生になり、私が甲南大学生になったとたん、過去の事実を捏造し、私よりも秀才だったというデタラメな事実を作り上げ、私本人に宣言したのである。なんという単純な妄想、なんという単純なナルシシズムだろう。

この男の侮辱が私の休火山に火をつけた。あんな下等な人間に学歴で一生バカにされる人生というのは死んでも我慢できない。私は「一日に5時間、3ヶ月だけ受験勉強をする」と決意した。国語と英語はもともと得意だったので、問題は世界史だけである。
そこで、私は二冊の世界史の参考書を買ってきた。一冊は受験用のものの中で最も高度なレベルの参考書。もう一冊は、受験用ではなく研究者用のもので、受験にはほとんど役に立たない研究本だった。その二冊を平行して読みながら、私は「決して受験に出ない世界史」と題したノートを作った。
自分の能力を受験勉強という愚劣な行為に落とす、ということは、彼のようなバカな人間と同じ立場に立つことになるわけで、それは私のプライドが許さなかった。だから、私は、受験に出るはずの無い、よりトリビアルな、より研究的なノートを作ることで、世界史を「受験用」として暗記するのではなく「研究用」として学問したわけである。

面白いものだ。よりトリビアルでより研究的なノートを作っていくと、受験に出る程度の史実はいつしか頭の中に入っているのである。ノートは受験の一週間前に完成したが、その最後の項目は「朝鮮半島史」で、これは過去10年間の早稲大学第一文学部の問題にも、またほかの大学の受験問題にも出たためしのない範疇だった。私は朝鮮半島の歴史を頭に入れながら、これで受かった、と思った。

早稲田大学第一文学部、同教育学部、学習院大学史学部、と3つの学部を受験して、全てに合格した。どういうシステムになっているのか未だに不思議なのだが、受験をして外に出ると予備校が今出たばかりの問題の模範解答を配っているのである。私はそれを手にして、3教科ともほぼ満点であることを確認し、とくに世界史に関しては3学部とも完璧な解答だったことを知り、合格を確信した。
人品骨柄の卑しい男が傲慢なことを言わなければ、私は甲南大学を中退してフリーターにでもなっていたに違いない。仏教者はよく魔を味方にせよ(変毒(へんどく)為(い)薬(やく))というが、振り返れば、まさに私にとって彼は魔が変じた善神だった。

さて晴れて念願の早稲田大学第一文学部に入り、しかも当時芥川賞作家を輩出して最も人気の高かった文芸部を専攻した私は、意気揚々と文学部のスロープを闊歩していた。

ところで、当時詩壇は大学教授兼詩人が支配していて、詩心を全く持たない、観念的で引用の羅列だらけの作品が幅を利かせていた。私は、詩というものは作品のインスピレーションとなる詩的感動の体験と、読んで心に残るリズムがなければその作品に価値は無い、と信じていたので、「現代詩手帖」などの雑誌に載る彼らの作品には失望していた。
とはいえ、確か清水某というフランス語教授兼詩人の授業を受けて、作品を提出させられたことがあった。私は、東京の片隅のアパートで、一個のリンゴをかじりあいながら、そのリンゴを食べ終わったら死のうと決意している男女の心境や、都会の雑踏の様子を詩にして提出した。すると感想に「君の作品を読んでアポリネールの詩集『地帯』を連想しました。抽象化が強すぎる面があるので、もっと一般に分かりやすく具体的に書くようにするといいと思います」と感想が書いてあった。私は前衛詩の父親ともいえるアポリネールの作品を真面目に読んだことは無かったが、この批評には大いに満足した。



しかし一方で、私を心の底から落胆させる出来事が起こった。 当時の早稲田の文学部を牛耳っていたのは三島由紀夫の親戚に当たる教授で、私は彼の授業を受けていた。最初の授業で、梶井基次郎の『檸檬』について批評を書け、という問題が出た。『檸檬』と言えば純文学を志すものにとっては聖典の一つであり、一度ぐらいは臨書すべき名作である。私の大好きな作品でもあり、私は気合を込めて批評を書いた。
ところがその教授が、学生の書いた批評の中から一番おもしろい、と判断して読み上げられたのは以下のような文章だった。

「わたしは、ある漫画で『檸檬』を茶化したものを読んだことがあります。男が画集を山積みにしてその上にレモンを置いて本屋から出ようとすると、店員さんが「お客さん、元に戻してください。迷惑です」という内容の漫画でした。わたしも同じように思います。勝手に本を棚から出して山積みにされては困ると思います」

この小学生の作文のような文章を書いたのは、いかにも頭の悪そうな女性で、彼がこの批評を面白いと褒めると、小鼻を膨らませて、自慢げな顔をした。私は心の底から失望した。こいつらは『檸檬』の凄さというものを全く理解していないのである。
早稲田の文学部でさえ、この程度の学生にこの程度の教授なのだ。そういえば、当時早稲田の現役女子大生が芥川賞を獲ったが、若い女が中年男を手玉に取る、という「当て込み小説」だった。要するに、中年の男性審査員に媚を売った受け狙いの三流小説である。この当時、早稲田の文芸部に人気が集まったといっても、内容的には商業主義に接近したポップな小説が主流であり、すでにこの時代の早稲田文芸はジャンク化していた(「J文学」のJは、ジャパニーズではなくジャンクのJである)。稲垣足穂や梶井基次郎や太宰治を信奉する私のような人間は、早稲田では居場所がなくなっていたのである。
これを機に、私の早稲田大学に対する憧れはきれいに消えた。あとは、女を抱き、酒を飲む日々に溺れていった。当時私は女性に好かれる素質があり、実際複数の占い師に「あなたには女難の相があります」と言われ、その女難という言葉を私は好意的に解釈していたが、実際、抱く女には苦労しなかったものの、相手の女性は美人だが人格障害や神経症患者が多く、性的快楽の変わりに、山ほどの苦痛を体験した。酒と女の日々は、私が大学院に合格するまで続いた。

(見性体験記より)