那田尚史の部屋ver.3(集団ストーカーを解決します)

「ロータス人づくり企画」コーディネーター。元早大講師、微笑禅の会代表、探偵業のいと可笑しきオールジャンルのコラム。
 

剣道上達のコツ

2016年11月08日 | 思い出の記

集団ストーカー被害者の方は次のurlを押してください。(決定版が出て既に増補改訂版を購入された方には無料で差し上げました) http://blog.goo.ne.jp/nadahisashi/e/21522a074264a7eb4afb4fd7df2e6531 電子出版される可能性もあることをお知らせします。

_____________________________

また「春名先生を囲む会」は私のHPに別途ページを作ったので次のURLをクリックしてお読みください。http://w01.tp1.jp/~a920031141/haruna.html に最新の「春名先生を囲む会」の写真をアップロードしています。この会の趣旨と目的に賛同されるかたは毎月第三金曜日の午後七時半から誰でもOKですから夢庵西八王子店(平岡町)に来てください。正面を右に進むと座敷がありますからその座敷で待っています。なお、料金について変更があります。お酒の飲めない人は2千円にしましたのでお酒の飲めない人もぜひ賛同者となって「春名先生を囲む会」で講義を聞いたり、また積極的に講義をして下さい。今月「春名先生を囲む会」でも病院でも治らなかった膝や肩の痛い人をその場で治すそうです。心当たりのある方はぜひ参加して下さい。

_________________

 今後、微笑禅の会のネット会報は中止し、年に数度の紙媒体での会報を出すことにします。私がロックフェラーほどの資産家であれば年に5千円の会費は無料にしますが、五行歌の会の主宰・草壁先生の言われる通り、お金を出さないと文化は育たないからです。本当に悟ってみたい人は次のurlをクリックして「見性体験記」をご覧ください。http://w01.tp1.jp/~a920031141/zen.html 入会された方には「微笑禅入門―実践篇」(DVD)を差し上げます。もちろん会員から質問があれば答えますので私のメルアドまで質問を下さい。レジュメも作らず睡眠時間4時間で即興で語っています。DVDはボリュームを目一杯に上げて聞いて下さい。wasaburo@hb.tp1.jp (クリックしてもメールが開かないのでコピーして宛て先に入れて下さい)

___________________________

私は10歳(小学4年)から剣道を始め、14歳(中学2年)の時には5段以上の腕前になっていた。その年齢で、5年間で5段以上というのは非常に珍しいことだと思う。
より正確に言えば、当時は規則上中学での最高段位は1級までだったので、私が公式にもらった段位は1級である。しかし、3段の相手に二度対戦して、二度とも二本先取で勝ち、5段の師範にも勝ったたという事実がある以上、確かに5段以上の力が付いていた。
剣道をやっている若者にぜひ読んで欲しい。もちろん5段以上の人は既に私の体得したコツは分かっているはずだから読む必要な無い。もっとも、剣道少年物語として読まれるなら、結構面白いことが書いてあるはずである。

私は子供の頃、体格もよく成績もよかったが、一人っ子で過保護に育ったために気が弱かった。だから、根性の悪い苛めっ子に悪戯を受け、よく泣いて帰った。母は女丈夫で、男は勉強より度胸だ、という考え方だったので、恐らく母の勧めで近くの警察道場に通うことになった。それが4年生のときである。
 その道場の師範は元壮士だった。壮士と言えば聞こえがいいが、要するにヤクザ者で、私が生まれた頃に母が経営していた料亭にやってきて、「誰の許可を受けてこの商売をしているんだ」と凄んだヤクザがこの男である。母は、「なんでお前の許可がいる」と強気に押して追い返したらしい。母は軍属で満州に渡り、人が目の前で殺される様を何度も見ているのですっかり度胸が据わり、道で母に声をかけられると心臓がドキッとすると言われるぐらいに、気迫の強い女性だった。

 そういうわけで、もともとヤクザ者だったのだが、どういう転機があったのか、改心して警察道場の師範になっていた。だから、荒っぽい古流剣道を学んだ。
例えば闇稽古である。道場の窓は全部戸板になっていて、それを閉めてしまうと真っ暗になるのである。そこで、何十人もの小学生がルール無しで打ち合う。人の気配を感じたら滅茶苦茶に打ち込む。面も胴も小手も無い。足を打っても構わない。
それから、通常の試合の仕方も変わっていた。片方が竹刀を落とすとルール上は「待て」をかけて竹刀を拾って構えなおし、再スタートすべきなのだが、この師範は「両者組み合え」というのだ。これは野戦になったときの実戦を想定したもので、組み合い、相手を倒し、面を脱がしたほうが勝つのである。つまり、脇差で敵の首を切った、という意味だ。
そういう荒い稽古を受けて、少しずつ私の心も強くなった。


もっとも、そういう師範だったから心遣いも荒く、私が最初の一週間目ぐらいに、試合中に足裏の皮がペロリと剥けて、丁度草履を履いて歩くように、垂れ下がった皮を足の裏にブラブラさせて、ビッコを引き、顔をしかめているのに、怪我だと気づかず、「那田、痛そうな顔をするな」と怒るような人物だった。それで足の裏を見せて、やっと試合を止めて包帯を巻いてくれた。その上「怪我なら怪我と何故言わない」と怒るような人物だった。
そんな具合だから、私はこの師範を慕えなかった。しかし着実に心と体力は強くなってていった。小学6年の時には、全小学生の中でトップ3の腕前になっており、学校で体力測定をしたら、背筋と握力は学年一位だった。
もうその頃には、私に対する苛めは消えていた。

中学に上がるとき、東京に某宗教系の中高一貫教育の学校が創立されたので、受けてみたら競争率4倍を合格した。両親とも単身上京するのに反対したが、その学校は教員に東大出身者を集め、エリート教育をする、という謳い文句だったので、私は両親の反対を押し切って故郷愛媛を巣立った。

 そしてさっそく剣道部に所属した。中学一年の部員は20名ぐらいだっただろうか、半分は初心者で半分は経験者だった。それで全員で素振りをしたのだが、どう見てもみんな筋が悪い。
素振りは振り上げたときに、切っ先が尾てい骨の真ん中に軽く当たり、振り下ろすときは、雑巾を絞る要領でピシッと止める。巧くなると振り切って止めたときに、竹刀が軋んでビシッという音がする。つまり、振り上げたとき、振り下ろしたときに軽く音がするのがいい素振りなのである。それぐらいのことは当たり前だと思っていたから、みんなの無駄な力の入った素振りを見ただけで、これはレベルが低いな~と感じた。
考えてみれば、四国山脈の奥に生まれ、ヤクザに3年間仕込まれた私は、都会の剣道愛好者と比べると、いわば山猿みたいなもので、頭一つも二つも抜き出ていたのである。

 それで、「かかり稽古」が始まると妙なことになった。かかり稽古というのは、二十人が輪になって、その真ん中で先ず二人が試合をする。片方が一本取ると、負けたほうが退き、輪になっている中でやる気のある人間が輪の中に飛び込んでいく。残ったほうは直ぐに体勢を整えて新しい相手と戦う。これを延々と繰り返すのである。すると強い相手も息が上がってしまい、いつかは負ける。そうして全員が稽古できるのがこの「かかり稽古」の利点なのだ。
ところが私がこの稽古に参加すると、いつまでたっても私は負けない。20人一回りしても一本も取られない。その様子を見て5段の師範が「君は高校生と一緒に練習しなさい」と言った。

 それで一年生の始めの頃から私は例外として高校生と混じって練習することになった。
 しかし、ここでも私の相手になるのは3段の主将だけである。他の高校生は相手にならなかった。3歳年下にポンポン取れられるものだから、相手は顔を真っ赤にして突っかかってくるのだが、スキだらけでスピードも鈍い。負けるわけがなかった。
それで私は3段の高校生の主将と専ら稽古を続けることになった。ほぼ互角だった。私の才能を師範が面白がって、「真剣勝負しよう」と言って対戦した。
構えてみるとさすがにスキが無い。打ち合いながら相手の癖を見ていると、左の小手(逆小手)に若干スキが生まれる。中学や高校で「逆小手」など教わらないのだが、そこにしかスキが無かったので、打ち込んだら決まった。五段の師範が「参った」と言った。「まさか逆小手に来るとは思わなかった」と嬉しそうに笑っていた。

そうそう、一番役立った稽古があるので教えよう。私は「小手→面の二段打ち」は得意だったが、胴は苦手だった。それで次のようなルールを作って稽古した。相手は私の面しか打ってはいけない、私は相手の胴しか打ってはいけない、というものである。
これは抜群の効果があった。私は相手が面しか狙わないのが分かっているのだから、面だけを気にしておけばいい。だから相手が面を決めるのは殆ど不可能である。逆に相手は胴だけ防御すればいいのだから、そんな相手に私が胴を決めるのは不可能である。
その不可能な状況を可能にする練習なのだ。これは面白くて毎日続けた。
 ある日、「胴を狙うからダメなんだ。相手の右肩を切り落とすつもりで打ってみよう」と気づいた、あるいは師範がそう教えてくれたのかもしれない。とにかくそれに気づいたとたん面白いように決まり始めた。横に打つのではない、縦に切るのが胴打ちのコツだと分かった。

そういう具合で、普通の中学生とはレベルの違うところで練習をしていた。
全てのスポーツ(剣道はスポーツではない。殺し合いである)の極意は「無駄な動きは一切しない」「リラックスする」ということに尽きる。
それで、私は普通の「面抜き胴」は理屈に合わない、と思い、一人で自分流の面抜き胴の練習をしていた。
具体的に言えば、普通の面抜き胴は、相手が面を打ってきた時に竹刀を左上に払い、左にUの字を描いて、その遠心力を利用して相手の右胴を打つのだが、理屈で考えると、その「左にUの字を描く間の0.1秒ほどの時間が無駄」なのである。
そこで私は、面を打ちに来た相手の竹刀を右上に払い、手首のスナップを利かして相手の左胴方向に抜けながら、つまり自分の右足を踏み出す瞬間に相手の胴を切る、という練習を繰り返した。私の稽古相手になった男は私がなぜそのような練習をしているのか意味が分からず不思議な顔をしていたが、この「那田流面抜き胴」の方が合理的なのである。(合気道ではこの徹底的な合理主義のことを理合(りあい)と呼ぶ)
映画ファンなら黒澤明の「椿三十郎」」の最後の決闘場面を知っているだろうが、三船敏郎は左の逆手で剣を抜き一瞬に相手の左胴を切る。これは実に理に適った方法である。
ちなみにこの殺陣をつけた天才殺陣師・久世竜は偶然にも私の故郷である愛媛県東宇和郡(現・西予市)野村町の生まれで、故郷で唯一の有名人である(地元の人はバカだからこのことすら知らない。私が故郷に帰った時に役場の観光課にこの事実を教え、記念館を作るようアドバイスしたのだが、未だに実行していない。こういうバカな町はサッサと滅びればいい)。

格技は「心・技・体」という。私の考えでは、体と技が基本中の基本で、心は後でいいと思う。
体と言っても、腕立て伏せや腹筋などの所謂「筋トレ」は全く必要ないだろう。剣道には剣道の筋肉があればいい。私は、毎日の稽古が終わり、寮に帰ったあと、寝る前に400本の素振りをした。最初の200本は左手だけで、残り200本は両手でする。ついでに、二段打ち、三段打ちのスピードを極限まで「早く」する練習を欠かさなかった。
技も、師範が教えてくれるものだけでなく、本を読んで色々研究した。「横面」「起き上がり面」「担ぎ面」、鍔ぞり合いになったときのツカの使い方、さらに「引き技」、わざとどこかにスキを作っておいて相手を誘い、「機の先」で打ち負かす方法、などなど、自分なりに工夫を重ねた。
剣道は、相手のスキを見る「眼」を作ること、そのスキを打ち込む「竹刀のスピード」をつけることに尽きる。そのスピードは固い筋肉をつけるより柔らかい筋肉から生まれる。だから素振りを繰り返すのが一番いいのだ。

中学1年の段階で私が体得していたのは次のようなことである。箇条書きにしよう。

1、重心はヘソの辺りに、高めに置く(下に置くと体捌きが重くなる)
2、切っ先は相手の左喉に向け、両腕はゆったりと空気を抱くように構える。
3、力を入れるのは打つときだけ。普段は力を抜いておく。
4、最も大切な指は左手の中指、薬指、小指である。この三本でしっかりと握り、人差し指と親指は軽く添える。右手は竹刀の角度をコントロールするだけで、打つ瞬間以外は力を入れてはいけない。
5、面も横面も、小手も胴も、全ての技は左手が体の中心線を通らねばならない。つまり、左のこぶしは、鼻からヘソを結ぶ線の上を上下するのみ。
6、後ろに引いた左足のカカトを浮かすのは当然だが、右足のカカトも浮かす感じで構える。重心をヘソに置く意味と同じだが、風が吹いたら流れる柳の葉のように、自在に動ける状態を作っておくこと。
7、きちんとした構えで、間合いを取っていれば簡単に打ち込まれるものではない。相手が打ち込めず自分が打ち込めることの出来る間合いを取ること。具体的に言えば「一足飛び」は徹底的に稽古すること。
8、相手の呼吸を見ること。相手が息を吸っているときにスキが生まれる。呼気でなく吸気の瞬間に打ち込むこと。
9、稽古の前に「剣道はスポーツではない。殺し合いである。一本とられたということは、その時点で私が死んだことに等しい」と心に言い聞かすこと。

実は、この9番の、所謂「殺気」を獲得してから私は強くなったし、稽古も真剣にできた。前に言った「体と技が基本で、気は後でいい」と言ったことと矛盾するようだが、私の場合、この殺気がある日突然分かった。この殺気が出ないと本当に強くはなれない。殺気と怒気は違う。怒気は頭に血が上る状態を指すが、殺気は腹の奥に「冷たい気迫」を抱くのだ。「この試合は殺すか死ぬかである」と、無意識が最大限の能力を発揮できるように静かに心がけるのである。
こう言い直そう。逆に殺気がいくらあっても体と技が無くては勝てない。体と技が出来た上に殺気を知れば無敵となるのである。

その学校は毎年秋に「校内剣道大会」を催していた。部員だけでなく、誰でも飛び入りOKというルールである。
これは実に面白い体験だった。腕っ節に自信のある男たちが飛び入りで相手になる。喧嘩の強い人間を相手にすると、剣道として見ればもう滅茶苦茶なのだが、初心者は相手の気迫(怒気)に押されて、負けてしまう。経験者でも気が弱い人間はそういう相手に負ける。
そういう相手が私と当たった。「馬鹿馬鹿しいから早く決めよう」と思って、「始め」の号令と共に、「小手面二段打ち」をした。「面あり」!!!一秒で決まった。しかも最初の小手が、丁度防具の縫い目の部分(手首の関節の真上。ここに当たると痛い))に鋭く当たったものだから、振り返ると相手は竹刀を落としていた。見ていた高校の先輩が「那田、少しは手加減してやれ」と声をかけてくれた。
そんなわけで、中学一年、二年と続けて、全ての試合で一本も取られず全て二本先取で優勝し、学園長から二年続けて褒美の竹刀をもらった。当時70年安保の真っ最中だったので、「機動隊が来ても、那田君がいるからこの学校は大丈夫だね」と冗談を言われた。

3年生になった。校外学習で歌舞伎座に行き、当時の尾上辰之助が演じる弁慶の飛び六法を見たときに、鳥肌が立った。芸術のパワーに触れた瞬間だった。
それで私は剣道部を退部し、演劇部を創立して脚本を書き、演出をし、自らも演じて文化祭などで公演した。
実は私はその学校に入って間もなく、その学校が取り組む宗教教育に疑問を持っていた。私は日蓮こそが唯一仏であり、代々の法主上人の教えを日蓮の教えとして仰ぐ、という真っ当な考えを持っていたが、その中学では、現代の日蓮は創立者であり、創立者の教え通りに動くロボットのような人間を育成した。創立者本人にも私は何度も会い、みんなは熱狂していたが、私は「いかがわしいな」という感想しかもてなかった。
そういうわけで、このままその中学校を卒業しては自分の人生の汚点になるのではないか、という思いが常によぎるようになった。
そういう状態のときに夏休みで帰郷し、友人達と遊んでいると、遥かに一般人のほうが純粋でまともである。それでその宗教系学校創立以来最初の自主退学をしたわけだ。

 というわけで私は中学3年の2学期から郷里の中学に中途入学し、地元の高校に進んだ。
その高校には演劇部は無かったので、文芸部に入ったら一年生なのに部長になった。2年生になって、体を動かしたくなりバスケ部に入った。すぐにコツを掴んでポイントゲッターになった。この頃体力測定があり測ったところ、握力、背筋力、垂直高飛びは学年一位だった。垂直飛びは目盛りの最上段の上まで手が伸びるので測定不可能だった。
バスケ部は「練習が一番厳しい部活」で有名で、一回の練習ごとに体重が3~4キロ減った。
 それで、面白いことにその高校では、部活とクラブ活動との二つに分かれていて、部活は毎日やるのだが、クラブ活動は希望者が週に一度行うのである。それでクラブ活動に剣道部を選んだ。

私が高校に入って剣道部に入らなかった事情は色々ある。歌舞伎に出会って以来、体育会系の汗臭い世界が嫌になったこと。近視が進んだこと。それからこれが最大の理由だが、中学時代は「三六(サブロク)」という竹刀を使い、高校になると「三八(サンパチ)」という少し長く重い竹刀に変わる。私は三六での剣道を極めていたので、三八になると自分のイメージ通りの剣道が出来なくなったのである。むろん、素振りを繰り返せば慣れてくるのだが、私はもう芸術の世界にどっぷりと入り込んでいて、今更剣道を続ける気はしなかったのである。
 
 そういうわけで余興のつもりで剣道クラブで週に一度別の汗をかいた。
主将が三段で、二度対決した(当時の規則では高校生が取得できる最高段位は三段までだった)。彼の父親は剣道場を経営し自ら師範として教えていたと記憶している。
対峙してみると、なるほど堂々とした格の高い構えでスキがない。こういう相手と正攻法で戦うと試合がもつれる。それでフェイクをかけた。面を打つ振りをして胴を打つ。わざと小手にスキを作っておいて相手が打ちに来た瞬間、面や小手を打つ(「小手抜き面」「小手抜き小手」)・・・・・この手に相手はまんまと引っかかった。二度対戦して二度とも二本先取で私の勝ちである。これで私は少なくとも四段以上の実力があること確信した。
剣道クラブに入ったのはもう一つ隠れた理由があった。
そこの部長が、大嫌いな数学教師だったのである。
私は、典型的な文系人間のように誤解されるが、実は高校二年の途中までは数学は大好きだった。努力家ではないので普段の定期テストなどでは一番は取れないが、応用力が試される全国統一模試では決まって数学で一番を取った。
ところが2年生になって担任がその数学教師になってからヤル気がなくなった。彼は上から目線で尊大な態度を取るからだ。おまけに二年になって三角関数に進むと、公式を丸暗記してそれに当てはめて解答するだけの、本当の意味での論理性を問わない、ただのゲームになってしまう。
それで私は数学はやらないことにした。教師は私を睨む。その教師をボコボコにできるのがクラブ活動の時間なのである。
よせばいいのに、剣道は素人なのにも関わらず、その数学教師は防具をつけて指導者ぶっている。それで私は試合を申し込んで、わざと「痛い打ち方」をしてやるのだ。前述したように、小手は防具の縫い目の部分を打つと非常に痛い。面も普通は頭の上の布の部分と顔の前の金具の部分の境目を叩くから痛くないのだが、わざと布の部分だけを狙って打った。これは痛い。しかも打ち方にコツがある。上達してくると「打つ」「引く」の動作が、ちょうどボクサーのパンチように速くなる。だから上級者に打たれると余り痛くない。下手な人間は力いっぱい振り下ろして、押さえつけるようにして、素早く引かないので、痛みが増す。
それで私も初心者の撃ち方をして、ポン、ではなく、バチンと打ってやるのだ。数学教師は私が試合を申し込むたびに、涙目で打たれ続けた。その報復が授業のときに待っているのである。まあ、一言で言えば、小さな人物であった。

 そんなわけで私は剣道に関しては天狗になっていた。映画版「ドラエモン」では、いつもはダメ人間のノビタが射撃の名人になって「僕は射撃の天才だぞ」というが、私も「俺は剣道の天才だぞ」と思っていた。
ところがである。凄い人物を見た。当時テレビで「ビックリ人間ショー」とかいう番組をやっていた。そこに、「山に篭り数年修行した剣道の達人」が登場した。見た目はまだ二十代前半のようだったが、目付きが異様で、ちょっと目にはキチガイのように映った。
まず桶に一杯の水を張ってリンゴを一個浮かべる。それを水をこぼさずに抜き打ちで二つに切る、というものだ。しゃがんだ男は一瞬にしてリンゴを真っ二つに切り、瞬時に刀を鞘に戻した。少し水が零れたが、審査員の柴田錬三郎が即座に「お見事」と声をかけた。それを見ていて、「俺は居合いはやったことはないが、練習すればあれぐらいはできる」と思った。ところが、次の技が凄かった。
青竹を支えるために二組の椅子を置く。その上に豆腐をそれぞれ二丁重ねる。その上に青竹の両端を置いて、「豆腐を崩さずに木刀で青竹を切る」というのである。まさか、と思った。
そのまさかが本当だった。彼は青竹を木刀で叩き切り、しかも両端の二段に重なった豆腐は動かなかったのだ。正確に言えば豆腐の一つは崩れそうになったがその男が豆腐を元に戻したのである。この場面は再度スローモーションで映された。木刀が当たった瞬間に竹は一枚の紙切れのようにペッタンコになり、その中心が爆発して綺麗に青竹が二つに切れていた。

 これには参った。それで早速私も近くの竹やぶに行って適当な青竹を切り出し、木刀で切る練習をしてみた。私は振り落とす剣のスピードにも力にも自信を持っていたが、とても切れない。力をいれ、早く振り落とすほど、逆に青竹の反発力に弾かれて手が痺れるだけである。ああ、天才とはこういうものか、と思った。私は天狗の鼻をへし折られた。

 ところがである、つい先週、つまりこの達人の技を見て35年後の話だが、藤平光一の本を読んでいて、同じことが出来た、と書いてある。結論を先に言えば「気」で切るのだ。
藤平氏は、合気道創始者で伝説の男・植芝盛平に師事して植芝を超え、ヨガの行者にして哲人・中村天風に師事して天風を越えた、天才型の合気道家である。中村天風に免許皆伝の最後の試練として試されたのが、青竹の両端を紙のワッカに掛けたのを、紙を破らずに、青竹だけを木刀で切る、というものだった。藤平氏は、「先ず気で切ってから木刀で切った」と書いている。
なるほど、と思ったが、いくら読んでもどうすれば気が出るのかは分からない。いや、リラックスすればいい、とは書いてある。しかし凡人がリラックスしたからと言って出来るものではない。おそらくこの技が使える人間は日本に三人もいないだろう。上には上があるものだ。

以上が剣道少年の物語である。初心者には役に立つと思うので、よく読んで覚えておいて欲しい。

後日談を書こう。剣道をやらなくなって40年近く。家には竹刀も木刀もあるが、素振りをしたことは35年間一切無かった。それで先日、木刀を持って近所の公園に行き素振りをしてみた。驚いたことに、振り上げると尾てい骨の真ん中にピシッと切っ先が当たり、スカッと振り下ろせる。全く衰えていない。それで二段打ちも試してみた。なんとスピードも衰えていない。気持ちよくて汗をかくまで木刀で遊んだ。
これはどういうことだろう、雀百まで踊り忘れず、というが、ちょうど自転車が乗れるようになれば、何十年経ってもコツを覚えているのと同じ理屈だろうか。それから無駄な力を入れない、むしろ力を抜いて、大事なときだけ瞬間に力を入れる、というのが極意だから、60歳になっても若い頃と同じ動きが出来るのだろう。

 この腕なら、仮にヤクザが日本刀で切りかかってきても、棒さえあれば簡単に取り押さえられるな、と思った。なにをやるにしても極めないといけない。(ちなみに、宮本武蔵は飛んでいるハエを箸で掴んだと小説では書かれているが、私は箸では捕まえられないものの、飛んでいるハエを物差しで打ち落とすぐらいのことは今でも出来ます)
(見性体験記より)