那田尚史の部屋ver.3(集団ストーカーを解決します)

「ロータス人づくり企画」コーディネーター。元早大講師、微笑禅の会代表、探偵業のいと可笑しきオールジャンルのコラム。
 

思いつくまま雑談します

2012年10月24日 | 雑談
もう夜の11時、フラフラですが、今日中にブログを更新しないと、という強迫観念に駆られて仕方なく書いている。

昨日の「ロータス文化学院」にも書いたし、「自作自演のソフト」かな?にも書いたように、ネット犯罪は物凄いスピードで増加しており、警視庁も中傷ぐらいでは動かない。殺人や施設の爆破予告でもしない限りは。そうすると行政書士、司法書士、弁護士、あるいは本人訴訟で対抗するしかない。
 それでもカルト系や粘着気質の人間は、次々と中傷を書いて来るので、一々相手にしている場合、日常生活が出来なくなる。読者の目を信じて無視が最上策だが、そうも言ってられない場合もある。暇なときにユックリと妙案を考えてみようと思う。

これは私個人の性格にもよるが、映画批評を盛んに書いていた時代もしつこく議論を吹っかけてくる人間がいた。要するに「下手で見るに値しない」作品に関しては、無視に限る、と今は思っているが、昔は真面目に批評していたので、どんなに理屈が背景にあっても下手なものは下手、と書いてしまうと、延々と粘着された。
 アーチストというのは傲慢の塊のような部分が必ずあるので、メンツを潰されると火病のようになるわけだ。「確かに下手でした。理屈ばっかり言ってすみません」などと反省する人間は一人もいない。

これは芸術における「距離」の問題だとされている。
作るときは作品の中に没頭する、が、自分でダメ出し(冷静に批評する)ためには、作品から離れて、「あ、ここはクドイな」「ここは説明が足りないな」「ここはリズムが悪くて、ここは色合いが変だ」と、クールに自分と作品との間の距離をとらねばならない。

この距離が取れない人間は自我の万能感に包まれてしまい、冷静に反省することができない。するとドンドン作品が荒れていくから自滅する。

話が飛ぶようだが、美人、美男、というのも結局は他人が決めるものであり、いくら自分で自分がイケメンと思っていても、人が認めなければ意味が無い。
 日本映画の研究に来たアメリカの聴講生が「なぜ昔の日本の映画女優はブスばかりなのか?」とゼミで質問したら、教員が「昔は映画は地位が低かったので一流の役者が出なかった」と答えた。が、質問も答えも間違っていると私は思う。
 「美に普遍性がない」というのが一番正しい答えだ。美しさというのは時代背景によって物凄いスピードで変化する。戦前の美人と戦後の美人では遥かに異なっている。

また話が飛ぶが、凄く面白いのは、女性が洋服を買うときの迷い方だ。この襟が気に入らない、ボタンが大きすぎる、この赤い柄が派手すぎる、等々、人生の大問題でもあるかのように迷っているが、マネキンに着せるとどんな洋服でもさまになる。
 でも、人間が皆利口になって無駄な買い物をしなくなったら日本経済は潰れてしまうから、大いに見栄は張ったほうがいい。

では。