那田尚史の部屋ver.3(集団ストーカーを解決します)

「ロータス人づくり企画」コーディネーター。元早大講師、微笑禅の会代表、探偵業のいと可笑しきオールジャンルのコラム。
 

牧野さんの家の方に

2016年11月29日 | 思い出の記

集団ストーカー被害者の方は次のurlを押してください。(決定版が出て既に増補改訂版を購入された方には無料で差し上げました) http://blog.goo.ne.jp/nadahisashi/e/21522a074264a7eb4afb4fd7df2e6531 電子出版される可能性もあることをお知らせします。

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また「春名先生を囲む会」は私のHPに別途ページを作ったので次のURLをクリックしてお読みください。http://w01.tp1.jp/~a920031141/haruna.html に最新の「春名先生を囲む会」の写真をアップロードしています。この会の趣旨と目的に賛同されるかたは毎月第三金曜日の午後七時半から誰でもOKですから夢庵西八王子店(平岡町)に来てください。正面を右に進むと座敷がありますからその座敷で待っています。なお、料金について変更があります。お酒の飲めない人は2千円にしましたのでお酒の飲めない人もぜひ賛同者となって「春名先生を囲む会」で講義を聞いたり、また積極的に講義をして下さい。来月の春名先生を囲む会は柔道整復師の中溝誠吾氏が「気」について講演されます。興味のある方は第三金曜日7時半に夢庵西八王子店に来てください。正面から右のテーブルか座敷で開かれます。

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 今後、微笑禅の会のネット会報は中止し、年に数度の紙媒体での会報を出すことにします。私がロックフェラーほどの資産家であれば年に5千円の会費は無料にしますが、五行歌の会の主宰・草壁先生の言われる通り、お金を出さないと文化は育たないからです。本当に悟ってみたい人は次のurlをクリックして「見性体験記」をご覧ください。http://w01.tp1.jp/~a920031141/zen.html 入会された方には「微笑禅入門―実践篇」(DVD)を差し上げます。もちろん会員から質問があれば答えますので私のメルアドまで質問を下さい。レジュメも作らず睡眠時間4時間で即興で語っています。DVDはボリュームを目一杯に上げて聞いて下さい。wasaburo@hb.tp1.jp (クリックしてもメールが開かないのでコピーして宛て先に入れて下さい)

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私は早稲田大学大学院の修士課程に4年の休学を含めて計六年間在籍した。
 第一に肝臓病、第二に数千万の出資をして作った会社を親族に騙し取られた母に代わっての法廷闘争、それから余りに完璧な修士論文を構想したために原稿が書けない、という三重苦の状態にあったからである。
 私は修士二年のときから映画雑誌に膨大な量の批評や評論を書いていたので、それを修士論文に編集して「戦後実験映画論」にしようと思っていたのだが、指導教授の提案で、戦前の実験映画をテーマにしてはどうか、と言われ、方針変更となり「戦前日本における前衛映画の受容と展開」というタイトルになった。
 当初は「キネマ旬報」や「映画往来」を一次資料にして、ある程度の構想は出来ていた。また、戦前日本の小型映画運動は前衛運動でもあった、ということは知っていたので、単行本レベルでは小型運動の概要も分かっていた。
 牧野守氏と出会ったのは、もうこれ以上休学すると除籍になるという修士六年目の夏、「早稲田大学映画史研究会」の帰り道である。小型映画の話をしたところ、手を引っ張るようにして、「私私は早稲田大学大学院の修士課程に4年の休学を含めて計六年間在籍した。
 第一に肝臓病、第二に数千万の出資をして作った会社を親族に騙し取られた母に代わっての法廷闘争、それから余りに完璧な修士論文を構想したために原稿が書けない、という三重苦の状態にあったからである。
 私は修士二年のときから映画雑誌に膨大な量の批評や評論を書いていたので、それを修士論文に編集して「戦後実験映画論」にしようと思っていたのだが、指導教授の提案で、戦前の実験映画をテーマにしてはどうか、と言われ、方針変更となり「戦前日本における前衛映画の受容と展開」というタイトルになった。
 当初は「キネマ旬報」や「映画往来」を一次資料にして、ある程度の構想は出来ていた。また、戦前日本の小型映画運動は前衛運動でもあった、ということは知っていたので、単行本レベルでは小型運動の概要も分かっていた。
 牧野守氏と出会ったのは、もうこれ以上休学すると除籍になるという修士六年目の夏、「早稲田大学映画史研究会」の帰り道である。小型映画の話をしたところ、手を引っ張るようにして、「私の家に小型映画雑誌があるから来なさい」と誘っていただいた。思えば、これが不運の始まりだった。ピーター・B・ハーイ氏が「牧野コレクションに出会っていたら『帝国の銀幕』は書けなかった」と述べているが、私の場合、その膨大な資料という悪魔に出会ってしまったのである。
 高田馬場のアパートから国分寺の牧野家まで毎週通った。なぜか私が出かける日に限って雷雨になったり大雪が降ったりした。あれは神様が、牧野コレクションに手を出してはいけない、と警告を発していたのに違いない。
 行くたびに膨大な雑誌を近所のコンビニでコピーした。毎回五千円から八千円ほどコピー代に使った。その作業で膝が悪くなるほど立ち続けた。そして大抵夕食をごちそうになった。
その作業がなんと修論締め切りの一週間まで続いたのである。もちろん学内にある全ての資料はコピーし終えていた。
そのコピー資料の山を見て、これはヤバイ、と気づいた。いわゆる「資料倒れ」である。私は異常に神経質で完全主義の欠点があり、手元の資料で完成させようという割り切りが出来ず、まだまだある牧野コレクションの未コピーの部分ばかりが気になるような性格なので、頭が真っ白になってしまった。
そもそも修論締め切りの二ヶ月ほど前から頭が空回りし始めた。新しいコピーの束を抱え込むたびに論文の構想が無限に広がり収集がつかなくなるのである。 
 結果として私は未完成の論文を提出するほかなくなり、指導教授の慈悲によりやっと修了できたのだった。そういう訳で、私が修士論文を完成できなかったのは牧野さんのせいであり、私は牧野さんを怨んでいる・・・・・というのはもちろん冗談である。
 実は私は指導教授から、君にはぜひ博士課程に進んで欲しいから良い論文を書くように、と耳打ちされていた。当時早稲田の博士課程は過去五年の間一人の合格者もいなかったので、これは大変な名誉であり、私は感激に打ち震えた。普通の人間ならこの厚意を奮発の材料として論文執筆に打ち込むだろう。ところが私は普通の人間ではなかった。
 私は一人っ子で、当時70歳前後の母に仕送りをしてもらって生活していた。父は学生時代に他界していたので、一人暮らしの母が商売(ブティック)をしながら月々三十万もの大金を送ってくれていたのである。しかも親族の詐欺により貯金は底を突いていた。もし私が博士課程に進めば、母からの仕送りに甘え続けねばならなくなる。「博士万年」と言って、一定の学問を完成させて収入を得る、というところまで行くにはゴールが見えない、というのが博士課程に在籍する人間の運命なのだ(私は肝臓が悪かったのでアルバイトをする体力はなかった)。「ああ、俺は一生母親の仕送りで生きて、そして母は田舎(愛媛)で孤独死するのだろう」という思いが、強迫観念のように心を占め続けた。
さらに私は文学青年だったので、ある意味で日本最高の名文といえる次のような手紙を知っていた。以下引用する。
 野口英世の母「野口シカの手紙」

おまイの。しせ(出世)にわ。みなたまけ(驚ろき)ました。わたくしもよろこんでをりまする。
なかた(中田)のかんのんさまに。さまにねん(毎年)。よこもり(夜篭り)を。いたしました。
べん京なぼでも(勉強いくらしても)。きりかない。
いぼし。ほわ(烏帽子=近所の地名 には)こまりおりますか。
おまいか。きたならば。もしわけ(申し訳)かてきましよ。
はるになるト。みなほかいド(北海道)に。いてしまいます。わたしも。こころぼそくありまする。
ドか(どうか)はやく。きてくだされ。
かねを。もろた。こトたれにこきかせません。それをきかせるトみなのれて(飲まれて)。しまいます。
はやくきてくたされ。はやくきてくたされはやくきてくたされ。はやくきてくたされ。
いしよ(一生)のたのみて。ありまする。
にし(西)さむいてわ。おかみ(拝み)。ひかしさむいてわおかみ。しております。
きた(北)さむいてはおかみおります。みなみ(南)たむいてわおかんておりまする。
ついたち(一日)にわしおたち(塩絶ち)をしております。
ゐ少さま(栄昌様=修験道の僧侶の名前)に。ついたちにわおかんてもろておりまする。
なにおわすれても。これわすれません。
さしん(写真)おみるト。いただいておりまする。はやくきてくたされ。いつくるトおせて(教えて)くたされ。
これのへんちちまちて(返事を待って)をりまする。ねてもねむれません。



  この野口シカの手紙の文句が頭を駆け巡り始めたのである。一人の学者が生まれるには一家が犠牲になる、と言われるが、まさに私の場合も郷里の母に一生仕送りをさせ続け、自分一人が学者になって母を孤独死させる・・・・・というイメージが頭を駆け巡った。つまり私の修士論文の作業は、博士課程に入れるという高揚感と、母を不幸にするだろうという非痛感が共存し、完全にアンビバレントな心境になって自我が崩壊しかけていたのである。
それで不思議なことが起こった。締め切りの三日前、もうその頃は徹夜続きでロクに頭が回っていなかったが、とりあえずいいところまでは書けていた。締め切りぎりぎりで完成できそうな気配だった。その論文の出だしは、英語文献を引用して「前衛映画とは何か」という定義をした部分だった。原稿用紙にして30枚以上あったと思う。夜中にその部分を添削していて、一行削除しようと思った。一行削除をするには、私のワープロでは「機能1」ボタンを押して「実行」を押す。ところが何気なく「機能2」ボタンを押して「実行」を押してしまったのだ。瞬間「全文削除していいですか」という警告文が出た(はずだが)、私は「実行」ボタンをいつものように無意識に二度打ちしていた。
 嘘だろうと思った。翌日になればどうにか救済方法が見つかるだろうと思い、その夜は酒を飲んで寝た。
 翌朝起きて、昨日の出来事は夢だったに違いない、と念じながらワープロを開いたが、やはり論文の中心になる文書が消えている。メーカーに電話したが救済策は無かった。私は完全にパニックに陥った。残り一日しかない。もう翻訳している時間は無い。それでもどうにかして辻褄をつけようとして出来る限りのことはやった。が、論文締め切りの早朝、無駄な努力であることを悟った。それで一番仲のいい先輩・奥村賢氏に電話を入れて、大学院を中退します、と報告した。奥村氏は「馬鹿野郎、これから行くからそこにいろ」と言ってタクシーで駆けつけてくれ、茫然自失としている私に代わって、ワープロに残っている諸文書を印刷してくれた。
そういうわけで奥村氏と指導教授の慈悲のお陰で、未完成ながらどうにか中退せずに済んだわけだが、このボタン一つの操作ミスが人生を変えたのである。(しかし、それは私の無意識が望んでいたことなのかもしれない)
その後、批評や論文の要請があり2年ほど東京に残っていたが、ついに仕送りも不可能になり、妻子をつれて(私は大学院時代に結婚していた)郷里・愛媛の片田舎に帰ることとなった。都落ちである。
 最初の三年間は健康を取り戻すために完全休養していた。この間に車の免許を取って毎晩宇和海の堤防に行って釣りをし、太刀魚とアオリイカに関しては名人と呼ばれるようになるなどいろんな楽しいこともあったが省略しよう。要するに3年の間、70歳を過ぎた母親の収入で私と妻子は食わせてもらっていたのである。
 幸い、というか、知人の水由章氏が年刊の実験映像誌「Fs」を発行し、私はそれに「戦前日本の個人映画史」という連載を引き受けたので、田舎にいながら修士論文で書きたかったことにじっくりと取り組むことが出来た。戦前の実験映画といえば中井正一ぐらいしか知られていなかったときに、この雑誌で紹介した実験映画作家の活動は日本映画史の処女地を開拓した重要な研究だったと自負している。
 帰郷して4年目に入ったとき、突然一人の中学生が現れて、家庭教師をして欲しいと言ってきた。聞けば150人中100番前後の成績だという。それで、私の勉強部屋に相手が来る、という条件で引き受けた。たった二ヶ月英語と数学を教えただけで彼は次の定期試験でトップ10に入った。90人を追い抜いたのである。追い抜かれた友人たちが焦って次々と集まり、いつの間にか「那田塾」になった。あの塾へ行くと誰でも30番ぐらいは成績が上がる、と評判になり(実際にそうだった)、中高生合わせて80人ほど詰めかけて、街で一番人気のある学習塾になった。
 当然八畳の勉強部屋では手狭になり、母の営業するブティックを半分に仕切って塾にした。私は凝り性なので改築は全て自分で行った。柱を立て、ドアを付け、壁を仕切り、そして机も椅子も全部一人で作り上げた。
やっと母のスネカジリから巣立って貯金が出来るようになった。丁度そんな折に牧野氏が「私のコレクションは部分売りしないのが原則だが、君の情熱に免じて小型映画関係の書籍を譲ってもいい」という連絡を頂いた。125万ぶんの書籍を送っていただき、その上に分割払いにしてもらった。これで小型映画研究に関しては日本一のコレクションが手元に揃ったわけである。
 「那田塾」が7年ほど経ったときに、大学院時代の恩師から「早稲田の非常勤講師にならないか、将来は必ず君を教授にするから」という話があった。丁寧に言えば、そういう打診はかなり前からあったのだが、非常勤講師の低賃金で、借家で妻子を食わせていける筈もなく、そのことは忘れていた。しかし、学習塾の成功により家を買う頭金ぐらいは貯金があったので、上京を決意したのである。
 月に百万近い収入を捨てて、月収三万前後の非常勤講師になるのだから、それ相応に智恵を絞った。民家ではなくマンションビルを買って、そこに住みながら同時に家賃収入も得る、という方法を編み出して実行したのだった。
そういうわけで八王子のマンションに移り住んでからもう8年目になる。生活は苦しいが、(小泉構造改革の悪政により)ゴーストタウン化した郷里で小金を稼いで生きるよりも、貧乏でも知的刺激の豊富な都会で生きていくほうが、私には遥かに心地いい。幸い牧野氏の住む国分寺まで近いので、時々お会いして日本映画史の薀蓄を伺い、大いに耳学問も発展した。私は放っておくと「アヴァンギャルドおたく」に陥るので、牧野氏の大局に立った日本映画史観を聞くと上手い具合にバランスが取れるのである。
 幸い恩師の口利きで、戦前の小型映画運動に関する単著を出せるかもしれない可能性が生まれてきた。原稿は「Fs」や「映像学」に書き溜めたものがあるので実質的には8割がたは出来上がっている。恐らく来年には出版出来るだろう。これはもちろん牧野さんから譲ってもらった資料が元になっており、この出版で牧野さんに恩返しをしたいものだと願っている。思えば牧野コレクションを初めてコピーしたときから15年もの歳月が流れている。このスローペースでは私の書きたいものを書き切るには百歳ぐらいまで生きていなければならない。困ったものである。
もし私があの修士六年の夏、牧野氏と出会わず牧野さんの家のほうへ歩みを進めなかったとしたら、間違いなく私は六年ぶりの博士課程合格者としての名誉を得て、今頃はどこかの教授になっていたことだろう。しかし、私は牧野さんに出会ったことを後悔していない。逆に感謝している。この15年の人生経験は、私に映画研究という限られた分野を超え、人間はいかに生きるべきか、という本質を教えてくれた。「晴れて良し雲りても良し富士の山」というが、たとえ嵐であろうと霊峰富士は天下一の荘厳な姿で立ち続けている。逆境が人間を磨くのである。
この雑文のタイトルを「牧野さんの家のほうへ」としたのは土方巽のダンスの副題「澁澤さんの家のほうへ」のパクリである。おそらくそれもプルーストの『失われた時を求めて』の有名な一章「スワン家の方へ」のパクリだろう。澁澤龍彦の家には三島由紀夫や四谷シモン、土方巽らが集い、さながらサロンのようであったと言われているが、いうまでもなく牧野家は日本映画研究者たちのための学習塾でありサロンであった。もうコレクションは無くなったが牧野氏には在野の映画研究の泰斗として今後も後進の指導に当たっていただきたい。くれぐれも健康には気をつけて。
 (牧野守氏が日本映画に関しては日本一と言われる牧野コレクションをコロンビア大学に1億円で売った時の記念文集に載せた文章です)文中にある恩師には絶縁状を出してこの出版計画が白紙に戻ったことを付け加えておきます。